第91話 月夜の逢引(1)

「あ、でも疲れが内臓にきているだけかもしれないし……」

こわばった聡の顔を見て、山口がフォローをいれる。

だけど、インクをたらした水のように、ひとたび聡の心に広がった得体の知れない不安は、消えなかった。

聡は、カニをてんこ盛りにした皿を将の前に置きながら、なぜか彼の顔に視線が粘りついたように離れなかった。

何も知らない将は、素直にカニを手にとり格闘している。その、あまりの不器用さに、つい聡は

「もうっ。貸して!美味しいところを全然とってないじゃないっ」

カニを素早くかつ丁寧にほじくると、身だけを取り出した小皿を将に渡した。

「わーい、センセー、サンキュウ!」

無邪気に喜ぶ将。小学生のようだ。それを見ていると聡には、とうてい彼が瑞樹を孕ませたとは、考えられなかった。

というより考えたくなかった……。

「えー、いいなー! 先生、わたしも~!」

うらやましがるチャミやカリナらの手前、聡は彼女らにもカニをほじくってあげるハメになった。

「先生、お母さんみたいですね……」

山口が少し呆れるように言った。

 
 

食後、生徒たちは入浴時間となった。

その間、引率の教師らは簡単にミーティングを行い、それが終わると、消灯後の見回り以外は、教師としては自由時間になる。

しかし、聡は看護士の山口と同じ部屋だったので、自由時間になったといえど、やれお腹が痛くなっただの、頭が痛いだの、と次々に部屋を訪ねてくる生徒がいて、部屋で落ち着くどころではない。

客室備え付けのバスルームもさっきから生徒に占領されている。

「生理中なんです」

と、大浴場に入れないという女生徒がひっきりなしに入りに来ているのだ。

ちなみに生徒たちは基本的に温泉大浴場を利用することになっている。

そのために生徒が泊まる客室の浴槽の水道栓は取り去られているという。これも修学旅行対応らしい。

大浴場も他校とバッティングしないように、時間が定められている。20時までの1時間が荒江高校に割り当てられた時間となっていた。

それに入りそびれた生徒や、また同性の前でも裸になるのが恥かしいという生徒も結構いる。その子たちが『生理』軍団には入っているのだろう。

 

聡は、息抜きに1階のラウンジにいってみることにした。

そこには、荒江高校ともう1つの高校がいりまじって、何組かのカップルがジャージ姿(生徒たちはホテル内はジャージと定められている)でデートしていた。

脱走防止なのか、多美先生ともう一人の教師がソファーで構えているのに、そんなことはカップルたちはおかまいなしのようだ。

ちなみに、そんな風に見張らなくても、今日このホテルに泊まっているのは修学旅行生だけ、というのはホテル側もわかっているから、誰も外出させないだろう。

まして、外出したところで、このホテルのまわりは何もない。2kmほど離れた道道ぞいにいかなくては、民家もコンビニすらもないのだ。

目が合ってしまったので、多美先生ともう1人の教師に聡は会釈し、戻りがてら、売店でソフトドリンクを購入した。本当はビールが欲しかったが、売店も自販機も修学旅行対応になっていてソフトドリンクしかないのだ。

 

所在無い聡は、スキー場への出入り口のほうへ行ってみた。

そろそろナイター営業が終わる頃……といっても今日、このホテルの客でナイターを利用する者もいるはずないのだが、自動扉は開いた。

聡はそこから外に出てみた。ひやっとした空気が額に気持ちいい。

暑いばかりに暖房が効いたホテル内にいたから、外の冷気はなおさら気持ちよく感じた。

しかし、気温は低いらしく、ゲレンデからのライトに照らされた吐息は白い炎のようだ。

まだゲレンデを照らすライトは明るいが、リフトも音楽も既に止まっている。いまナイターが終わったばかりらしい。

上のほうには、別館へ続く連絡道コースが見えているが、そこからこっちに滑り降りてくる客はまったくおらず、

静まり返った中、冷気がしんしんと染みとおってきた。

館内に戻ろうとしたとき、携帯が鳴った。将だ。

「アキラ?いまどこ?」

「どうしたの、鷹枝くん」

いちおう教師モードで答える。

「いや、今、腹が痛いふりして部屋に行こうと思ったんだけど、いなかったから。どこにいんだよ」

聡は反射的にまわりを見回した。

誰も……教師はおろか生徒もホテル従業員も見当たらない。

ゲレンデ側は、ラウンジから丸見えだが、木立を背にするその反対側は、ホテル側からは廊下にあたり、ゲレンデ側から漏れてくるわずかな明かりだけで暗い。

聡は、さくさくと5センチばかり積もった新雪を踏みしめて、ゲレンデの反対方向に移動しながら、こっそりと今いる場所を将に伝えた。

電話を切ったとたんくしゃみが出た。

ジャケットを着てくればよかった、と後悔する。

 
 

「アキラー、どこだよ」

まもなく、将の囁き声が暗い中に響いた。現れた将は、ジャージの上にダッフルを着ている。

どこだよ、といいながら、目が暗さに慣れるやすぐに聡を見つけて駆け寄ってきた。

「滑るから、気をつけて」

と小声で聡が注意するそばから将は雪に滑って転んだ。雪の中での歩き方にまるで慣れてないのだ。

「いてて……」

「大丈夫?」

聡は駆け寄った。転んだ将を上から覗き込もうとして

「キャ」

将に引っ張られて、将の隣の雪の上に転がった。二人、新雪の上に寝転がる形になった。

「冷たあーい。もう将ったら」

セーターにジーンズの聡はすぐに身を起こしたが、将は

「みろよ、満月だぜ」

寝転がったまま指差した。雪雲が割れてそこに満月が顔を出した。

「ほんとだ……」

月はあたりの雪を青白く照らし、驚くほど明るくなった。空はコバルトブルーに変わり、雑木林の木立のシルエットが映る。

なのに雪は、相変わらずどこからともなく、ちらちらと落ちてくる。満月に照らされて、その六角形の華が見えるようだ。

目をこらすと、あたりの新雪の表面も、雪の華そのままの形が無数に重なっている。それが月の光をうけてキラキラと煌めいている。

ぞっとするほど美しい、北国の冬の満月の夜。

そして、将はあたりの雪と同じように青白く浮き上がった聡の横顔を見ていた。

炎のような形で吐く息の白さが、まわりの冷たい世界と異質な、命の……躰の熱さを想像させる。

月にみとれる聡の腕を、将は寝転がったまま、引っ張って肩を抱き寄せる。

そして、将に許された部分である唇に自らの唇をあわせた。

聡は将に乗っかるような形で抱きしめられた。

将のぬくもりに包まれながら、交わす唇も温かくて、聡は寒さを忘れた。

唇をあわせるだけかと思ったのに、濃厚なディープキスになって聡はあわてて唇をはずす。唾液で湿った唇がキーンと冷たい。

「口の中のヤケドはたいしたことないみたいだな」

と将は月の光の中で微笑んだ。いたずらっ子のようなおなじみの笑顔だ。

さっきの揚げジャガのことを言っているのだろう。聡もつられて、笑顔になる。