第180話 世間の厳しさと甘さ

メールの着信音が鳴って、大悟は求人誌の中に転がっていた携帯を急いで取り上げた。

そしてため息をつく。将からだった。

『今日、バイトで遅くなる』

との連絡。大悟は携帯を床に置いた。

火曜日も夕方になりつつある。

一念発起して日曜日から就職活動を始めた大悟だが、……きちんと就職するのがこれほど難しいとは思わなかった。

5月で18になる大悟は、そろそろ不安定な日雇いのハケンなどではなく、できるものなら正社員として働きたいと思っていた。

だが、中卒の大悟に、正社員の求人は皆無といってよかった。

1年足らずではあるが自動車部品工場で働いた経歴をもとに、あらゆる求人誌、そして将のパソコンでネット検索してみたが、めぼしいものは、ごくわずかだった。

そもそも履歴書を書くこと自体が困難だった。

大部分は問題なく書ける。だが……未成年の大悟は、保護者の欄を埋めるのに躊躇した。

嫌々ながら愛知の親類を書いて臨んだ今日午後の工場の面接だが、あまり芳しい結果ではなかった。

まず、

「どうして高校にいかなかったのか」

と訊かれた。

もちろん、鑑別所に入っていたから、などと答えるはずはない。ただ、

「親の経済的な理由で」

と答えた。

「今は、愛知に住んでるの?」

「いえ、東京の友達の家に世話になっています」

そう答えた段階で、面接官の視線が斜めになった。

何も言われなかったが、すべてを見透かされている気がした……。

メールの着信音が再び鳴った。大悟はあわてて置いた携帯を拾い上げた。

今度こそ、大悟が待っている連絡だ。

そして……さっきより大きなため息をつく。

不採用だった。

――まあいい。明日も面接がある……。

という希望と

――明日も同じような結果じゃないのか。

という絶望が入り混じる。

まだ希望と絶望は5分5分で大悟の心にマーブルをつくっていたが、心の奥底から泡のように出てくる考えがあった。

自分はひょっとしてスタート時点でひどく損をしているのではないのか。

泡はまだ、小さなものがぷくっと1つ出てきたに過ぎない。

大悟の表層心理は、いまのところ、それを必死で無視している。

 
 

将はM区にある、芸能プロダクション、ダイヤモンド・ダストに来ていた。

制服のままでいいと言われていたのでそのままだ。

今日は土曜ほど暑くないのと、まがりなりにも会社というところに来るので、いつものようにだらしない制服の着こなしは自粛している。

瀟洒なガラス張りの10階建てビルの8階から10階がプロダクションである。

8階の受付で名前を告げると、すぐに社長室に通された。

「あら~、いらっしゃーい。制服姿だとちゃんと高校生なのね」

橋本社長は、あいかわらずのオネエ言葉で椅子から立ち上がって歓迎してくれた。

そしてなにやら社内に電話をかけている。

その直後に、

「失礼します」

と女性が一人入ってきた。

黒いパンツスーツを着て、髪を後ろで1つに束ねている。

眼鏡の奥は少しキツイ感じの一重瞼でいかにもキビキビした印象だった。

「こちらが、鷹枝将くん。芸名はSHOのまんまでいいわ。将くん、アナタの担当マネージャーの武藤さん」

「武藤です。よろしくお願いします」

武藤は低めの声で挨拶した。年の頃、35~6ぐらいだろうか。

将は、よくわからなかったので「こんにちは、よろしくお願いします」と挨拶だけしておいた。

「武藤さんはね、とってもヤリ手の敏腕マネージャーなのよ。だから将くんも安心して彼女に頼ってね。で、武藤さん、今日の予定は?」

社長は椅子に腰を戻しながら武藤に訊いた。

「さっそく、コンポジ撮影に入ります。1スタと篠塚さん、真理ちゃんを押さえてます」

「よく篠塚さん押さえられたわねえ……。たかがコンポジ撮影に」

社長は目を丸くした。

「先日の撮影で、とても気に入ったようでした。写真集撮りたいって言ってましたよ」

「えー!写真集っ!」

社長は驚いて椅子から立ち上がった。

「ギャラが恐いですけどね」

武藤はクスッと笑った。冷たい感じの笑顔。将はクールビューティという言葉を思い出した。

「コンポジ撮ったら、さっそく『ばくせん2』のオーディションに出すつもりです」

「えっ、『ばくせん』?ドラマの?」

思わず将は目を丸くした。

博徒女教師が不良生徒を導いていくという単純なストーリーながら、人気女優と人気アイドルのキャスティングもあって平均視聴率25%以上をマークした、お化けといっていいドラマだ。

「そうよ。7月から『ばくせん2』が始まることが早くも決まってるんだけど、将くんにはその生徒役オーディションを受けてもらうわ。たぶん受かるから心配しないで」

と橋本社長は笑った。

「え、でも。俺」

テレビなんて聞いてない。と言いかけた将に

「その他大勢の役だから、大丈夫よ」

「……なーんだ」

アハハ、と将は照れ笑いをした。主演の中田雪絵とからむのかと一瞬想像してしまったのだった。

 
 

「よ!来たな!」

9Fにあるスタジオに入ると、篠塚が手をあげた。今日も先日と違う形の変わった眼鏡を掛けている。

傍らに、派手な若い女性と、お洒落な感じの男性がいた。

「こんちわー!」

先日のこともあり、将はリラックスして元気に挨拶した。

「このたびはお世話になります」

武藤が篠塚に深々と頭を下げた。

篠塚のような一流フォトグラファーがタレントのコンポジを撮影するためにやってくるのは異例中の異例なのだ。

「こちらは、ヘアメイク兼スタイリストの真理ちゃん、アートディレクターの坂井さんよ」

「よろしくお願いします」

「将、髪は切ってもいいわよね。校則はたしか茶髪OKだったし、役柄にあわせて一段明るくしましょう」

武藤が将に振り返った。呼び捨てにされて、一瞬、将はとまどった。

が、すぐに、「ハイ」と素直に返事した。

聡や友達にはいつも呼び捨てにされて平気なのに、会ったばかりの女性に『将』と呼ばれたのに違和感を感じたのだった。

だけど、すぐに芸名で呼んでいるのだ、と理解した。

「今の色と長さでも撮影しておきたいなぁ。貴公子っぽいし」

と篠塚がストップをかける。それが発端でクリエイター同士議論になった。

それぞれが、将を見て、瞬時に撮影したいイメージを思い浮かべたのだ。

議論している3人を見て、将は武藤にこっそり

「あの~、コンポジってなんですか?」

と訊いた。

「ああ……。あなたのプロフィールにつける写真のことよ。売り込むための重要な資料になるから頑張ってね」

と冷たい一重瞼でにっこりと笑った。そういう顔をすると、なかなか美人なお姉さんだ。

「ハァ」

なんだか、自分を置いてけぼりにして、コトがどんどん進行していくような気がする。

将は、スタジオの窓辺から見える夕景に視線を移した。

夕陽は反対方向にあるらしい。足元に広がる暮れなずむ街に、将は少し心細く聡を思い描いた。

将は、明日18歳になる。