第122話 置き去り

将は、仕方なく保健室へ向かった。

年配の保健教師・三田先生も聡の配置転換の理由については何も聞かされていないとのことだ。

ただ、1つわかったのは、あの極道教師・京極のほうこそ、もともとは新しい学校の校長を務めるはずだったということだ。

「……なんで、いきなり、古城先生と彼が配置転換になったのかしら。本当にわからないのよ」

サボリの生徒には、いつもイヤミの1つも言う三田先生も、今日の将には同情的だ。

「山梨の学校って、まだ出来てないって聞いたけど……」

将の問いに、三田先生も頷いた。

「ええ。やっと校舎ができたかどうかって……。でも携帯が通じない場所らしくて」

三田先生や多美先生も聡に連絡をとろうとしたが、通じなかったらしい。

「山梨の学校って、詳しい住所わかる?」

将は、とにかく聡の顔が見たかった。聡の無事を確認したかった。が、三田は首を振った。

「誰に聞けばわかるんだよ!」

「校長先生や教頭先生だったら……」

将はすぐさま立ち上がった。

鷹枝くん!という三田の叫び声を背中に受けて、将は松葉杖がないのもものともせず、ギプスの足をひきずって保健室をあとにした。

他の部屋は粗末な引き戸なのに、校長室のドアだけ重厚な飴色の木で出来た扉になっている。

将は、その扉をノックもせずにいきなり開けた。

「あっ……!」

将が息を飲んだのは、そこにいた一同が一斉に振り返ったからではない。

将の視線は、校長、教頭と共にいた、一人の男に集中していた。

それは、将も知っている男だった。将は固唾を飲んだ。

 
 

 
遡って土曜日。聡は中央本線のとある駅で降りて、少し買い物をすると、タクシーに乗った。

聡は、行き先を告げる代わりに、教頭からもらった紙を運転手に見せた。

中年の、ワイシャツにチョッキを重ね着した運転手は

「へえ……」

と口をはんびらきにしたまま、紙と聡の顔をかわるがわるに見た。

聡は少し不安になったが、行くしかない。車は出発した。

甲府盆地はよく晴れて、山々の上に濃い色の青空を浮かべていたが、そこかしこにある葉を落とした葡萄棚がどことなくうらさびしい雰囲気だった。

タクシーは平坦だった盆地から、山へと登り始めた。

「お客さん、あんなところに、何しにいくの?」

運転手がミラー越しに聡の顔を見ながら言った。

「あ、ハイ。新しくつくる学校の視察に……」

運転手の『あんなところ』というのが気になった聡だが、いちおう自分の任務を答える。

「あ~、あんなところに学校が出来るの!」

『あんなところ』ってどんなところ?聡はとても不安になった。

それを裏付けるように最初広かった道は、まもなく車が行き合うときにいちいち徐行しなくてはならないほどになった。

もっとも通る車も数えるほどなのだが……。

しかし聡の不安感を増したのは道の狭さよりむしろ、あたりの暗さだった。

高い杉の木に覆われ、正午すぎだというのに道は夕暮れのように暗い。最初はところどころに固まるようにあった民家も、見かけなくなった。

30分近く走ったところで、道は未舗装道路になった。道路を両側も杉から原生林になっている。

ガタガタと揺れる車の窓の外にはもうもうと砂埃がたつのが見える。

砂埃に暗い原生林から時折漏れる陽の光がオーロラのような筋をつくる。

「もうすぐですからね。辛抱してくださいよ」

運転手が声をかける。

最後の民家を見てどれぐらい経つだろうか。

聡はこきざみな車の揺れで、体中の柔らかいところがブルブルと揺れるのを感じた。

外からの震えに、掻き立てられるように聡の不安は増していった。

「ここです。お客さん」

未舗装道路を5分も走って、ようやく目的地にたどりついた。

そこには、森を切り開いたような空間があり、そこに真新しい洒落た山荘風の平屋が3軒ほど建っていた。

わりときれいに見えたので聡はホッとした。

「へえ。こんなところに、こんなのが出来てたなんてねえ」

タクシーの運転手も聡と一緒に降りて、興味深そうにその建物を眺めた。

聡は、運転手に料金を払うと領収書をもらった。運転手は

「で、いつ、迎えに来ましょうか?」

と気を利かせた。聡はここで気付くべきだった。迎えに来てもらわないと帰れない場所だということに。

「あ……今日はここに泊まらないといけないので……。明日電話します」

「わかりました。じゃ、ここに連絡してください」

運転手はにこやかに名刺を取り出して聡に渡すと、一礼して車に乗り込んだ。

そして砂埃を立てて発車すると、元来た道を行ってしまった。

タクシーが見えなくなると、聡はため息をついた。その自分のため息が異様に大きく響く気がする。

ヒソ、とも音のしない静寂に聡は包まれて、聡は身震いした。

が、さっそく仕事に取り掛かることにした。

預かっていた鍵をバッグのポケットから取り出そうとして、携帯に気付く。

仕事の前に、将に『着いた』と一言メールしておこう、と携帯を取り出す。

そこで聡は、ここが圏外であることに気づいた。

しかし、そのとき聡は、

――そりゃそうよね。こんなところだもん。電波が来るわけないか。

と、まだ事を軽く捉えていた。

 
 

 
聡に与えられた任務は『この学校の居心地のチェック』だった。

教頭によると、こうだ。

『全寮制の学校の寮や教室などの使い勝手を古城先生の感覚で評価してください。いちおう生活できるようにはなってますが、足りないところや改善点を挙げていただきたいのです』

とりあえず3つの建物は、寮と教室、武道場らしい。

聡はまず寮に入った。1番大きな建物だ。がらん、とした中に、新しい木の香りだけがかんばしい。

1室だけが泊まれるようにしつらえてある……そこが今夜、聡の寝る場所らしい。

聡はそこに荷物を置くと、食堂に入った。昼食にするつもりなのだ。

もう1時すぎている。

とりあえず今日の昼食には、途中の駅で旨そうな釜飯を買ってきてある。

食事はすべて自炊だと聞いている。

が、現地に何が揃っているかわからなかったので、何があるかを見てから決めよう、足りなかったらまた買い足せばいい、とたいしたものは買っていない。

食堂はどうやら、生徒や教師一同で自炊するしくみらしく、調理スペースとダイニングが開放的な感じになっている。

木の色が明るく、窓が広く取られて、明るい雰囲気なのは悪くない。

しかし、天井が高い分、外と変わらないほど寒い。

調理スペースには、すでに誰かが使ったのか、ビニールの中に捨てられたゴミがかすかな腐臭を放っていた。

が、生ゴミはまったくなく、カップ麺やコンビニ弁当のプラスチックがその大半だった。

見ると炊事場の片隅に段ボール箱に入ったカップ麺が積み上げられている。缶詰、そしてサプリメント。

冷蔵庫を開けると、壮観なほどに並べられたビールに栄養ドリンク。いちおうウーロン茶などもあることはある。

冷蔵庫が、生徒と教師共用なのはいけない、と聡は思い、気付いたこととして書き留めた。

生ものがまったくないところを見ると、前ここにいたのは男性らしい。工事関係者だろうか、と聡は想像した。

炊飯器、鍋など炊事用具は一通り揃っているがあまり使われた形跡はない。

温かいお茶が飲みたかった聡は、コートのままヤカンに水を入れてお湯を沸かすと、暖房のスイッチを探した。

それはすぐに見つかったが、なかなか効かない。

聡は『エアコンのほかに冬場はストーブが必要』と書き加えた。

とりあえず、昼食を食べて落ち着いた聡は、コートを脱ぐことなく、教室をチェックした。

こちらは椅子や机も入っていなくてガランとしている。

こちらも、新しい木の香りがして、荒江高校と比べると遥かによいつくりであったが何せ寒い。

暖房を入れても効きが悪いのは寮と同じだった。

それにしても、電線もないのに、こんなところに電気が通ってるなんて……と思った聡は外に出て納得した。自家発電装置があったのである。

職員室のほうは、とりあえず机と椅子は入っていたが、どことなくガランとしているのは同じだった。

事務用机椅子セットの1つに腰掛けてみる。

建物は新しいが、緑がかったグレーの事務用机と椅子はうす汚れている。中古品を購入したらしかった。

座ったままあたりを見回した聡は、そういえば、まだOA機器が入っていないな、と気付いた。

パソコンもなければ、コピー機もない。電話、FAXも……。

電話、FAX?

聡はハッとして立ち上がった。

そういえば電話!聡はあわてて、電話を求めて寮、校舎をすみずみまで見て回った。

寮も校舎もそんなに広くない……あっという間に一周して、聡は愕然とした。

電話がない!

もう一度携帯を取り出す。

隅に表示されている『圏外』の文字。

そんなばかな。

連絡不能。

電話が通じなければタクシーを呼ぶことさえできない。

そんな場所に、聡は閉じ込められてしまったのだ……。