第278話 夏の終り(3)

ようやくウトウトし始めた聡は、セルモーターの回転が繰り返される音で目を覚ました。

気がつくと、聡を後部座席に寝かせたまま、将が運転席に座ってエンジンをかけようとしている。いつのまにか毛布が体にかかっていた。

しかし何度もキーを回しているのに、車は苦しそうなうなりをあげるだけで、なかなかエンジンがかからない。

「エンジン、かからないの?」

聡は身を起こして将のほうをのぞきこんだ。

「あ、アキラ。起こしちゃった?ごめん」

将はキーをまわしながら振り返った。

「……ううん。あ、あたし助手席に戻る」

聡がそう答えたとき、7回目でようやくエンジンがかかった。

暖機運転をしている間、聡は後部座席からいったん紫色に染まったアスファルトにおりると、コーヒーを買いに行くことにした。

もう夜明けだ。山々の上の空は徐々に白っぽくなってきている。

外に出た聡にひやりとした空気が半袖の肌にしみた。

もう8月も終わりだ。信州の夜明けは東京に比べるとすでに秋そのもののように思えた。

「結構、冷えるね」

聡は温かいコーヒーを将に手渡しながら言った。

「うん。俺、寒くて目が覚めたもん」

将は湯気に顔をうずめながら笑うと、

「俺はパーカーがあるから……アキラは毛布にくるまってていいよ」

と優しい声をかけてくれる。聡は思わずその口元を見てしまう。

……どうやら、眠っている間に聡が将に何度も口づけしたのはまるで気付いていないらしい。

今、5時30分、もうすぐ夜明けだ。将は、車を発進させた。

「車、調子悪いの?」

シートベルトを締めながら聡は、何食わぬ顔で将の横顔に問い掛けた。

「うん。ずっと乗ってなかったから気付かなかったけど、エンジンのかかりが悪くなったらしい。

もうすぐ車検なんだけど。……でもたぶん大丈夫だよ」

将が言うとおり、いったんエンジンがかかったミニは、さっきの不調を忘れたように順調にスピードをあげていった。

そこへ、山の稜線から朝日が顔を出して、世界を冷たい紫からオレンジ色に染めていった。

松本インターで高速を降りると、二人を乗せたミニは北アルプスへ続く国道158号を西へ進む。

まだ紅葉には早い木々は、1年で一番濃くたくましくなった緑を朝の中に浮かび上がらせた。

トンネルで安房峠を越えると国道471号に入り、富山方面を目指す。

このあたりは、平湯温泉、福地温泉、新穂高温泉郷といった温泉地帯でもある。

「帰りに温泉に寄るのもいいね。二人で貸切とか」

いつもの冗談めいた将の提案なのに、聡はなぜか予言のように思えてしまった。

それが恥かしくて、でもその恥かしさを見せないように、

「温泉は、いいよね」

とだけ言っておく。

カーブが連続する向こうに、朝日に照らされた槍ケ岳がその鋭いピークをのぞかせていた。

 
 

車は北アルプスの山に平行するような国道を下り、富山入りした。

道のカーブはいつしか穏やかになり、右手に見える山は立山連峰になっている。

「アキラ、お腹すかない?」

富山市街に入ったのをきっかけに、将は運転しながら助手席の聡に問い掛けた。

返事はない。

聡はシートに体を預けていつのまにか眠っていた。

朝の光はいつのまにか白い色になって、聡の半袖の腕を眩しく射抜いている。

麓まで来ているせいか、気温もいつのまにか夏のそれを取り戻したらしい。エアコンは冷たい風を車内に送っている。

教室で見ることのないぴったりしたTシャツに包まれた胸は、無防備に盛り上がり、車の振動でぷるぷると小刻みに揺れている。

シートベルトで締め付けられているせいか、その盛り上がりはよけいに目立つ。

それは、その下の肋骨あたりや腕や肩、鎖骨の華奢さから見ると奇跡的な丸みに見えた。

将は、思わずそれに触れたくてたまらなくなる。

「おっと」

気をとられた将は、危うく前の車の減速を見落とすところだった。

あわててブレーキを踏むと、聡の胸から視線を引き剥がし、前を向く。

気を取り直した将にちょうど、富山ICの標識が目に入った。

将は、気をまぎらわすためにFMのボリュームをやや大きくした。

 
 

富山・金沢間の北陸道は日本海も見えず、平野に田んぼや住宅地が広がるのが見えるばかりである。

朝食をとるために寄ったサービスエリアで目覚めたものの、今度は満腹で聡は再び眠り込んでしまった。

一人で運転する将に悪いなと思いつつも、夏の疲れか、聡は睡魔を抑えることができない。

この夏悩まされた貧血は、盆から学校が休みに入ったことでずいぶんよくなったが、それは睡眠時間が増えたゆえの効果、というのもあるのだ。

料金所などで、ときおり目覚めては、うとうと眠るという状態が続き、車は気がつくと山道を走っていた。

さっき金沢市街で菊の花を買ったから、もうすぐつくのだろう。

聡はシートベルトを装着したまま、大きく伸びをした。

「あ、起きた?おはよう」

将がハンドルを握ったまま、振り返った。伊達眼鏡がサングラスに変わっている。

「もうすぐ着くんでしょ?」

聡はさっきのサービスエリアで買っておいたお茶のペットボトルを口に含みながら訊いた。

それにしてもかなりの山奥だ。

両側には森と畑が続くばかりで民家はほとんどない。

聡は、2月に出張していた山梨の学校のあたりを思い出した。

「あった。あそこだ」

将の声に、フロントガラスを見る。車は舗装道路から、まるで田んぼのあぜ道のような未舗装道路に入り、ガタガタと揺れた。

行き先にはこんもりと茂った木々に囲まれて古い瓦屋根が見えていた。

それこそ目指す寺に違いない。

日陰を選んでミニを駐めると、そこにはまるで栽培しているように草が生い茂っていた。

訪れる人が少ないのか、駐車場も単なる空き地と見分けがつかないのだ。

将は懐紙に包まれた巌の骨をジーンズのポケットに入れると、後部座席に乗せた菊、そして小さな金属製のスコップを手にして車を降りた。

露を浮かべたつゆ草やカラスノエンドウが生い茂る草むら。そこにサンダルの足で降り立った二人を蝉の声の大合唱が出迎える。

行く夏を惜しむかのような大音量に思わず空を見上げた二人に、ちょうど崩れかけた土塀が見えた。

土塀の内側には桜が常葉色の葉を茂らせていて、その葉陰に墓石が見え隠れしている。

「大丈夫?」

将は上を見上げている聡に声をかけた。緑色の葉陰で、聡の顔は青白いように見えたのだ。

「うん。……どうして?」

聡は緑色に染まったまま、将を振り返った。

寺だからなのか、いちおうサングラスをはずした将も手にした菊の花束同様、全身を緑に染めている。

「暑いから、また貧血にならないかな、と思って」

「大丈夫。東京よりは暑くないよ」

聡は将をうながして寺への石段を登った。

短い石段から寺の本堂へと続く庭はモミジなどの木々で覆われ、ここにも濃い木陰をつくっている。

石段の丸みや、門の鬼瓦のコケから寺の古さが伺えた。

本堂もすべてが利休色に変わり今にも朽ちそうな古さながら、線香の香りがすることで誰かがここを守っていることが窺い知れた。

二人は言葉もなく、体中を木々を透過した緑色に染めながら、本堂のわきに進んだ。

紫陽花やつつじの花壇の奥に、ひっそりと墓地があった。

花壇がそこそこ手入れされていることからも、気配こそないが、住職か誰かがいるのだろう。

もしかしたら、寺の存続に巌が援助していたのかもしれない。

土塀と桜の木々に囲まれた墓地は、あと1ヶ月足らずで来る彼岸を待つように、夏草を生い茂らせていた。

森村史絵が眠る墓はすぐにわかった。巌の話によれば、史絵の実家はこのあたりの領主だったという。

その話を裏付けるかのように、墓地の入り口近くにさほど大きくはないものの、古くて立派な墓石を構えていたからだ。

二人は、まず史絵のために墓に水をかけ、白い菊の花を供えて手をあわせた。

燦燦と射す太陽と蝉の声の中に、水はあっという間に蒸発していくようだった。

将は、蝉の声にうながされるように、さっそく巌の骨を埋める場所を目で探し始める。

しかし墓の近くの地面は石で覆われて骨を埋められそうにない。

石のないところはいかにも『隙間』でそんなところに巌の骨をねじこむのはあんまりな気がした。

「将、あそこは?」

聡が指差した先に、ひときわ大きな桜の木があった。

その太い幹と張り出した枝は、墓を囲む桜の中で一番樹齢がありそうだった。

将はその桜の下へと歩いた。

桜はきちんと手入れされているらしく、青々と茂った葉に虫食いなどはなく、近くによると威風堂々とした風格があった。

将は、鉄色の鈍い光沢を浮かべた幹に触れてみる。

桜の幹は、ひんやりと固い感触ながらも、なぜか中から温かさが染みてくるような錯覚に将はとらわれた。

史絵の墓とは少しだけ離れているけれど、ここから墓はよく見える。

根元はすこしだけ湿った雑草が生えていたが、骨を埋めるのに問題はなさそうだ。

上を見上げると、葉陰から漏れる木漏れ日がキラキラと小さく揺れ、将はそれを飽かず眺めた。

「将」

気がつくと、幹をはさんで聡がすぐそこに来ていた。

葉陰から見ると、日なたにいる聡はあまりの明るさに霞むようだった。

「……ここにするよ」

聡は木漏れ日から戻ってきた将の目が、わずかに濡れて光ったのを見た。

それを隠すように将はしゃがみこむと、雑草のない地面を選んでスコップで掘り始めた。

聡もしゃがみこんで、冴え冴えとしたこげ茶色が露出していくところをのぞきこむ。

「これぐらいでいいか」

深さ10センチほど掘った将は、聡に問い掛けるともなく声にする。

そしてジーンズのポケットから懐紙の包みを取り出した。

折り畳んだ懐紙を慎重に広げると、小さな匙1つ分ほどの骨の粉末が、将と聡と同じような緑色に染まって現れた。

将はしばらく、別れを惜しむように掌に乗せた骨を眺めていた。

蝉の声が、まるで読経のようにしゃがみこむ二人を包む。

……それが、一瞬切れたとき、将は骨を穴の中にさらさらと落とした。

「そのまま、埋めるの?」

聡が心細いとも、咎めるとも聞こえる口調で将に問うた。

「……うん」

将はココア色の中のフロストシュガーのように見える巌の骨をのぞきこんだ。

こうやって桜の根元に埋められた巌の骨は、やがて土になるだろう。

そして桜の根に吸い取られ、いつか桜自身になる。それは史絵の墓を見守り続けるに違いない。

だけど将は、土に還っていく巌を惜しむように、しばらく白い骨に土をかぶせずに見つめていた。

その目にはとうに涙があふれていたけれど、聡は何も言わずに将につきあって沈黙していた。