第57話 ホテル(2)

将は博史のおもいがけないセリフに思わず振り返って聡を見た。

ちょうど同じように驚いた聡がよりかかっていたシートから身を起こすところだった。

目があった。

二人の視線の一瞬の邂逅を博史は見逃さなかった。

聡は博史のほうに向き直ると

「何で?急に?」

と訊いた。なんとなく、そういうことを言われるかも、と予想はしていたが、この状況でいわれるとは……。

「何か、悪いこと言ったみたいだなぁ」

博史は笑いを含んだ声で答え、聡の髪を撫でていた右手を自分の頭に持っていった。

その目だけが……明るい調子のセリフとかけ離れている。その目に気おされて聡は

「いや、そうじゃないけど……」

と下を向いた。将も後ろに意識を飛ばせたまま前を向くしかない。

「後で二人になったら話すけど、いろいろと事情があってね」

『後で二人になったら』今夜絶対に博史は聡を抱くつもりだ。将は思わず瞳だけが後ろを見ようと右に寄ってしまう。

――絶対に、何があっても邪魔してやる。

助手席で将がそんなふうに悶々とした思いを抱えていると知っているのか、

「賛成してくれるだろ。前からアキも早く結婚したがってたことだし」

と博史は二人にプレッシャーをかけるように付け加える。

そのとき、タクシーは○○パークホテルに滑り込んだ。

 

 

 
○○パークホテルは特に新しいわけでも、斬新なデザインでもなく、派手な設備やテナントがあるわけでもないのに、女性誌などで行われる「有名人に聞いた好きなホテル」などといったアンケート企画に必ず名前を連ねるホテルだ。

「垢抜けないけどなんとなくゆったりとした雰囲気がいい」

などと誉められている記事を聡もサロンで読んだことがある。

その明るすぎない吹き抜けのロビーを聡の手を引っ張るようにして博史は突っ切った。将のことは無視しているかのようだ。

引っ張られた聡はときどき将をすがるように振りかえる。

こんなところまで将が付いてきたのは、聡のためだけだ。

奥のほうにブライダルコーナーがある。

クリーム色を基調としたここだけは、ひどく明るい印象で、将は足を踏み入れるのが気恥ずかしいほどだった。

博史はそんなことはまるで気にしないように、毛足が長く足が沈む上品なピンク色のカーペットを踏み込んだ。

「ドレスの試着はまだできますよね」

博史は、笑顔で控えている受付の女性に申し出た。

『クリスマスにドレスの試着をしてみませんか』という案内があるのを将は見つけた。

「ほら、すごいだろ」

博史は無邪気に聡をドレスルームに連れて行った。そこには壁にぐるりと何十着、いや百着を超えるドレスが下がっていた。

将はあたりを見回して圧倒された。ウェディングドレスが白だけでないことを将は初めて知った。

案内の女性が、ここにあるのはすべてブランド物だと控えめに告げる。

「好きなの着ていいよ。……これなんか聡に似合うんじゃない?」

博史が選び出したのは、シンプルだけど複雑な光沢の織りが豪華な真珠色の一着だった。

「あ、あたし、まだいいわ……」

聡は遠慮するふりをして、逃げようとした。

「何で」

博史が無邪気ながら、絶対に逃がさないという声をあげる。

「だって……」

「せっかく来たんだからさ。鷹枝くんだっけ、……も見てみたいだろ?」

いきなり将は自分に話をふられて、とまどった。

困惑する聡を見て『どうでもいい』と言ってもよかったが、ここはそういう雰囲気ではない、というのは将にもわかる。それに好奇心もあった。

「アキラ、着てみろよ」

といつもどおり呼び捨てにしまってから、聡の目が見開いたのに気づいた。

――やべえ。『先生』だった……。

博史のほうを恐る恐る確認したが、彼は気づいたのか気づかないのか軽く笑みを浮かべたまま

「ほら、ね?」

と聡に優しくかつ、絶対的権力をもって向き直った。

聡はスタッフに促されて、博史が選んだドレスと共にフィッティングルームに消えた。

 

 

 
聡を待つ間、ソファーを勧められた二人の男は互いにそっぽを向いたまま、話すこともなく沈黙していた。そんな気まずい空気を悟ってか、お茶を持ってきたスタッフが

「お式の予定は?」

と博史に聞いた。

「そうですね。3月か4月を考えているのですが」

――ウソ!もう半年ないじゃん。

博史を、将は思わず見てしまった。博史は将がこちらを向くのを予想していたように構えていた。

「まあ、もう、すぐじゃないですか」

「ええ。そうなんです。ちょっと急ぎたい事情がありまして」

結婚に関しての具体的なことを話すスタッフと博史を見て、

『自分たちはこれ以上進まないほうがいい』という聡の言葉はこれが原因か、という疑惑が浮かんできて、みぞおちがズキっとした気がした。

しかし次の瞬間、雪の中、髪を振り乱して走ってきた聡が鮮やかに浮かんだ。

――そうだ。さっき車の中でだって、結婚を早めたいといわれて、聡はひどくとまどっていたじゃないか。

将はみぞおちに話しかけるように自らを落ち着かせた。

 

 

 
そのとき「わあーステキですぅ」と若いスタッフが思わず声をあげるのをソファーの3人は聞いた。

振り返った将は思わず立ち上がった。

真珠色のドレスに包まれた聡がいた。その姿は光り輝くようで、将は息を呑んだ。

博史をはじめまわりのものが手を叩いて賞賛するのもまるで頭に入らなかった。

「ステキです、ステキですぅ~!まるで女優さんみたい」

居合わせたスタッフが皆駆け寄っていくのはお世辞ではないだろう。ベールこそしていないが、聡はそのドレスを見事に着こなしていた。

「こういうストラップのないドレスは着る人を選ぶんですけど、聡さんは問題ないですね」

スタッフのいうとおり、大胆に肩を出したドレスは、ある程度、胸が豊かじゃないとずり落ちてしまうだろう。

そのくせ、さる高級ブランドの新作だというそのドレスはウエストが信じられないぐらい細いが、聡はジャストサイズだった。

将は、聡の丸出しになった白くてなめらかな肩や、ドレスの中へとつながる胸の谷間を見て心臓が騒いだ。

胸の辺りは少し窮屈そうに見えるほどだったが、肩から続く腕は、あの抱き合って眠った夜の感触の通りとても細く華奢だった。

肩や胸元の白い肌は、あの川ぞいの飯場から救出するときに見た、聡の裸像をフラッシュバックさせた。意識がないとはいえ、ひどい格好をさせられていた……聡の姿は一瞬でも将の脳裏に焼きついている。

いけないとは思いつつ、将はすでに何度かそれを思い浮かべてしまっている。

そんなこともあって、なんだか見ちゃいけないような気がして将はそっぽを向いた。

「弟さんも、お姉さんがキレイでびっくりされたんじゃないですか?」

スタッフの一人が将に話しかけた。弟。スタッフの無邪気な言葉に、将は自分が聡には若すぎるということを思い知らされた。

自分は聡の恋人ではなく弟として世間に見られるのが妥当……。

愕然とした将は、もう一度聡のほうに向き直った。

高価なドレスは、着る女性によっては、女性のほうが負けてしまうものだが、聡の場合は違った。

派手な化粧をしているわけではないのに、ドレスのほうが完全に聡の引き立て役になっている。

そのオーラは、将にみだらな想像をさせることを封じてしまったほどだ。

しかし、当の聡はといえば、皆に賞賛されるほど似合うドレスを着ているとは思えないような、困ったような顔で、伏し目がちだった。

「本当に、すっげーキレイ。アキラ……」

思わず素直な言葉を口にした将に、聡は視線をゆっくりとあげた。

二人はお互いにせつない目で見つめあった。

「ちょっと胸の辺りが窮屈なんじゃない?」

博史は見つめあう二人の間に割って入るように、ドレスの上端をつまむように、

そこはつまり聡の胸元の、やわらかいところ……そこは恋人か夫だけに許された聖域である……に指を少し入れた。

「うん、やっぱりちょっとキツイだろ?」

将はそれをみて『あっ』と声をたてそうになった。

単に布の締め付け具合を確かめただけだったが、二人が深い関係でないとできないことだった。それはまだ、将には許されていないことだった。

聡は視線をもう将からはずしてしまい、博史の指が触れる自分の胸元を見ているようだった。博史のその何気ない行為を嫌悪するようすもない。それほど馴れた二人なのだ……。

ふいに、さっき聡を待っていたときに感じた寂しさの影が、将を襲う。