第166話 母との訣別

今日の夕方、まだ日があるころ。

瑞樹は自宅である市営住宅のドアを開けた。

――まだこの時間だったらお母さんがいるはず。

スナックを経営する瑞樹の母の出勤前を狙って瑞樹は帰ってきたのだ。

母がいれば、義父にもて遊ばれることもない。

そんなに数はないものの、持っていきたいお気に入りの洋服や、最低限の思い出の品もあった。

しかし……瑞樹の予想に反して、母は留守のようだった。

パチンコにでも行ったんだろうか。いったん玄関に足を踏み入れた瑞樹は、出直そうと踵を返した。

そのとき。瑞樹はものすごい力で腕を引っ張られた。

「ひさしぶりだな」

振り返った瑞樹に視覚より先に酒臭さが襲ってきた。

酔って顔を赤くした義父の康平がニヤニヤしながらそこに立っていた。

瑞樹を掴んでいない方の手は、パンツの中に突っ込んで、なにやらボリボリと掻いている。

「やだっ……」

瑞樹は最初抵抗したが、すぐに諦めた。

――これでどうせ最後だし。

抵抗するよりも、とっとと済ませたほうがラクだと思ったのだ。

康平は、自分からパンツを脱ぐと万年床の上に横になった。

そして瑞樹に、いつものように裸になって康平の下半身を慰めるように命令した。

瑞樹は早く済ませたいばかりに言われるとおりにした。

「いいぞ、瑞樹。……いいぞ」

康平が快楽のあまり、声をもらしたそのとき。

ガチャガチャと鍵が回る音が玄関のほうからした。

「……もう、今日はさんざんだったわー」

という母の声に瑞樹はびくっとして、康平の体から顔を離した。

「ただい……!」

眼窩から目が転げ落ちそうなほどの顔。瑞樹と母親の夏子はそっくりな顔でお互いを見ていた。

夏子の持っていたコンビニ袋が床に落ちる。

「ち、違うんだ!夏子っ!みみみ、瑞樹が、勝手に!」

康平は情け無い裸で跳ね起きると、夏子に言い訳をした。

瑞樹はだまって脱いだものを身につけた。

だまっているのは夏子にはふてぶてしく見えた。

そして磁器のようななめらかさを持つ若い肌は母の夏子を嫉妬させるのに充分だった。

もともと、とうに瑞樹の母親である自覚など失せていた夏子である。

そこにいる瑞樹は単なる若い女……夫をその若さで誘惑するために現れた……にしか見えなかった。

夏子は、万年床をドスドスと踏みつけるように近づくと、まだようやく下着を着け終わったばかりの瑞樹に向かって手を振り上げた。

バシッ!

部屋中に響くような音に、康平すら肩をすくめて怯える。

瑞樹は倒れなかったが、叩かれた頬を押さえて母を見た。

「おかあさん……」

「この……、泥棒猫!」

瑞樹は眉をゆがめて……それでも、母の顔をよく見た。

その中に少しでも自分への情け……愛情のかけらでも残っていないか、確認したかった。

「恐ろしい娘だよ。義理の父親を誘惑しようとするなんて……」

「おかあ……」

母親の顔は憎悪で満たされていた。

本当に、自分はこの母親から生まれたのだろうか。

たぶん違うのだろう。そうとしか考えられない。

瑞樹は唾を飲み込んだ。母親の罵倒は続く。

「今まで出て行きっぱなしだったくせに、なんで帰ってくるんだ」

むしろ、康平のほうがハラハラとして二人を見守っていた。

瑞樹は下着のまま立ち尽くしていた。でも寒いのは格好のせいだけじゃない。

「さっさと出て行け!この親不孝者!」

夏子はそこに脱いであった服を瑞樹に向かって投げつけた。服は瑞樹の胸や腹にあたって下に落ちた。

瑞樹はだまって服を拾うと黙って身につけた。

そして部屋に入ると、修学旅行のときのボストンバックに手早く服を突っ込んだ。

不思議に涙は出なかった。こうなることが当然だったような気さえしている。

所詮、母にとって瑞樹は『いらない子』だったのだ。そんなことは小さい頃から知っていた。

服をあらかたボストンに突っ込むと、学習机に持っていくものはなかったか考える。

その上に、写真があった。……まだ幼い瑞樹と彼女を抱く母親の写真。

毛糸の帽子をかぶった瑞樹と母親に冬の陽射しがあたっている。

だけど温かそうなのは、陽射しだけでなく二人の笑顔のせいだった。

小さい頃から虐待を加えられていたけど、母は優しいときだってあったのだ……。

運動会のときは、お弁当だってつくってくれた。こげた卵焼き入りだったけれど。

かけっこで1等を取った瑞樹を抱きしめてくれたこともあった。

母子だけのクリスマスにはファミリーレストランで2人でハンバーグを食べて、食後はパフェを半分コした。

『おかあさん、瑞樹、うさぎりんご食べていい?』

『いいよ。そのかわりおかあさんに、バナナをちょうだい』

バナナも好きな幼い瑞樹は下をむいた。あのとき機嫌がよかった夏子はすぐに

『わかったよ。バナナは半分コしよう。おかあさんが切ってあげよう』……

 

瑞樹は感傷を振り払うように、机の一番下の引き出しをあける。

小さい頃からのおもちゃなどが無造作に突っ込んである。

そんな中、小さな犬のぬいぐるみが、引き出しの中から瑞樹を懐かしそうに見つめた。

ぬいぐるみ、というより、マスコットといったほうがいいサイズの犬。

瑞樹が幼稚園に入る前の誕生日に母にねだって買ってもらったものだ。

瑞樹は思わずそれを手に取る。

買ったときはまっ白だった犬は、いつも瑞樹と一緒にいたせいか、すっかり汚れてグレーになってしまっている。

だけど握り締めると昔どおりの乾いた弾力が瑞樹の掌に残った。

その柔らかな感触が幼い日々の記憶を蘇らせる。

それをぎゅっと握りしめるとき、瑞樹の幼い心には、いつも母への思慕があった。

瑞樹の目から初めて涙がこぼれた。

涙は、さっき叩かれて熱を持った頬の上にも優しい感触で流れていく。

瑞樹は振り返った。

だけど、母はそこにはいなかった。

いるのは、瑞樹を斜に構えて敵視している単なる中年女だった……。

瑞樹は犬をにぎりしめると、ボストンに入れた。

せめて幼い日の思い出までは……なかったことにしたくない。

あの母はたしかに存在していたのだ。だけど……今はもう死んだ。

瑞樹はそう思い込むことで母と訣別しようと決意した。

瑞樹は別れの言葉も言わずに、家をあとにした。

別れはいう必要はない。母ではなくなった『あの女』とは最初から無関係だったのだから。

だけど、瑞樹の目からは涙がとめどなく流れていた。

夕方の冷え込みの中で叩かれた頬だけが熱い。

 
 

快速列車の中、大悟と電話で話した直後、瑞樹は小山に着いた。さっそく祖母に電話をかける。

突然の訪問だが、今までも突然行くことはあった。

祖母は母と違って、大きくなった瑞樹でも喜んで受け入れてくれた。

しかし。祖母の家の電話は今日に限って留守番電話だった。

――今日、社交ダンスの日だったかなぁ……。

祖母といっても若々しい彼女は、趣味と健康増進を兼ねて社交ダンスを習いにいっていた。

まあ、いずれにせよ、すぐ帰ってくるだろう。

瑞樹は、祖母のアパートの前で待つことにし、バスに乗った。

しかし……アパートの廊下に座り込んで小1時間。祖母はいっこうに帰ってこなかった。

瑞樹はひどくおなかがすいてきた。

喉も渇く。

なんだか寒い。

――どうしたんだろう。おばあちゃん。

瑞樹は再び携帯を開いて時計を見る。もうすぐ9時になる。

携帯を閉じてすぐに、携帯が鳴った。大悟だ。

「俺、今、小山に向かってるから」

「どうしたの、急に」

「……なんか、心配でサ。もうすぐ着くから、一緒に帰ろう。な?」

優しい声。大悟はいつも優しい。

大悟だったら自分を絶対に不幸にしないだろう……。

なのに、どうして……こんなに冷や汗が出るんだろう。

瑞樹は異変を気付かれないように「うん」とうなづいた。

「あのね。おばあちゃん留守みたい。だから私、もう帰るね。大悟が駅に着いたら連絡して」

と瑞樹は冷や汗を忘れるために、無理して元気な声を出した。

電話を切ったとき、瑞樹はすでに細かく震え始めていた。

――駅に、出なくちゃ。駅に。

かろうじて意識を保って、通りへ出るとタクシーを拾う。

しかし、タクシーの中で、瑞樹は運転手にもわかるほどの震えを止めることができなかった。

「お客さん、寒い?」

「い…、いえ。大丈夫です」

――怖い……怖い。大悟、怖いよ。

――おかあさん。わたし泥棒猫じゃない。そんな目で見ないで。

瑞樹はぎゅっと目をつぶる。目をつぶっても母はずっと睨んでいた。その髪が蛇になる。

叩かれた頬にはいつのまにか、大きな蜘蛛が張り付いていた。

蛇は瑞樹の手足をめがけて進んでくる。

「い……いや……」

瑞樹のようすは、運転手から見ても異様だった。

しかし、いったん乗せた客だ。運転手は早く面倒な客を降ろしてしまいたくて、急いだ。

「着きましたよ」

そう声をかけられるまで、瑞樹は幻覚の虜になっていた。

「1260円です」

振り返った運転手は、瑞樹には化け物に見えた。義父の顔に似ている……化け物に。

「いやあっ!」

瑞樹は5000円札を放り出すと、転がるようにタクシーを降りた。

「お客さん、お客さん!お釣り!」

叫ぶ運転手のことなど聞こえないように、フラフラと切符売り場へ歩いていった。

 

「将……。新幹線に……、乗らなくちゃ」

瑞樹は朦朧とした頭で、それでも東京に帰ることを考えていた。

新幹線の切符を買う瑞樹の足元から、天井からおぞおぞとムカデが這ってくるのが見える。

「嫌……、こないで……」

瑞樹は切符をムカデから逃れるように、よろよろと歩くと自動改札を抜けてホームを目指す。

そこへ再び電話。それは幻覚に囚われた瑞樹にもなんとか認識できた。

「もう、あと2分で着く。いまどこだ」

「あたしも……駅にいるよ、将」

新幹線のデッキから電話をした大悟は、瑞樹のようすがあきらかに変なことに気付いた。

ずっと息があらいし、うわごとのような口調。そして……大悟を将と間違えた。

大悟は思わず舌打ちをした。禁断症状が始まってしまったのだ。

「すぐ、いくから。大人しく待ってろよ」

「……うん。でも……こわいよ、将。たすけて」

瑞樹は震える声で訴える。

「すぐ、いくから……」

「将……こわい。こわいよ」

禁断症状は完全に瑞樹をとらえたらしい。幻覚に瑞樹は翻弄されている。

大悟はラチがあかないので「待ってろ、すぐいくから。じゃあいったん切るぞ」といって携帯を切った。

瑞樹は、携帯を握り締めたまま、壁によりかかるようにして、階段を一段一段登った。

冷や汗が出たと思ったら、体がかあっと熱い。

怖い。ムカデに蛇が追ってくる。蟻もいっぱいいる。頬の蜘蛛は大きなタランチュラだ。

みんな瑞樹によじのぼろうとする。

助けて。助けて将。

「怖い……。助けて……」

うつろな目をして独り言を呟きながら瑞樹はホームまで階段をのぼりきった。

幸い、夜9時すぎの新幹線・小山駅のホームは、人影もまばらで、瑞樹に目をとめる人もいない。

瑞樹は、階段を登ったところにあるベンチに座った。

「将……。早く私を助けて」

瑞樹はこきざみに震えながら、天空に将を夢みて、足元からは、ついにムカデと蟻の群れが襲来するのを感じていた。

そのとき、向かいのホームに東京から来た各駅停車の仙台行きが着いた。

それに大悟が乗っていた。自由席に座っていた大悟は、足早に階段へと向かっていた。

彼を追い越すように発車した新幹線はホームから走り去った。

ふと、向かいのホームを見た大悟は、そこに瑞樹が座っているのを見つけた。

「瑞樹!」

大声で呼びかけるが、気付いていないようだ。

座り方はだらしなく、目はうつろで、普通の状態ではないというのが、ここからでもはっきりとわかった。

大悟は、全速力で階段を降りると、コンコースを走りぬけ、今度は瑞樹がいるホームへと階段をかけあがった。

仕事で体が鍛えられている大悟は、息もあがらず、のぼりつめた。

「瑞樹!」

そのとき、瑞樹の世界では、自分の体によじのぼった無数のムカデと蟻が這いまわっている最中だった。

「いやだ……。こんなの……。いや……」

「瑞樹ー!」

大悟の姿が瑞樹の視界に入った。

とたん、瑞樹はおびえたようにベンチから立ち上がった。

顔色が真っ青で、目が異様なほどに見開かれている。

瑞樹は後じさりしながらホームの端へ進んだ。

「いや!こないで……!みないで……!将、お願い、みないでええ!」

「瑞樹、落ち着け!俺だ」

そのとき、ホームにアナウンスがかかる。

『まもなく、当駅を東京行きの列車が通過します……』

大悟が瑞樹に向かって走り寄ろうとしたそのときだ。

「いやああああ!」

瑞樹は、虫にまみれた自分を見られたくなくて、走り出したつもりだった。

瑞樹の腕を掴もうとした大悟の手が……空を掴んだ。

泣き叫ぶ瑞樹は、ホームから身を踊らすように、線路に飛び降りたように見えた。

ああっ、とホームに居た人も駅員も皆驚いて身を乗り出した。

しかし……大悟を含め、皆が、瑞樹が線路上にうずくまっているのを見たのはほんの一瞬だった。

大悟の悲痛な叫びは新幹線の轟音にかき消された。

新幹線の運転士は、緊急ブレーキをかけたが、間にあわず、新幹線は駅を通過して停止した。

だが、瑞樹がいたはずの線路上には『何もなかった』……。