第50話 失踪(4)

胸の中に広がる不安にかきたてられた聡は無駄だとわかっているのに、将が住んでいたマンションに自転車で来てしまった。

北風に逆らって急いで自転車をこいだので、目に冷たい空気が染みて、涙がまた出た。

曇天の下、マンションがそびえている。

聡はマフラー姿のまま、将の部屋のあたりを見上げた。

と、ちょうど住人が出てきた。その隙にふらふらとオートロックのエントランスをくぐる。

聡は無意識に将の部屋を目指してエレベーターに乗っていた。

エレベーターを降りて廊下に出ると……部屋の前に人影があった。

――将?

聡は一瞬期待したが、違った。背丈も髪形もまったく違う。

その男は振り向いた。まだ若い男性だ。

短く刈り込んだ髪は黒く、今時の若者にしては眉が太くきりっとした古風な顔立ちだ。

ジーンズと地味なジャケットを着て、バックパックを持っている。

「……あの」

男は聡に話し掛けてきた。将の部屋を示して問い掛けてくる。

「ここに住んでいた方は、もう引っ越したんですか?」
「……わかりません」

不審な答えだと聡は自分でも思った。男は少しけげんな顔をした。それを払拭するように

「私もわからないから、来てみたんです」

と付け加えた。

「そうですか……」

男はあきらかに肩を落とした。

「何か御用だったんですか?」
「あ、いえ。たいした用じゃないんです。すいませんでした」

男はぺこっと聡に頭を下げるとバックパックを背負い、エレベーターへと小走りで走っていった。

聡は、男の背中を見送ると、10Fの廊下から広がる景色を見下ろした。

マッチ箱のような下町の家々。この景色のどこかに将がいると信じて心で話し掛ける。

――将。誰かお友達が来てたよ。どこにいるの? ねえ将……。

さっきの男が道をいくのが小さく見える。

そのまま、マンションのすぐ下をのぞきこむ。

高さが目に見せる圧迫感が胃をつきあげるような感覚となって迫る。

心臓が一瞬どくん、と音をたてる。

――まさか。

将はまさか、例えば、こんなところから飛び降りてないだろうか……。

自分も引き込まれそうになって聡は軽く恐怖を覚える。

ふっと湧き出たような、飛び降りたい衝動に抗うと、聡はエレベーターに駆け込んだ。

――将。お願い。生きていて。

聡は、どこにいるとも知れない将のことを祈るしかできない。

 

 

 
重い足取りで自転車をこいで、ようやく家の近くまで帰ってきた。

角を曲がろうとしたそのとき。聡はちょうどそこから出てきた人とぶつかりそうになった。

あわててブレーキをかけたおかげで、人とはぶつからなかったが、聡のほうが派手に転んだ。

「痛たたた」

聡は地面に腰をしこたま打ちつけてしまった。

人のほうは転びもしなかったらしく、声をかけてきた。

「大丈夫、ですかな?」

多少しわがれた声はずいぶん年配のようだった。

仕立てのよいコートを着ていて、帽子の下は総白髪、これまた高級そうなステッキをついている。

「……大丈夫です。そちらは大丈夫ですか」

聡は腰をさすりながら自転車を起こした。

「なあに……。少し驚いただけじゃ。心臓の訓練によい」

老人はふぉっふぉっと笑った。丸眼鏡の奥の顔には深い皺がきざまれている。

「どうもすいませんでした」

聡は頭を下げた。

「いいんじゃ。気をつけてな。あきらさん」

聡は頭を下げて自転車にまたがると、あわててその場を立ち去った。

気が動転していた聡は、初対面の老人が自分の名前を呼んだことにまるで気付いていなかった。

 

 

 
鷹枝康三は、約束の時間から30分遅れてレストランの個室に現れた。

「わざわざお越しいただきまして恐縮です」

立ち上がって康三を迎えたのは、荒江高校を経営する荒江学園の理事、そして校長だ。

閣僚としては若手の康三は、会合の場として、料亭などより、レストランの個室を好んだ。ここなら、料理を食べずに、コーヒーだけの利用も許されるという利点もあるからだ。

ギャルソンがコーヒーを素早く持ってくるのと同時に康三は口を開いた。

「時間がない。ご用件だけを伺いましょう」

「はい。……実は息子さんの将くんの件ですが……」

「あれは、2学期いっぱいで中退させてアメリカへ留学させると申し上げましたが」

「その件で、もう一度お願いがあるのです……」

理事は満面に笑みを浮かべて、康三を見上げた。

 

 

 
会合を終えた康三は、車の後部座席で考え込んでいた。

荒江学園の理事の提案は、政治的には悪くはない話だと思う。

――さて、どうしたものかな。

車は自宅前にさしかかったが、いつもと違う位置で停止した。

「どうした」

康三は運転手に少し尖った声をかける。少しでも合理的でない行動は康三のカンにさわる。

「は……あの」

困惑する運転手の声に、康三は運転席ごしに前を見た。

自宅玄関前に、漆のような艶を乗せた黒塗りのクラシックカーが止まっている。

――あれは。

それを確認した瞬間、康三はドアから転がり出ると、黒塗りの車に近寄って康三自らドアを開けた。

「お、お祖父様!どうなさったんですか」

総白髪の――さっき聡にぶつかりかけた老人がシートに座っていた。

老人はドアがあくなり、康三にどなりつけた。

「康三!話があって今来たんだ!まったく親子そろって100歳の年寄りをこきつかいおって!」

この人こそ、康三の祖父、将には曽祖父にあたる鷹枝巌(いわお)・元外相である。

 

 

 
転んだ腰に多少のきしみを抱えながら、聡はなんとか家まで戻ってきた。

階段をあがろうとして、郵便ポストに新しい封書を見つけた。

差出人も宛名も書いてない、真新しい封筒はしっかりと糊付けしてある。

よくある広告かと思って一瞬、破り捨てようとした聡は、ある予感を感じて、封を注意深く開けた。

そこには、封筒いっぱいの幅で、聡が好きな大御所のフィルムコンサートのチケットが入っていた。

コンサートの日程は24日、クリスマスイブになっている。メモが一緒にひらりと出てきた。

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○○前で17時30分に待ってる。

来れないなら、もうあきらめる。

      将 

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すでに懐かしい将の文字だった。