第123話 陳情

「毛利……」

校長室の扉を開けた将は、校長や教頭と共にそこにいた男の名前をつぶやいた……父の秘書官である。

そして瞬時に、今回のことが、この毛利の差し金だということを理解した。

紺のスーツ姿で、眼鏡の奥の毛利の目が冷徹に将を捉えた。

将も負けずに、彼を睨みつけた。

 
 

「毛利、どういうことだ」

将はベンツの後部座席からバックミラー越しに運転する毛利を睨みながら問い掛けた。学校を出て最初の信号待ち。

この日、結局、将は気分が悪いことにして学校を早退したのである。

松葉杖やカバンなどは、毛利が教室から持ってきたので将の手元にある。

「何が、ですか?」

毛利は将の視線など気付かないように、ハンドルを握ったまま前を向いている。

「とぼけるな。お前の差し金だろ。アキラをどこに隠したんだ」

「何のことでしょうか。アキラというのは古城先生のことですか……」

毛利はそしらぬ顔でしらばっくれると、さらに続けた。

「学校の人事のことまで、私が口出しできるわけがないでしょう」

「オレは人事のことなんて一言も言ってないぜ」

一瞬、勝ったと将は思った。

「なんで、オレが人事のことを言ってると思うんだ」

将は毛利をさらに問い詰めた。しかし毛利は

「わたくしも、今、校長先生に担任の交代のことを聞かされておりましたので。てっきりそのことかと思ったんですよ。将さま」

とするりと交わした。将はシートから身を乗り出すと、運転席の毛利の顔の横に顔を出し

「……絶対お前に決まってる。何を企んでるんだ。オヤジの差し金か」

と、低い声で囁いた。クシがきっちりと入った毛利の髪から、上等の整髪剤の香りがする。将の嫌いな香り。

将には確信があった。

この男は多忙な父に代わって、将の学校の手続きなど家族の雑事を行うことが多い。

高校1年の終わり、将がポイント不足で退学になりそうになったのを、裏工作でとどめたのもこの男だ。

感謝してもいいことをしているわりには、将はこの男が好きになれなかった。

というより、はっきりと嫌いだ。

それはひとえに、すべてを将の気持ちなどを考えずに事務的に行っているから、というのと、自分のことをどこまで知っているのか、という気味悪さからだった。

冷たい眼鏡の下で感情を一切表に出さないのも、計り知れない不気味さがあった。

「私は何も……。長官が何を」

らちがあかない。将は、これ以上この男に直接訊いても無駄だと思った。

「もういい。ここで降りる」

弁当屋もある商店街の入り口で将は降りた。マンションまであと200mもない。

将は、毛利の運転するベンツが行ってしまうのを確認すると、聡の部屋に戻るべくタクシーを拾った。

しかし……、聡のコーポの前でタクシーを降りた将は、そこに毛利のシルバーのベンツを見つけてしまった。

毛利が静かにベンツから降りてきた。

「何だよ」

「将さま。マンションにお戻りください」

毛利は静かに言った。

「お前には関係ないだろ!」

将は松葉杖をついてコーポの階段へ向かおうとした。その背中に向かって毛利は抑揚のない声で言った。

「お戻りいただかないと、古城先生がもっと困ったことになります」

「何ィ?」

将は足をとめて振り向いた。

「……ですからどうぞ、ご自分のマンションにお戻りください」

毛利の口調は静かながら、有無を言わせない強いものだった。

この男が『困ったことになる』というのは、この男自ら聡を『困らせる』……苦しめるということで、何をするかわからない不気味さがあった。

将の脳裏に、自分が殺したヤクザの仲間の末路が浮かんだ。将がヤクザを殺すところを目撃したチンピラである。

港に浮かんだ、ブロック塀を括りつけられた腐乱死体が彼の最期の姿だったという。

将はそれを見たわけではないが……ああなるように『手配』したのも毛利だと将は確信している。

裏の世界ともつながりのある男なのだ。

「……アキラはどこにいるんだよ」

「山梨の新しい学校にいらっしゃいます」

「生きてるんだろうな。ちゃんと無事なんだろうな」

将は目を見開いて、毛利の瞳を見た。

「はい。確かに。ご無事です」

毛利はまっすぐに将の視線を返した。これは嘘ではないらしい。

将はそっぽを向いて小さくため息をついた。安心と諦めのまじった息は白い色になってあっという間に冬の空気に溶けた。

言うとおりにするしかなさそうだ。

 
 

 
遡ること数日前。

毛利は、官房長官との面会を希望していたある男と、ホテルでアポイントがあった。

議員会館や党本部ではなく、目立たないように、ホテルのラウンジを毛利は指定した。

一流企業の名前が印刷された名刺を出した男は30代で、身なりもきちんとしていた。

整った顔だが、色男というには、それは穏やかすぎる面構えだった。

しきりに恐縮して挨拶をするあたり、変な恐喝などではなさそうだった。

政治家をやっていると……こと、地位が上になってくると、そういう手合いが実に多いのだ……。

そういうのと一々官房長官自ら会っていたら時間がいくらあっても足りない。

さまざまな面会者の処理も毛利ら秘書官の仕事だった。

男の陳情は以下の様なものだった。

『官房長官の、高校生である長男が、担任教師である自分の婚約者を誘惑して困っている。なんとか引き離してくれないか』

聞いたとたん、馬鹿馬鹿しい話だと毛利は思い、男を睥睨した。

しかし、男は冗談などではなく真剣そうだった。

もちろん、こんな私事は、官房長官の耳にじかに入れることもないだろう。

今のところ、これをネタに金品を強請ったり、スキャンダルを起こして長官の足を引っ張ったりしようとしている手合いではない、と毛利は男を値踏みした。

長男がその担任教師と、男女の仲らしいというのは、毛利もすでに感づいていることだ。

長男はまだ10代、旺盛な性欲からくる独占心を、恋愛感情と勘違いしているのだろう。

あるいは実母と早くに死に別れているゆえの、マザコン的な感情の嵩まりか。いずれにしても、距離を置けば、すぐに冷めるだろう。

手っ取り早いのは、どちらかを辞めさせればいい。毛利は瞬時に方策を計算した。

長男がこの学校をえらく気に入っているというのは、年末に一騒動あったので毛利も知っている。

ということは……担任教師のほうをどこかへやればいいのである。

といっても、男女のことなんてハタからどうこうしたところで、どうにもならない。高校生に女を寝取られるような、この男がふぬけなだけだ。

やることはやりました、と形を見せればあとは知ったこっちゃないさ、と毛利は心の奥底でせせら笑った。

毛利は承諾した旨を『ご迷惑をおかけしました』と言い添えて、さも申し訳なさそうに返事した。

男が帰ってすぐ毛利は、長男の学校に電話をかけた。小面倒なことはさっさと片付けるに限る。

携帯を握ったまま、残されたまぬけな男の名刺に日付と時間を書き込む。

毛利は面会者の名前すらもまともに覚える気がない。

その場では無意識に名前を繰り返し、別れたとたんに忘れるという習慣が出来ているのだ。

問題があったときは、また名刺を取り出せばいいことだ。

その名刺には原田博史、と印刷してあった……。