第146話 春の予感

「聞いた?チャミ、京極のアレ」

「うん。チョーひどいよね。『死にたい奴はとっとと死んだらいい』とか、松岡くんにゆったんでしょ」

残り少ない昼休み。2年2組のあちこちで、「松岡くんは……」「病院……」などと噂が飛んでいた。

一人一人は声をひそめているが、皆が絶え間なく噂話をしているので、教室は全体的にざわめいていた。

そのとき。

カイトのパンチで、同級生の島田の体が教室後ろのロッカーのところまでふっとばされた。

キャー、と甲高い女子の悲鳴があがる。

ふっとばされた島田は、松岡のせいでポイントが減ってしまった、と声高にグチをもらした男子生徒である。

「何するんだよ!」

島田は倒れたまま、殴られた頬を押さえながらカイトに向き直った。

「うるせえ!お前がよけいなことを言うから、松岡は……!」

「やめろよ、カイト」

なおもつかみかかろうとするカイトの肩を、井口が抱きかかえるようにして止める。

「いいじゃんよ。結局、助かったんだから。……まったく人騒がせだよな」

島田は服をはたきながら、起き上がると、懲りずに憎まれ口を利く。

「なにぃ……」

松岡は井口に肩を掴まれたまま、島田をギラギラと睨みつけた。

今から30分ほど前。

屋上のさらに上の水道タンクから飛び降りた松岡は……。

落ちた場所がたまたま植え込みだったこともあり、奇跡的にかすり傷だけで済んだ。

しかし、ショックで気を失っていたので、駆けつけた救急車で病院に運ばれて、念のために検査を受けている。

 
 

そのとき、昼休みの終了を告げる4時間目の予鈴が鳴った。

カイトは、井口の手を払うようにどけると、島田に向かって唾を吐いた。

そして

「俺もボイコット参加するぜ。京極を追い出すまでなっ!」

とクラス中に聞こえるようにボイコットを宣言し、カバンを持って立ち上がった。

井口も無言で立つ。

京極の発言をじかに聞いてしまったからには、もうポイントうんぬんの問題ではない、と井口は判断したのだ。

井口、カイトに、真田由紀子ら松岡と親しかった者らが新たにボイコットに従った結果、午後はクラスの4分の1の生徒がいなくなった。

あちこちに空席がめだった教室で、残った者も、今後どうするかを相談する声が、サワサワと休み時間ごとに響いた。

 
 

「将、俺たちもボイコットに参加するぜっ!」

と鼻息も荒くやってきたカイトらを見て、先に視聴覚室に戻っていた将は苦笑した。

「一気に人数増えたな……いっとくけど、サボリとボイコットは違うからな」

と受け売りで注意をする将をみて、みな子は後ろでクスッと笑った。

「だけど、松岡は本当に運がいいよな」

兵藤が、あらためて感嘆する。

「骨折もしてないんだろ。うらやましいよ」

将は、自分の半ギプス足を軽く叩いて笑った。

「それにしても、京極のヤロー、許せねえ」

カイトが怒りもあらたに、拳を握り締めた。

「……絶対に、クビにしてやる!」

将も、そんなカイトに頷きながら、さっきの京極を思い出す。

……教師があんなことを……生徒が自殺しようとしているときに、さらにけしかけるようなことを言うなんて、許されるはずがない。

「なあ、将。さっきの、校長とかに言いつけても、京極をクビにできないかな」

さっきの京極の言動を一緒にまのあたりにしていた井口が、将に囁く。

「うん……」

校長も教頭もダメだ。

なぜなら、京極の行動を支持し……というより裏で糸をひいている張本人かもしれないからだ。

だけど、そんなこと井口はおろか、他の生徒たちには軽軽しく口に出来ない。

「証拠がないからな……」

将は、逡巡を、とりあえず証拠がないせいにした。

「そうだな。アイツ、いかにもしらばっくれそうだもんなー」

井口も、それに疑いを持たないようで、将はホッとしながらも、気持ちが重かった。

 
 

ボイコット組は、そのまま視聴覚室で終日自習をして過ごした。

今までも視聴覚室を使って授業を行うのは、聡の英語ぐらいだったので、実質上空き教室なのである。

かつ、多美先生のおかげなのだろうか、今日の段階で邪魔はまだ入らなかった。

将は学校帰りに、病院に寄ってみることにした。将が入院していた、看護士の山口が勤める病院だ。

松岡はおそらくそこに運ばれたはずである。

山口への土産に、何かお菓子でも買っていこうと、近くのケーキ屋に寄った将は、そこで異様に客が、こと女性が多いことに気付いた。

一瞬入店するのをためらうほどだった。

隙をついてやっと店内に入った将は、箱詰めのトリュフにハート型のケーキの見本を見て、

今週末がバレンタインデーである、ということをようやく思い出した。

――アキラ、今週も帰ってくるよな。

週末以外に、今週は水曜日に建国記念日がある。だけど、たぶん帰れないと思う、と聡は寂しそうに言っていた。

だったら、いっそ、自分が山梨に聡を訪ねようか。

重かった心が、聡を思うだけでほんのりと温かくなる。

とりあえず、プリンをいくつか買って、表に出た将は、晴れた夕空を見上げた。

夕陽はその色をだんだん赤に近づけながら、オレンジ色の温かい色で将の全身を染めた。

日曜の夜、ベッドの中で聡に結婚しよう、と告げたのは将の心の底からの願いだった。

同じ夕陽の下にいるであろう聡に、将は心で問い掛けてみる。

――アキラ、アキラ、知ってる? 俺を幸せに出来るのは、アキラだけだってこと……。

年上のくせに泣き虫の聡。いつもそばにいて守りたい……。

あいかわらず冷たい木枯らしが、将に向かって吹きつけてくるが、

桃色がかった夕陽の色の中に将は確かに、やがて来る春を感じていた。

 
 

「あら、鷹枝くん」

看護士の山口は、内科病棟のナースステーションに顔を出した将に気付いて軽く手を振った。

ちょうど日勤が終わるところらしかった。

山口によると、かすり傷だけだった松岡は、入院する必要もないと診断された。

意識が戻ってからも、しばらく安静にしていたが、さっき退院したという。

「でも、ショックが大きいからって、いちおう、カウンセラーが派遣されるみたいよ」

病院に駆けつけた松岡の親は、泣きながら、どうしてあんなことをしたのか、松岡に問い詰めていたという。

しかし、松岡は口を閉ざしたまま何も言わなかった。

「学校で何があったの?」

山口も訊きたがったが、将はいちおう

「俺もあんまりわかんないんだ」

と答えておいた。

 
 

「ただいまー」

灯りが漏れていたのが、外からも見えたので、大悟と瑞樹が帰ってきているのだろうと、玄関ドアをあけた将は中に向かって声をあげた。

病院に寄り道してきたので、帰りが少し遅くなった。

さっき美しい夕陽を見せていた空はすっかり暮れている。

「あ、将、おかえり」

中から、瑞樹だけが出てきた。

「大悟は?一緒に帰ってきたんじゃないの?」

「今日は夜勤もするんだって」

大悟は日中のハケンに加えて、夜も働きに行ったのだという。

よく働くな、と感心した将は……瑞樹の手に白い粉が付着しているのに気付いた。

「瑞樹!お前……またっ?」

将は、瑞樹を睨みつける間もなくあがりこむと、半ギプス足をひきずって洗面所に入った。

しかし、そこに注射器もヤクもなかった。

「将?……どうしたの?」

瑞樹は不思議そうに将の背後から声をかけた。

「ヤクはどうしたんだよ」

将は瑞樹に向き直った。

「え?」

「とぼけるなよ」

「え……やってないよ?」

真剣に問い詰める将に、瑞樹は大きく目を見開いて、パチパチとまたたく。

「この手は何だよ」

将は、瑞樹の、白い粉がついた左手の手首をギュッと掴んで持ち上げた。

瑞樹は大きな目をみはっていたが、一呼吸置いてプッと吹き出した。

「何がおかしいんだよ」

将は笑い出す瑞樹に本気で腹を立てた。

「将、こっち来て」

瑞樹は将の袖を引っ張って、キッチンに連れてくると、そこに置いたあるものを見せた。

「あっ」

こげ茶色のハート型に、白い粉が雪のように半分ほどふりかけられたケーキだ。

「今日、初めて焼いてみたんだ。これは、粉、ざ、と、う」

瑞樹はいたずらっぽく笑うと白い粉が付いた手をペロッと舐めた。

「なんだよー、おどかすなよー」

将は怒りと緊張が解けて、ソファーに倒れるように腰を落とすと、脱力したように背もたれに寄りかかる。

そういえば、玄関ドアをあけたときに、甘い匂いがしていた。

白い粉をヤクと勘違いして頭に血が上った将は、それに頭がまわらなかったのだ。

「バレンタイン用?」

ようやく落ち着いた将は、瑞樹に訊く。

「うん。……大悟にはナイショね。まだ練習だから」

と瑞樹は、再び茶漉しに入れた白い粉砂糖を、残り半分にさらさらとふりかけた。

「そうだ、将、食べてみる?夕食前だけど」

「おう。食べる食べる」

将はソファに腰掛けたまま、身を乗り出す。

「冷めたほうが美味しいらしいんだけど……」

といいながら瑞樹は、焼きたてのチョコレートケーキにナイフを入れると皿に盛り、フォークと共に将に持ってきた。

「じゃ、いただきまーす」

将はまだ温かい、その小さめの一切れをフォークで一刺しすると、一気に頬張った。

「うっ」

将はケーキを頬張ったまま、目を見開いて、瑞樹の顔を見た。

「ど、どうしたの? お、美味しくなかった?」

瑞樹が、心配そうに将をのぞきこむ。

「しょ、しょっぺえ……」

「ウソっ!」

瑞樹は、目をみはったかと思うと、オロオロした。

「どうしよう、砂糖と塩、間違えちゃったのかな……」

将は、瑞樹の狼狽振りを充分見届けると

「ふふふ……、ウッソだよ~ん」

と笑って舌を見せた。

「うまかったデース!もう少しちょうだい」

と空になった皿を瑞樹に向かって伸ばす。

瑞樹は、眼窩から目が飛び出しそうなほど、その大きな目を見開くと

「もー!将のバカっ!」

と叫んで、食べたあとの皿を奪った。

「もうあげないッ!」

と怒りの声をあげると、残りのケーキを冷蔵庫の低い位置にしまうためにしゃがみこんだ。

だけど。

――生まれて初めてつくったケーキを将に食べてもらえた。しかも『うまかった』って言ってもらえた。

瑞樹は、ソファーの将からは見えないカウンターの陰で、涙ぐんでいた。

 

……翌日、さらにボイコットする生徒は増え、クラスの半数に達していた。