第77話 1300キロを越えて(1)

「いい人、か……」

聡は空になったぐい呑みを弄びながら、将を思い浮かべる。

「いるけど。好きになっちゃいけないヒトなんだ……」

「何だよ。……まさか不倫してるんじゃないだろうな」

秋月は心配そうに聡をのぞきこんだ。ちなみに聡にあわせて標準語になっている。

昔はお互いもっとキツイ方言で話していた。

「やだなー。違うよ」

「俺さ。聡には本当に早く幸せになってほしいんだ」

秋月は酔っているせいか、少し恥かしいことを神妙な顔で言う。

聡は、ふふ、と笑うと

「なんか私が幸せじゃないみたいね」

と答えながら、ジーンズの足を揃えて胸の前に立てた。

「本当にサ。俺が幸せにしてやりたいって思ってた。17歳のときは」

聡は長期熟成させた酒を飲んだように、胸がじん、と熱くなる。

「あたしも。秋月に片思いしてたんだよ」

「ウソ」

秋月は心から驚いたようだった。見開いた目が酔いで充血している。

「東は……?」

「うん……。何なんだろうね。わかんない……」

聡は立てた膝に顔を半分埋めて、目だけで秋月を見る。

「そっかー。実は両思いだったんだー」

秋月は壁によりかかって天井を見あげた。それきり黙りこむ。

2次会の話で盛り上がっているみんなが遠くにいるような、二人。

だが、二人の間には9年の年月が横たわっている。もう道が交わることはないのだ。

「ほら、ソコ!何いいムードになってる!」

オヤジになった男子にとうとう指摘された。

「おう、邪魔すんなや」

気がつくと秋月も元通りになって笑っていた。

「聡、2次会いく?カラオケだけど」

初美に声をかけられる。

「どうしようかな」

と腰をあげたとたん、フラッと酔いが足に来た。

「大丈夫~?」

「えへへ。ちょっと酔ったかなあ……。今日は帰ろうかな」

「じゃあ、俺送るよ」

と秋月が聡に肩を貸す。

「いいってば」

「何いってんだ、そんなヘロヘロで……。悪い、俺、聡を送ってからまた来るよ」

秋月はそう皆に断ると、聡を促した。

 
 

「ちょ~、まだかよ~、ハギは~、もう2日車に乗ってんじゃん」

井口が後部座席で文句を言う。

「うるさいなあ、お前がやれ、名古屋で味噌カツだ、広島でお好み焼きだ、って言うから遅くなったんだろ」

運転する将もいらついている。

「何だよ!だいたい高速使えばこんなに時間かかんないだろ!お前がケチるからいけないんだろーが!」

「るせー!じゃ、お前高速代出すか?出さねーくせに文句いうなっ!」

思わずカーブを曲がる将のハンドルが荒くなり3人体が傾いた。

「まあまあ。もう山口入りはしてるんだから」

大悟がフォローする。

もう1月2日の夜だというのに、ようやく車は2号線をはずれて北上しているところだ。

元旦の7時に千葉を出てもう37時間が経つ。

ガソリン代がバカにならないので、高速道路代をケチって1号線をひたすら西へ進む。

正月らしく途中何箇所か渋滞があり、思うように進まない中、1日目の夜を名古屋で迎えた。

夕食に名古屋名物の味噌カツを食べ、再び西へ向かう。

大晦日に寝ていない将は、お腹いっぱい食べたおかげでひどい眠気に襲われたが、京都、大阪、神戸といった大都市は夜中に通り抜けるべきだ、と判断して明け方までになんとか姫路まで走りぬけた。

ここまでに井口や大悟は居眠りし放題だったが、将はここでようやく仮眠を取ることができた。

コンビニの駐車場に車を止めて、3時間だけ爆睡して、朝9時には姫路を出発する。

2号線も岡山あたりは順調で、午後には広島についた。

そこで、井口が初詣しよう、と言い出したので、安芸の宮島に行く。運転もせず暇な井口や大悟は携帯などで情報収集に余念がなかったのだ。

そして、市街地にある『お好み村』へ行き、お好み焼きを食べて、そこを出たのが17時である。

そこで今朝3時間しか仮眠していない将はまた馬鹿眠くなってきたが、ひたすら耐えてハンドルを握り続けた。ここへ来て、さすがに若い将でも、肩が凝ってきた。

今、国道262号に入ったところだからあと1時間足らず。

1時間足らずで聡に逢える。もはや執念でハンドルを握る将だ。

 
 

「どうやら着いたらしいけどサ。アキラセンセイんちてドコよ?」

井口が不平ったらしく将に訊いた。萩に到着したらしいが車は依然暗い中を走っている。

「お前、電話かけろよ」

「えー。ヤダよ。びっくりさせたいのに」

将はハンドルを握りながらキョロキョロとしている。

「そんなこと言ってる場合かよ!」

「誰かに聞けばわかるって」

将はうわの空で言った。

「バカか~!渋谷駅で『古城先生の家どこですか』って赤の他人に聞くようなもんじゃねーか!」

井口はブチ切れる。

「そこまで人口多くないって」

と答える将によけいに井口は

「あーそうだよ!誰も訊けるような人いねーし!暗いし!」

と叫ぶ。川に並行して走る一般道に人影はない。ときおり水銀灯が寂しい色の白い光を照らしているのが逆に暗さを引き立てる。

大悟が

「将、さっきから何探してるの」

と訊いた。

「いや、アキラんち、川の近くの武家屋敷って聞いたから。川沿いを走ってる」

「何川」

「A川とかっていってたような……」

「あそこに橋がある。ちょっと川の名前を見てこよう」

大悟は将に、水銀灯の下で車を停めさせた。

広島を出てから4時間あまり。狭いミニの車内に押し込められていた若者3人は、車が泊まるなり外に出て伸びをした。

水銀灯の下とはいえ、東京の明るさに慣れた3人には驚くほど暗い夜だ。車も通らないので川のせせらぎが異様に響く。

そんな外は冷え込んでいるが、逆に新鮮な空気を感じさせる心地よさだ。

「あ、あれ……」

井口が指を差した方向に、こちらへと歩いてくる男女がいた。

 
 

「ごめんね。付き合わせちゃって」

「何いっとん。歩こうっていったのは俺だろ」

聡は、秋月と並んでH川沿いの道を歩いている。

冷たい冬の夜の空気は、それだけで若干聡の酔いを覚ました。

タクシーをつかってもよかったのだが、少し歩こうと提案したのは秋月のほうだった。

A川の近くにある聡の家は、居酒屋のあたりから、歩けば20分ぐらいだ。少しだけ遠回りして、二人でH川沿いの道に来たのだ。春には土手に生える桜並木が美しい道だ。

高校生のとき、ペアで学級委員をやったこともある二人は、桜吹雪の中、自転車を並べて通ったものだ。

吐息が時折ある水銀灯に照らされて暗闇に溶けていく今、コンビニで買ってくれたお茶だけ手に温かい。

「酔いは醒めた?」

「うん。もう大丈夫だよ」

こんな風に並んで歩くのは9年ぶりだ。

お互い思いあっていたのに、『同級生』として並んで歩く以上には、とうとうならなかった二人。

ほんの少し、勇気を出して、手を握るなりすれば違った二人になっていたかもしれない。

手を握る。

将は……あの、湾岸の遊歩道で手を握ってきた将の手の温かさを、聡はふいに思い出す。

そんな聡の脳裏が透けて見えているように秋月は聡に訊いた。

「それでさ。さっき言ってた、好きになっちゃいけないヒトって何なん?」

「ああ」

秋月の幸せを見せてもらった聡は、自分の今の恋を、思い切って秋月に打ち明けたい気がした。

打ち明けたにしても秋月だったら聡のことを軽蔑したりしないだろう、と思う。

「教え子、なの」

聡の告白に秋月は驚いて一瞬足が止まった。しかし、すぐに

「へえ」と相槌を打ち、歩き始めた。

「何年生?」

「高2。17歳。……バカみたいでしょ、あたし」

秋月は黙っている。

「でもね。本当に好きなんだ。だからスゴく悩んでる」

「……意外だなあ。聡は大人が好きだと思ってた」

ようやく秋月が口を開く。特に聡を非難するようすもない、淡々とした口調だ。

「うん。自分でもそう思ってたんだけど……。もう気持ちがぐっちゃぐちゃでさぁ」

聡はなるべく明るく見えるように笑って見せた。

 

そのとき。

「アキラセンセー!」と前方の水銀灯の下から声がした。

ローバーミニが止まっているのをみて、まさか、と聡は心臓が止まりそうになる。

手をふる金髪のガタイの大きな男の横で、見慣れたボサボサの茶髪が振り返る。

「……将!」

聡は思わず立ち止まった。