第215話 突然、一方的な別れ

パリ郊外のサンジェルマン・アン・レーの『お城』に一行がついたのは夕方だった。

テラスごしの眺望がよいレストランで夕食をとり、しかし将が『疲れている』ということもあり、早々に各自の部屋へ引き上げることになった。

といいつつ、カメラマンの篠塚らはバーで、もう少し、シガーとコニャックを楽しむらしい。

ルイ14世の生家、というだけあり、そこかしこが瀟洒なつくりになっている。

中でも優雅なのが、吹き抜けを囲むようにカーブを描く大理石の階段だ。

しかし、将は、足取りも重く、それを登ると、あまりスムーズとはいえない、極めてクラシックな形の鍵を開けて部屋に入る。

真紅の、足が沈むような毛足の長い絨毯が敷き詰めてある部屋は、それだけで将が大悟と住んでいるマンションほど広いように思えた。

将はこのダブルを一人で使うことになっている。

バスルームや洗面台は本物の大理石をつかった贅沢なもの、蛇口すらも装飾が施された年代ものだが、

将はそれらをチラッとのぞいただけで、ため息をつくと、ダブルのベッドに仰向けに倒れこんだ。

キングサイズのベッドはかなり柔らかく、倒れた将の衝撃をすべて吸い込むようだった。

高い天井は純白で、シャンデリアが下がっているのが見える。

決して目障りなものではなく、むしろ柔らかい上質な照明なのに、将はそれから顔をそむけるようにうつ伏せになると、胎児のように体を丸めた。

何で自分はこんなところにいるんだろう。

自分は何をしているんだろう。

将は、自問自答をしながら、自分の心が真っ暗な闇に閉ざされたあのときを回想していた。

 
 

新しいマンションでの逢瀬を、武藤に邪魔された出発前夜。

将はあれから何度も聡と連絡をとろうと試みた。だけど、聡は電源を切ってしまったらしい。

美智子の部屋に泊まるなら……美智子の番号にかけてみればいい。

幸いモデルのバイトがらみで、美智子の携帯の番号は保存してある。

だが、それを思いついたときには、さすがに遅すぎる時間だった。

何時だったら迷惑じゃないだろうか。

いや、多少迷惑でも、急ぎということで容赦してもらえる時間は、何時だろうか。

そんなことを考えあぐねているうちに、疲れていた将は眠り込んでしまった。

そして武藤からのモーニングコールで目覚めて、電話できなかった自分に気づく。

そのあとも……なんとか、聡に連絡を取れないか、と将はスタッフの隙をうかがいながら、懇願するようにメールを送った。

『12時の出発までに、声が聞きたい』

だけど……空港では、武藤のほかに、篠塚、篠塚のアシスタント、ヘアメイク、スタイリスト、ADが集合していて、そこには隙などなさそうだった。

幸い、少し早めに空港についたので、一行はカフェテリアに入って、打ち合わせがてら暇をつぶすことになった。

――今だ。

そう思った将は

「ちょっと、トイレ」

といって席を立った。

スタッフの目の届かない、トイレの近くにある大きな観葉植物の陰まで来ると、祈るように電話をかける。

が、あいかわらず聡は出ない。かわりに、美智子に掛ける。

それはたやすくつながった。

美智子は「将くん、久しぶり……聡でしょ。今変わる」と何も言わずに察してくれた。

電話の向こうで

『ほら、将くん。出なよ』

と美智子が聡に強い口調でうながすのが聞こえる。

聡は、電話に出るのを渋っているんだろうか。

「もしもし」

本当は、耳元でじかに味わいたかった声が電波ごしに届く。

「アキラ。昨日はどうしたんだよ」

つい、問い詰めてしまう将。本当はそんなことが言いたいんじゃない。

「昨日はずっと一緒にいたかったのに。3週間も離れ離れで、どうすんだよ」

甘えが、将を強い口調にする。

だまりこんでしまった聡に、将は少し言い過ぎたかな、と思い直し、甘えた口調で言い直す。

「……アキラ、何か言ってよ」

「将……」

やっと聡は将の名前を呼んだ。しかし、それきり聡は沈黙してしまう。

将が、しびれを切らして、自分から何か言おうとした直前に、ようやく聡の声が聞こえた。

「あたし、考えた。……将とはもう付き合えない」

その言葉の意味が……あまりにも唐突過ぎて、将は理解できなかった。

「アキラ……?」

聡はさらに言い直す。

「教師と、生徒に、戻った方がいいと思うん……」

「アキラ!」

将は聡が言い終わらないうちに、いとおしい人の名前を叫んだ。

その声は大きすぎたようだ。トイレへと出入りしようとする人が何人かこちらを振り向いた。

「……冗談だろ?」

将はそう訊き返しつつも、聡がこんなことで冗談をいう女ではないことをわかっていた。

「いますぐ、会いに行く。話し合おう。何がいけなかったんだ」

「将、何をいうの。今からフランスでしょ」

「そんなのどうでもいいんだ!」

将は再び大声をあげた。混乱のあまりコントロールが利かなくなっているようだ。

「アキラに比べたら、どうでもいい」

将は今度はすがるように早口で囁いた。

ウソだといってほしい。驚かそうとしたんだというオチであってほしい。

「将、しっかりして!」

電話の向こうで、聡がやや強い声をあげた。

「アキラ……」

「そういうところが、心配なの!」

いつにない、聡の強い声に将は黙った。

聡のこんな声を聞くのはひょっとして初めてだろうか……。

「あたしのために、何でも捨てちゃう将が心配なの!」

「アキラ」

だって、聡のいない人生なんて意味がない。そう言おうとした将は聡の剣幕に遮られる。

「プロダクションの人だって、TV局の人だって、新人の将のために、すごく骨を折ってお膳立てしてるはずでしょ。それを、どうでもいい、なんて言わないで!」

「だって……アキラ」

とまどった将は、つい口にしてしまう。

「でも、もともと、やりたくて始めた仕事じゃないし」

将が話したいのはそっちではない。

なぜ、今になって、いきなり、付き合えないなんて、教師と生徒に戻ろうなんて言うのか。

この上なく愛し合っている二人だと思っていたのに。

聡は、少し強めのことを言っているだけだ。

本当は、離れるつもりなんて、ないに決まっている。

そう思い込みたい将に、聡はさらに切り込む。

「やるって決めたのは将でしょ。軽い気持ちかもしれないけど、一度返事をしたら、ずっと責任が発生するの。それが大人なの。甘えないで。

将が大人になるまで、あたし……」

「アキラ……、アキラは俺が子供だから、もう付き合えないっていうのかよ」

「……」

沈黙の向こうで聡が言いよどんでいる返事が、将にもわかりつつある。

そのせいで……将の全身を絶望がくるんでいく。空港の喧騒が他人事のように遠くなっていく。

現実世界が、ガラスで遮断されたように、将と離れていく。

それに抗うようにもう一度、確認する。

「ウソだろアキラ……、アキラは俺を見捨てたりしないだろ」

電話の向こうで深いため息が聞こえる。

聡の放つ一言一句を逃すまいと、将は携帯を耳に押し付ける。

「……見捨てたくない。だけど……」

救いの言葉らしきものが聞こえたそのときだ。後ろから将の肩に手が置かれた。

「時間よ」

振り返ると武藤が立っていた。

武藤が時間を告げる声は聡のところにも聞こえたらしい。

「行って……。将。仕事、頑張るのよ」

「アキラ……俺は」

なおも聡にすがろうとする将に、非情にも、切れた通話を示す音が響いた。

将の心は、あれ以来、闇に閉ざされたままなのだ。

 

「聡……」

美智子が、聡の肩に手を置いた。心配そうに眉を寄せている。

聡の顔は……、涙で濡れそぼっていた。目はとっくに真っ赤だ。

将と電話がつながった直後からずっと……、聡は涙を絶えず流していたのだ。