第153話 流血事件とチョコ(3)

13日の金曜日というのは、今回は皆忘れ去っているであろう……バレンタインデー前日。

意味もなく、一人で行動してみる男子が増える今日、みな子は生まれてはじめて学校にチョコレートを持ってきてみた。もちろん漫研仲間のすみれにも内緒だ。

昨日『自分用』に買ったチョコレート。しかし、自分用にしてはきれいに包装されすぎていた。

だから……それは誰かにプレゼントされるべきなのだろう。

その相手として、みな子は鷹枝将をはっきりと思い浮かべることができた。

みな子は、今は、鷹枝将が好きだと認識している。

そもそも、1年のとき、血だらけの猫を抱えた少年に出会ったときから、好きになり始めていたんだと思う。

今の……少年とは言いがたい、将。彼への愛は、自分でも認めたくなくてみな子は少し葛藤した。

だけどこの1週間。

ボイコットがきっかけで、思いは急成長してしまい、みな子自身にも収拾がつかなくなっている。

恋は、こんなに急激に落っこちてくるものなのだ……みな子はこの甘い驚きをもてあましていた。

 
 

みな子はなんとなく早く登校してしまった。

ドキドキして眠れなかったというのもある。

温かい自宅の室内で、それは溶けてしまうんではないだろうか、という危惧もあった。

両親にももちろん知られたくないから冷蔵庫にも入れられない。

昨日……正確には今朝、3時。

眠れないみな子は、初めて異性へメッセージというものを書いてみた。

3段目の引き出しの奥には、未使用のカードがたくさん入っている。

特に使用する予定もないのに、デザインが気に入って衝動買いしたものが、今役に立つとは思わなかった。

メモ用紙に、まず下書き。

まず、自分の字が気に入らない。

可愛くて感じのいい字ってどんな字だろうか。

みな子はボイコット声明書に書かれた将の字を思い出した。

学校を1年もさぼっていた、不良とは思えない綺麗な文字だった。

――あの紙、コピーしてもらっておけばよかった……。

ピアノがあんなに巧いのだから、お習字もやってたのだろうか。

将が政治家の息子だということはみな子も知っている。

いつから道を踏み外したのかは知らないが、子供の頃はきっと習い事漬けだったんだろうな、とみな子は子供時代の将の姿をなんとなく想像する。

――いけない。脱線してしまった。

みな子は、メッセージに戻る。

字体はあとにして、文言を考える。

2時間も考えて、結局

『足、早くなおるといいね』

だけになった。その前に

『ちょっと気になっています』

というのを入れるかどうかでとても悩んだ。

だけど、

気になっている≒好きだ

じゃないだろうか。

……つまり告白になってしまう。そこまでの勇気は、まだみな子には、ない。

いざとなったら義理チョコのふりができる逃げ道が、恋にウブなみな子には欲しいのだ。

 
 

視聴覚室には、まだ誰も登校していなかった。

いつも将が座る席は決まっている。その机の下に入れておこうか。

だけど、今日に限って他の人が座ることも考えられる。

だいたい、みな子はメッセージに自分の名前を書かなかった。だからそのセンは、ない。

いつも座る自分の位置に腰を下ろしたみな子に、

「よぉ!おはよー!」

と背後から声。みな子の体に大地震のように衝撃が走る。将だ。

「早いじゃん!」

なんにも知らない将は、みな子に声をかけながら、2列前のいつもの場所に、

ステッキをついた足ながらかなりの大またで歩いていく。

みな子は平静を保つのに苦労しながら

「そっちこそ早いじゃん」

と返答した。

「ああ……。寿司屋のこととか気になってさァ。星野サンも?」

席についた将は、みな子のほうを振り返った。

「え……うん」

みな子は頷くしかない。でもチャンスだ、ということはわかっている。

視聴覚室にみな子と将の二人しかいない今、チョコを手渡す絶好のチャンスだと。

『これ、ボイコット仲間として。深く考えないで』

何度となく頭の中で繰り広げたシミュレーション。

眼鏡の奥の瞳が少しでも大きく見えるように、と今日は慣れないマスカラをしてみた。

髪も1つにまとめないで、今日は念入りにアイロンをかけた。

もともとストレートの髪は、おかげで、いつもより、つやつやサラサラになっている。

しかし、チャンスの到来があまりにも突然すぎて、みな子は躊躇してしまっていた。

だけど。みな子は、思い切ってカバンを取り上げた。中に……チョコが入っている。

と。ちょうどそのとき。

「鷹枝サン……」

入り口から、おずおずとした声が将を呼びかけた。

振り返ったみな子に、1年らしい女子の姿が見えた。声を発したのは一人だが、3人かたまっていた。

皆、茶髪に化粧をきちんとほどこしたギャル系だ。

「何」

将は面倒くさそうに、ステッキをついて立ち上がった。

とたん、耐えられずに「キャー」「どうしよう」「ホントに来た!」という声があがる。

「あの、これぇ……」甘く高い声。

チョコを差し出しているであろうことは、背を向けているみな子にもわかる。

「くれるの? ありがとう」

と将の声。アイドル然とした優しい声だ。

1年女子は、チョコを手渡したとたん、きゃあきゃあいいながら走っていってしまったようだ。

「なんだ、アレ」

将は、いっぺんに3個ももらったチョコを、ステッキをついていないほうの右手と体で支えながら席に戻ろうとしたが、そのうちの1つが床におっこちてしまった。

みな子は、それを拾ってあげながら

「モテるのね」

と皮肉った。

「去年は1個ももらわなかったぜー?」

と将はまんざらでもない笑顔で言った。

「当然でしょ。だって学校に来てなかったんだから」

「あー、そっか」

そんな笑顔が、みな子にはなんだか憎たらしかった。

 
 

始業時間が近づいて、生徒たちはぞくぞくと登校してきた。

今日も、2年2組全員が視聴覚室のほうに出席した。

なんとなく、浮き足立っている気がする。バレンタインだからだろうか。

まだチョコを渡していないみな子は、将の動向ばかりを常に気にしていたが、ギリギリに登校してきたすみれに

「やっぱり兵藤くん来てないね。停学決定なのかな」

と言われてやっと、兵藤が来ていないことに気づいた。

それで、ざわついていたのだ……少し自分が恥かしいと思った。

そういえば、真田由紀子も休んでいる。肩の怪我はひどいんだろうか。

すみれが席についてすぐに、HRのチャイムが鳴ったが、ヤクザ京極も、当然現れない。

いつのまにかボイコットのリーダー的存在になった、兵藤が今日はいないせいか、皆少し私語が過ぎるようだ。

教科書は開いているものの、みんな好き勝手に話している。すみれも、

「ねえねえ」

などとみな子に声をひそめながらも話し掛けてくる。

話の内容は、他の生徒にきかれたくないのか、ノートの端に斜めに走り書きしてみな子に見せる。

『チョコ、いつ渡したらいいかな』

とある。みな子がそれを見たらすぐさま、すみれはそれを消しゴムで消す。

みな子は、いつもだったら、そういう話題はまたか、ウザイな、と思うのだが、密かに自分もチョコを持ってきている今日は話は別だ。

恋する少女の話は、そうでない少女から見れば甚だ迷惑なのだが、自分も恋する少女になってしまった場合は話は別だ。

相手の話は、自分のことのように切に迫る。

『休み時間に呼び出せば』

みな子も自分のノートの端に書いて、すみれが見たら即座に消す。

『はずかしいヨ。靴箱に入れとこうかなと思うんだけど』

『ええー、靴箱。汚くない?』

食べるものを土足と一緒に置くのは、非衛生的だと思ったみな子は

『今日は部活に来るんじゃない?そのときにさりげなく、ってのは?』

と提案してあげた。

『そのさりげなく、がムズイよォ~』

とすみれは汗のイラストを添える。みな子が、ファイトォ!と書こうとしたときだ。

視聴覚室の扉が勢いよく開いて視聴覚室の一同がそちらに注目した。

「保護者が来たっ!」

ユータだ。

「ええっ!」

「誰のっ?」

叫びながら飛び込んできたユータに、事情を知りたい皆が寄っていく。

席についたものも耳をそばだてた。しかしそんな必要がないほど、ユータの声は大きかった。

「わからないけど3人来てた。みんな校長室に入っていった。カイトが立ち聞きしてるけど」

「マジ!」

将は立ち上がると、ステッキをついて立ち上がった。井口も立ち上がる。

他のものも続こうとしたが、

「大勢だと目立つだろ!待ってろ!」

と井口にどやされて、仕方なく席についた。

 

「将!」

職員室の窓の外に立っていたカイトが将の姿を見つけて、小声で叫んだ。

「どう?」訊きながら将は身をかがめた。

「なんか面白いことになってるよ」

カイトによると、校長室に来ているのはどうやら松岡の父、由紀子の母、そして兵藤が修行している店の主人ということだった。

それに対して校長室には、校長、教頭、学年主任の多美先生が同席しているようだ。

「……とにかく、うちの憲一は、目上の方に自分から暴力をふるうようなことは絶対にありません。停学を解いて頂きたい」

という声は、おそらく兵藤の店の主人だろう。落ち着いているが、その内容は毅然としたものだ。

「しかし……京極先生は……」

教頭が言い訳をしようとするのを、

「きちんと調べたんですか」

というのは、松岡の父だろう。その口調は弱弱しい松岡にはまるで似ていないが。

「うちの娘は、肩の脱臼の原因は京極先生だと言っています……。京極先生がいる限り、学校には行きたくないと言ってます」

自らも泣きそうな、必死な声は真田由紀子の母親だろう。

「だいたい、何で、古城先生から京極先生に急に担任が代わったんですか。そこのところの説明が何も我々になされていないのはおかしいと思うんですが」

再び寿司屋の主人だ。一番の年長者らしく、また職人らしい語り口だ。

「ハァ……。古城先生は、新しい学校を任せることになったものですから……」

声だけでも校長のあせるようすが手に取るようにわかる。

「と、とにかく、今回の件は、もう一度京極先生に訊いて、ですね」

「教頭先生」

教頭の声に多美先生の声がかぶさる。

「今回の件は、京極先生に非がある、という生徒たちの言い分は、私は正しいと思います」

そのあとの沈黙はおそらく、3人の保護者が黙ってうなづいていたのだろう。

「処分は、兵藤くんではなく、京極先生になされるべきだと思います。それに私は」

多美先生は少しためらったようだが、思い切って続けた。

「月曜日に松岡くんが、屋上から飛び降りた際に、京極先生が松岡くんをけしかけるのを聞いてしまいました……」

「初耳ですね。私は多美先生と一緒にいましたが、聞こえませんでしたが」

反論する教頭に、多美先生は

「私は、音楽をやるものですから、人一倍耳がきくのです……。京極先生はたしかに、『死にたかったら死んだらいい。クラスのお荷物』などと言っておりました。

私はまさか、と耳を疑いました。何か意図があるのか、とも思ったのですが……。ですが生徒たちの様子を見ていましたところ……」

多美先生はいったん言葉を区切って、はっきりと言い放った。

「彼は、あきらかに教師失格です」

「し、しかしだな。問題児が多い我が校にはあれぐらいの強い指導は……」

なおも食い下がろうとする教頭に、

「先生」

松岡の父がとどめを刺す。

「今回のことは、しかるべきところ……例えば都の教育機関などに申し出てもいいんですよ。我々はそれほど重大だと認識しています」

将とカイトがそこまで聞いたとき

「コラ!何をしている!」

と背後から声がした。巡回している屈強教師だった。

「教室に戻れ!」

と怒鳴られたので、将とカイトは視聴覚室に戻らざるを得なかった。