第131話 冷却期間

鳴り続けるけたたましい警報音に、聡はなすすべもなく身を固くした。

――どうしよう。どうしよう。

職員室にカーテンはない。

新しい木造の校舎は、ガラス張りの窓が多く取られた開放的なつくりで、教室も職員室も、もともと外から丸見えである。

しかも外はもう暗く、覗こうと思えばどこからでも覗けるような状態になっている。

そして、ここにいるのは聡一人きりである。

とっさに隠れ場所を探した聡は、机の下にしゃがみこんだ。机の影にいればしばらくは、やり過ごせるかと思ったのだ。

だけど、ああ。

電灯がついているということは、ここに誰かがいるという印になってしまっている。

おまけに聡の机のスタンドもまだついたままだ。

聡はしゃがんだまま、耳をそばだてて不審者の情報を得ようとした。

騒がしい警報音に隠れて、エンジン音と共に未舗装の敷地をタイヤが踏みしめる音が聞こえた気がする。

聡は……勇気を出して、入り口にある顔の高さのガラス窓から外のようすをうかがった。

ちょうど車のヘッドライトが消えるところだった。

明るさに目がなれた聡には、闇に隠れてしまったその車のようすがよく見えない。

……男が一人、降りてくる。がっちりした男が校舎から漏れる明かりに浮きだされたが、その詳細はよくわからない。

聡はガラス戸の鍵を閉めると、壁に寄った。

――何か武器はないだろうか、武器は!

護身用に金属バットかスタンガンでも買っておくべきだった、と後悔する聡の前のガラス戸にとうとう男の顔が見えた……。

――博史さん?

ガラス戸の向こうで、壁にへばりついた聡を見つけた博史は、ガラス戸を笑顔でコツコツとノックする。

口元の動きで『聡』と呼んでいるのがわかった。聡は全身の力が抜けるようにホッとした。

ガラス戸の鍵をあけたとたん、博史がガラス戸を開けて中に入ってきた。

聡を抱きしめようとして止まった博史の手を見て、聡は新しい緊張が走るのを感じた。

「すごい音だね。聡」

言われて聡はようやく、警報音がまだ鳴り続けていることに気付いた。

「ちょっと待って」

聡は奥にある警報装置のところへ駆け寄ると、警報音を止めた。

「……どうしたの? こんなところに」

聡は自分のデスクに向かうと、意味もなくファイルなどを確認するふりをしながら、博史に出来るだけそっけなく問い掛けた。

「迎えにきたんだよ」

博史は温かみのある声で答えた。

「どうしてここが……?」

あいかわらず、ファイルに視線を落とす聡。博史の顔を見るのが怖かったが、

「学校に教えてもらった。婚約者だって言って」

婚約者、という言葉に聡は博史を振り返る。

博史の細い目の笑顔からは、何の意図があるのか汲み取れない。

「……会社は?」

「今日は有休を取った。ずっと休み無しで引継ぎやってたからさ」

『あたしたち、もう婚約者じゃないでしょ』と聡が言い出す前に博史は聡の近くに来ると、ボストンを持った。

「どうせ、今から東京に戻るところだったんだろ」

柔和な口調。だけど、強引だった。

 
 

「まだ、仕事?」

博史は実家の国産車の運転席から、助手席の聡に向かって話し掛けた。

「うん……」

助手席に座った聡は、さっきの画像を送信すべく、膝の上でノートパソコンを操作しているのだ。

聡は、その操作をことさらゆっくりと行ったつもりだった……博史と車の中で二人きりでいまさら何を話せというのか。

それを恐れた聡はひたすら逃げていたのである。

しかし、とうとう送信し終わってしまった。聡は観念してノートパソコンを閉じた。

「終わった?お疲れ様」

「うん……」

博史は行く先から目をそらさずに、優しい言葉をかけてくる。

暗い高速道路を走っているフロントガラスの上のほうに、車内にいる聡と博史の姿が映し出された。

サンフランシスコにいた頃は、頬を寄せて、キスする二人が映し出されたこともあったのに、今の二人は沈黙するばかりである。

「東京に着くの遅くなりそうだから、何か食べていく?」

目の前には、パーキングエリアの表示が出ている。

「ううん、いい……」

早く家に帰りたいから、というより博史と向かい合って食事をするのが怖い。

しかし、博史はパーキングのほうに車線変更をした。

「コーヒー飲もうよ。自販機のだけど」

と柔らかい笑顔をこちらに向けた。

 
 

聡はパーキングの女子トイレに入るとメールをチェックした。

将から2件。

1件目は今日の昼だ。仕事に集中していた聡は気付いてなかったのだ。

『連続殺人のニュース見て心配してる。大丈夫?気をつけろよ』

将もあのニュースを知って気に掛けてくれたのだ。

もう一件は夕方になっている。

『松葉杖が取れたよ。何時ぐらいに帰れそう?ご飯一緒に食べようよ』

いま夜の7時すぎだから、おそらくコーポに帰れるのは9時ごろと見当をつける。

早く将に逢いたい。そこで聡は不安になる。

博史は、聡をちゃんと帰してくれるのだろうか。

新年に乱暴されるように抱かれたことが悪夢のように蘇る。

それを振り払うように、将には帰りは9時すぎるかもと返信する。

博史は、コーヒーを買って車で待っていてくれた。

「ありがとう」

それだけ言って、コーヒーを受け取る。自販機の中でも、やや高級なものなのだろう。その香りと湯気は聡を少し安心させる。

「じゃあ、出発するよ」

博史はエンジンをかけた。

 
 

しばらく暗い道が続く。

博史の国産車は濃いグレーの道路だけを照らしている。行く先は真っ暗だ。

しかし、高速道路にいるあいだは、たぶん安心だ。

博史が口を開いた。

「……それにしても。聡、とんでもないところに転勤になったもんだな」

「……そうね」

「あんな山奥に、女性一人なんて危険だよ」

「……」

それは聡もそう思っている。

「あんなところ辞め……」「博史さん」

博史の言葉の先を予想した聡は、それを遮る。

「あたし、博史さんとは結婚できない。考えたけど、決心は変わらない……から」

行く先の闇に語りかけるように、だけど一気に言った。

「ごめんなさい」

その部分でだけ、ハンドルを握る博史の横顔を恐る恐る見る。

「もう……絶対、なのか」

博史は、行く先から目をそらさず、淡々とした口調で問い返す。ハンドルも安定したままだ。

ゆっくり頷く聡の顔がフロントガラスに映しだされた。

しばらくエンジン音だけが響いた。国産車だけあって、高速走行でも静かだ。

そういえば、音楽をかけていないことに聡は気付いた。さっきはFMが掛かっていたが、このあたりの周波数に合わせていないのだろう。

両側は山だから、電波が入らないのかもしれない。

そういえば……博史は、何の音楽が好きだっただろうか。

3年以上も付き合っていたのに、聡は博史の音楽の好みを知らなかった。

聡は、自分がひどく不誠実なように思われた。あわてて博史が好きだったものを思い出す。

映画が好きだった。

スカッシュが得意だった。

スキーもボードも上手かった。

ワインが好きだった。

色々飲んだけど、赤だったらやっぱりボルドータイプに戻った、なんて言ってたっけ。コスパのわりに味が安定してるって……。

料理も出来たし、中でもパスタが得意だった。

夏の午後、サンフランシスコの摩天楼が見える部屋で、博史は抱いた後の聡にそれを食べさせてくれた……。

優しかった博史。

笑うと目が糸になる博史。

優しかった博史の想い出は、聡をひどい女だと責める。

聡はそれに耐えられず……ついに涙をこぼした。

「なんで泣くの」

博史は前を向いたまま、問い掛けた。相変わらず淡々とした口調だ。

聡は答えられず、バッグからティッシュを取り出すと、だまって涙をぬぐった。

「ごめん……」

「……そうだな。本当にひどいよな。海外赴任中に、彼女が……婚約者が心変わりなんてさ」

博史の口調は、聡を責める内容に似つかわしくないほど静かだ。

だけど、博史の言うとおりの、ひどい聡なのだ。聡の目からまた涙があふれてくる。

「自分をひどいと思うなら、頼みを聞いてくれないか」

「……なに」

聡は涙声で博史の横顔を振り返った。

「冷却期間を置いてくれ」

博史は、聡のほうを向かず、その視線を暗い道路にむけたままだ。

「もう、ダメだってことはわかった。でも俺の気持ちを整理したい。だから冷却期間ということにしてくれ」

うつむいて躊躇する聡に、博史はさらに続ける。

「それに……うちの母があんな調子だ。母に、まさかこんなことになったなんて言えない」

博史の横顔からは、なにもウェットなものは感じられない。

「母は、聡をすごく気に入ってるから……」

博史の母・薫を、聡は思い出した。

『一緒にカナダに紅葉を見に行きましょうね』

と微笑んだ博史に似ている目元。

メイプルの紅葉が美しいカナダの秋。その頃まで余命があるかどうかわからないそのひと。

「……わかった」

聡は新たに湧き出た涙をぬぐいながら小さく答えた。

「それで、さっそくなんだけど、明日、見舞いに行ってやってくれないか」

「……うん。わかった」

それが少しでも罪滅ぼしになるなら、と心ですがるように聡は約束をする。

博史は、あいかわらず目をそらさずに前を向いていた。

ほとんど口をつけていない彼のコーヒーは、すっかり冷めてしまっている。