第110話 家庭訪問

瑞樹の家は古い市営住宅だった。

白かったであろう、ざらざらとした壁はグレーに変わり、その外壁を配管が伝っていた。

エレベーターがないその住宅の狭い階段を登るのに、松葉杖に慣れない将は少し苦労した。

すでに外は薄暗くなっていて、外気に露出している階段は寒い。にもかかわらず、3階まで登った将はじんわり汗をかいていた。

聡は、将が落ち着くのを待って、ブザーを押した。

『ブー』という音が鳴る旧式なものだ。

「ハァイ」

中から答える男の声がして、ドタドタと出てくる足音が響いた。

ドアがあくなり、ツンと鼻をつく匂い。アルコールの匂いだった。

「どなた?」

義父、というには、案外若く見えた。30代前半だろうか。

いやボサボサの頭に無精ひげ、チェックのシャツが若く見えただけかもしれない。

頬から顎に掛けてのラインがだらしなく、そこだけ見たら中年過ぎにも見える。ドアノブに片手をかけながらブカブカのジーパンの前を今ごろ閉めている。たぶん家の中では穿いてなかったのだろう……聡は目をそらした。

「こんにちは。さきほどご連絡しました、荒江高校の古城と申します」

「ああ、センセイ。どうぞどうぞ」

赤い顔をした義父は、ドアを開けると、聡と将を中へ招きいれた。

このとき早くも聡は、将についてきてもらってよかった、とホッとしていた。

 
 

  
聡と将はダイニングにあるテーブルの席を勧められた。

セロテープであちこちを繕ったビニールのクロスが掛けられている。家の中も古く、クロス同様、安っぽい内装と家具で覆われていた。

例えば床は色のさめてグレーがかった色になったピンク色のカーペットで覆われていて……丸見えの台所の水道は、いまどき家庭では珍しい、捻る蛇口だった。

そしてさらに給湯器が剥き出しになっていて、その上には、扇風機の羽のような換気扇が油でべっとりと汚れてやはり剥き出しだった。

「あいにく家内は仕事に出かけたんですよ、この時間はだいたい仕事なんで……」

お茶を淹れながら義父は、申し訳なさそうに聡に謝った。赤い顔をして酒の匂いをさせていながらも、いちおう常識的なことは言えるらしい。

「そうですか……、お父様は何をなさっているんですか?」

将は、顔を上げた義父が、一瞬、鋭い目をしたのを見逃さなかった。

――聡は今の目を見逃さなかっただろうか。

しかし、義父はすぐに相好を崩すと

「お恥ずかしい。家内のかわりに家のことをやっております。いわゆるシュオット(主夫)です」

といってハハハと笑い、お茶を勧めた。

とりあえず、世間話を一通り済ませた後、

「これは、月曜からの分のノートのコピーです」

と『学級委員』を装った将がノートを差し出した。

瑞樹は中絶手術のために月曜から休んでいる(もちろん、親には内緒だが)ので、その間のノート、ということだが、実はそれは、昨日将の見舞いに訪れた、兵藤と真田由紀子が将にと届けたコピーなのである。

そのあと聡は、休みがちな瑞樹の状況を義父に伝えた。すると

「ハァ、そうですか……。私は、てっきり学校に行ってると思ってましたから……。よく友達の家を泊まり歩いているらしくて、私もあの子のことは、よくわからないんですよ」

義父は頭を掻いた。

「次に帰ってきたら、よく、言っておきます……」

ちょっと……というか、かなりだらしなさそうだけど、それだけで、普通の人にも見える。聡は判断しかねていた。

それにしても……西日があたるせいか、この部屋の中は暑い。いったい何度に設定しているんだろう。

コートは玄関ドアの外で脱いでいたが、寒い学校に対応した格好をしていた聡はパンツスーツの上着を着ているのもつらいほどだった。将といえば、とうにブレザーを脱いでいた。

「ちょっと失礼します」

といいながら聡はスーツの上着を脱いだ。

瞬間、ニットだけになった胸に鋭い視線を感じた。むずがゆいほど粘りつく視線に聡は顔をあげた。そこには義父の顔があった。

瑞樹の義父は、聡と目が合うと、パッと視線を逸らした。

「家での瑞樹さんは、どんな感じなんですか?」
「は?」

義父は赤い顔の中にある充血した目を見開いた。瑞樹に似ていない一重瞼は、明らかに血のつながりがない証明となっている。

「ああ、……優しくていい子ですよ。……親思いで」

取り繕った答え。さっきは『よくわからない』と言っていたのに。

酒に酔っているのか、本能に素直なようだ。義父の視線は、さっきからニットの下で大きく膨らんだ聡の胸ばかりに集中している。

手で覆い隠すか、背中を向けるたくなるのを聡はぐっと堪えた。しかし、まだ決定打ではないように思った。

聡は急に立ち上がると、

「こちらが瑞樹さんのお部屋ですか」

と閉じた襖を開けた。その奥には6畳間があり、瑞樹のものらしき学習机と椅子が見えた……。

「アッ!」

義父は立ち上がった。急に動こうとしたのでテーブルに腰があたり、その上の茶が激しく揺れてこぼれた。

それにかまいもせず、襖に近寄ると

「勝手にあけないで下さいッ!」

と、ぴしゃん、と閉めた。

 
 

  
家庭訪問が終わって、タクシーを拾ったときには、すっかり夜になっていた。

タクシーに乗っても二人はしばらく無口だった。先に口を開いたのは聡の方だった。

「将……。さっきの……見た?」

「……椅子の上にあった手錠だろ。見たさ」

「やっぱり……なのかな」

呟く聡に、

「絶対だろ」

と将は答える。

聡は、さっきの……瑞樹の家を辞した際のことを汚らわしく思い出す。

瑞樹の家の玄関は狭かった。

狭いだけでなく、どうやら瑞樹の母のものらしき靴がずらりと並んでいて足の踏み場もないほどだった。

だから、聡は松葉杖の将を先に外に出した。

すると、瑞樹の義父は、急に聡の肩をポンポンと叩いたのだ。

……さっき出会ったばかりの人だ。

聡は特に親しくない人に体を触られて平気なほど、人懐こくない。

「何でしょうか」

それでも教え子の父兄だから聡は礼儀をもって振り返った。

義父は好色そうな目で、聡のパンツスーツの胸や腰のあたりに視線を這わせながら言ったのだ。

「センセイ、いい体してますねー」

何を言い出すのか、と思った。

しかし、こういうことを褒め言葉だと思っている輩かもしれない。聡はあいまいに笑った。

「こんな色っぽい人がセンセイだなんて、いい世の中ですねえ……。またぜひ遊びに来てくださいよ。ねえ」

といいながら、聡の尻をするりと撫でたのだ。

それは、極めて自然に当たったかのようだった。しかし、当たったにしては指が柔らかい形で尻に添っていた……。聡はぞくっとした。

若い女教師だと思って舐められているのである。

 
 

  
……このことからも、瑞樹が語った家庭の状況というのはウソではないらしい。

聡は考え込んだ。あんな家庭状況を知ってしまったからには、人道的に考えて、あの家に瑞樹を帰すわけにはいかないだろう。

親類も遠いとなると、施設にお願いするしかない。さりとて、母親には言えない状況で、施設にお願いできるだろうか。

「やっぱり、しばらく、俺んちに置いとくしかないよね」

将が、現在実施中の暫定的な案を肯定すべく、聡に問い掛けた。

「うーん……。そうね……。でも将もいつまでも入院ってわけじゃないんでしょ」

「うん、この分だと退院早まるよ。早かったらあさって土曜日だって」

将が少し嬉しそうなのは、入院生活から解放されるからだけでは、当然ない。

「そっかー……」

「だから、俺を聡の部屋に置いてよ」

「……」

いつまで続くかわからない暫定状態。聡は他のパターンを無理やり考えてみた。

将の部屋に瑞樹と将が一緒に暮らす……絶対嫌だ。

聡の部屋に瑞樹をしばらく置く……聡も嫌だし瑞樹も来るはずがない。

やはり将の提案を受けるしかないのだろうか。

聡はため息をつきながら、心のどこかがフワフワと浮き立っているのを感じずにはいられなかった。