第190話 春の嵐(4)

「本当は……あのとき、ヤクザを刺し殺したのは……、将なんです」

飲んだ息が詰まっていくように苦しい。言葉はとうに失っている聡だ。

雨がひとしきり強くなった。ベランダの手すりを叩きつけるかのような音。

聡の瞳にひそむ『何故』をキャッチして大悟は続けた。

「あのとき……ヤクザが取り立てに来たとき、将も一緒でした。将はいつも俺とつるんでいましたから……」

聡は、大悟の話を聞きながら、自らの記憶との合致があることに気付いていた。

『鷹枝くんってね、人殺ししたって噂流れてるんだよ』

と言ったのは誰だったか。

「それでヤクザが俺の指を切り落とすって、俺を押さえつけて……。見ていた将がヤクザを刺したんです」

聡はつまった息を無理やり臓腑に落とすがごとく唾を飲み込む。目は見開いたまま瞬きを忘れてしまった。

瞳は大悟のほうを向いていたが、心は目の前の大悟ではなく遠い記憶を彷徨していた。

「それで、ヤクザは出血多量で死にました」

聡の意識はとうに、記憶の中の将のセリフを探し出していた。

『俺は何をしたって許されるんだ。人を、例え、刺し殺したとしても』

まさか、とは思ったが、現実に経験していたとは。

聡は、こびりついたような視線をギリギリと動かして墜落させた。

一方、大悟はどうして自分がそんな告白を聡にしているのかわからなかった。

こんなことは、今まで誰にも話さなかったことである。

自らこそが殺人者である、という身代わりを、当時15歳だった大悟だが、相当の覚悟で引き受けたのだ。

将の父親が相当な権力者だというのは知っている。もし、漏らせば自分の命も危ない。

現に、あのとき事件を目撃したもう一人のヤクザは消されているのだから。

なのに……どうして。こうも口を滑らせてしまうのか。将の最愛の女に向かって。

「先生。でも、将がヤクザを殺さなかったら、俺は今ごろ指がありません……」

目を伏せてしまった聡に、言い訳のように、将の正当性を付け加える。

聡は低い声で何かをつぶやいた。不明瞭で聞こえない。俯いた顔の中で長い睫がふるえているのがわかる。

低く屋根を振るわせるかのような雷が断続的に響いている。

と、聡は顔をあげた。本来だったら自然のまま整ったような優しげな眉毛が歪んでいる。

その下の目もせつなげに歪んで大悟を見据えた。

「将は……大悟くんに、殺人の罪を着せたのね」

「いえ……」

大悟は、聡の苦しげな瞳にひるんだ。あとじさりしたいほど動揺した。

「将自身は、そんなことしたくなかったと思います」

ふいに声になった自らの言葉を聞いて、大悟は、将を陥れたいわけではない自分に気付く。

では、なぜ、こんなことを聡に聞かせて、わざわざ苦しめているのだろう。

大悟は、手渡されたタオルを指で弄んだ。それは雨で湿っている。

しかし、話せば話すほど、心が軽くなっていくのも事実なのだ。

自分がわからないままに大悟は続けた。

「でもアイツは……オヤジが政治家だし……。罪をあきらかにできなかったんだと思います。俺は……それでお金もらうことになってたし」

そうだ。金だった。

母親が早くに出て行き、父親に育児放棄されたかのような大悟は子供の頃から、金に困っていた。

金を稼ぐことのつらさだったら、恵まれた現代には時代遅れなほど、身にしみていた。

それから解放されたかったのも、大悟がその罪を被ることに決めた原因だ。

――腹いせ?

結局、罪を被ることによって得る金を受け取ることが出来ず……逆に自分が犯してもいない罪で社会的に不利益を被っていることへの……腹いせを、聡にぶつけているのだ。

聡の方は……完全に黙り込んでしまった。

色々な思考が一気に聡に押し寄せ、何を話せばいいのかわからなくなってしまったのだ。

……否。

しばらくたって、聡は気付く。訊きたいことの大半は、将に直接訊くべきことだということに。だから黙るしかないのだ。

大悟へは……何もない。

唯一の疑問があった。どうして、こんなことを聡に話すのか、ということ。

それもすぐ計り知れた。

つらいことが続いた大悟はその元凶である身代わりのことを話すことによって、少しでもラクになりたかったのだろう。

案の定、大悟は

「先生。こんなことを言ってすいません。だけど、俺……、誰かに俺が前科者なんかじゃないってわかってほしかったから……。すいません」

としきりに頭を下げるではないか。

聡は、せめて首を振った。

「いいの。大悟くんは、本当に悪くないんだから……」

ほとんど惰性で言葉を並べる。

あとは……放心していた聡は、いつのまにか一人で部屋にいた。

部屋を辞していく大悟の暗い瞳は少し気がかりだったものの、聡は構うことができずに、気がつくと一人になっていた。

雨が降っていることもすっかり意識の外だったが、突然の激しい雷鳴に、ようやく自分を取り戻す。

「将」

声に出してみる。最愛の男の名前は、あいかわらずいとおしいままだった。

――将、早く迎えに来て。

そして……早く抱きしめて。すべてを忘れるほどに。すべて小さなことに思えるように。

いっそ……もう戻れないところまで連れていってほしい。

聡はベッドに突っ伏した。

そんな聡に、休みなく降りしきる激しい雨音が包む……。

 
 

「あの、鷹枝です。ええと、将です。……お久しぶりです」

「あ?将?いやー久しぶりだなあ」

三宅弁護士は突然電話をかけてきた将に、懐かしそうな声を出した。

そのまま近況から思い出話になってしまいそうなところを将は、ぐいっと方向修正する。

「あの、おじさんさ、うちに留守電入れたでしょ?今日」

本題である留守電の意図を三宅に訊く。

「え?」

「なんか、例のお金の件とか言ってたけど」

そこまで将が説明してようやく、三宅は、ああ、と声を出した。

「何、将の電話番号だったの?……つまり島くんは、将の家に住んでるの?」

「え、あの電話、大悟にだったの?」

二人ともが「?」を投げ合うようにして、お互いの答えを類推する。

「そうそう。そうかー、島くんは将と暮らしているのか」

三宅は、同じことを繰り返して

「お前ら、またワルやってないだろうな」

と笑う。その笑いは『もう更生している』という安心感を前提にしたもので、将も

「あたりまえっすよ。もう18ですから」

と笑いながら答えた。そして

「ところでさ、留守電で言ってた、例の金って何?」

将は気になったので訊いてみる。しかし、三宅は

「いや……」

と電話の向こうで口ごもった。

将は直感で、自分に関係することだ、とひらめいた。

「何で、島くんはこっちに来ることになったんだ?」

三宅は逆に訊いてきた。

「大悟、カンベツ出て愛知の親戚ンちに居たんだけど、酷い目にあったみたいで。殴られたり、給料ほとんど取られたり……。それで我慢できなくなって俺んちにきたんです」

将はさらに続ける。

「なのに昨日、なぜか急に、愛知に行ったんです。で帰ってきたら殴られたみたいな傷あるし……。それと、さっきの留守電と何か関係あるんですか?」

「関係は……ないとはいえないが……。将、島くん本人に連絡をとりたいんだが」

三宅はどうしても、核心は将に言いたくないらしい。

だけど、将にはおおよその予想はついている。

「俺も連絡とりたいんですけど、あいつ携帯の電源切ってるみたいで。てか、なんか昨日から様子が変で……。おじさん、ひょっとして俺の身代わりのことで何かあったんですか?」

『俺は……もうダメだ』という大悟のかすれた声が、将の耳元に再びこだまする。

「む……」

三宅は電話の向こうで言いよどんだ。将はさらに切り込む。

「金って、大悟が俺の身代わりになるかわりに渡すことになってたんですよね?」

「将……」

将は別に驚かなかった。金で解決することへの痛みはあるものの、当然すぎる償いだと思うから。

逆に何の償いもなく身代わりになってもらっていたなら、将のほうがつらすぎる。

……もちろん、金で感情まで解決できるなんて思っていないから、それを話す将の心はチクチクとうずく。

「将、それがな……」

三宅は観念したように、話を始めた。大悟が三宅に何を相談したのかを。

話を聞いているうちに将の眉はみるみる歪み、しまいには逆立つほどになった。

「金は……大悟に渡ってない!? 愛知の親戚とやらが全部使い果たしていたってこと!」

将は思わず電話口に叫びそうになった。

「そうだ。大悟くんが高校に行っていると嘘をついてな。もちろんそんないいかげんな親戚に送金を継続できないから、次回からストップするが」

「あたりまえだ!」

将は怒りを吐き捨てるように声をあげた。

「ただ、保護者もいない島くんに、直接お金を渡すわけにはいかない。だが、お前と暮らしているならちょうどいい。とりあえず間接的に家賃や食費の補助はしてあげられるから」

「でも……それだけじゃなくて、なんとかならないのかよ?」

「とにかく、保護者を見つけることが先決だ。保護者がいなければたぶん、就職もできないはずだからね……。なんとかおじさんも、島くんの保護者になってくれる人はいないか探すから」

電話を切ったあとも、将は胸騒ぎが止まらなかった。

瑞樹を亡くし。就職も保護者がいないことで不利。……そして唯一の拠り所だった金も横取りされ。

傷が固まる前に掻き毟られるようなことが、ここのところの大悟に続いていたに違いない。

もう一度大悟の携帯に電話をかける。やはり電源を切っている。

『俺はもうダメだ』

暗いままの将の部屋に、稲光が閃く。

将はソファに腰を落とした。

心配と不安で頭を抱える……と、手が触れて、額の痛みが復活する。

ゆうべ大悟に頭突きをした名残。

『お前が瑞樹で遊んだ分、俺にアキラセンセイを貸してくれたっていいだろ……』

――まさか。

突然、空襲か何かのような爆音が耳をつんざく。すぐ近くに雷が落ちたのだろう。

『俺はもうダメだ』

『アキラ先生とやらせろ』

『俺はもうダメだ』

『アキラ先生とやらせろ』

『俺はもうダメだ』

『アキラ先生とやらせろ』

ゆうべの大悟の言葉が将の脳裏をぐるぐると回転する。

回転速度はどんどん速くなり……ついに2つの言葉が合体してしまい、自暴自棄という答えを出す。

考えたくない。そんなことをするやつだと思いたくない。だけど。

嫌な予感に、将は跳ねるように立ち上がり、携帯を手に取った。

そして聡の無事を確かめる……。