第291話 運命(2)

「アキラ!」

反射的に立ち上がった将は、誰よりも早く倒れた聡に駆け寄っていた。

今日は下ろしていた濃い栗色の髪が、教壇の上に広がっている。

「アキラ、アキラ、しっかりしろ」

呼びかけても、蒼ざめた顔に、血の色も意識も戻らない。

思わずその白い頬に触れた将は、それがひんやりしていたことに恐怖を覚えた。

将は、聡の体の下に手を入れると、抱えあげた。

……前にふざけて『お姫様抱っこ』をしたときよりずっと軽くなった気がする。

だけど意識も力もまったく失った聡の体は、ぐんにゃりとして頚も腕も将の腕からこぼれ落ちるように垂れた。

将は聡の体を横抱きにすると、足で引き戸を開けて廊下へ出て行った。

そのようすを教室にいた一同は、固唾を飲み込んで見送った。

「みな子……」

すみれが、みな子を気遣うようにそっと寄り添った。

「あの二人……まだ」

「ん」

みな子は何に頷くともなく、少し俯いてプリントのあたりを見つめる。

手が幽かに震えている。それを膝に落として、すみれの視線から隠す。

しばらく、シンとしていた教室だったが、しばらくするとざわめき始めた。

1組のギャル系女生徒が能天気に

「いいナー。ああいうシチュエーション憧れる」

「ドラマチック」

「しかもSHOだもんね」

などと声高に話しているのが聞こえる。

確かに。あれを見たみな子は、あまりの羨ましさに嫉妬を覚えた。

自分が急に倒れたとして。将は聡のように抱えあげてくれるのだろうか……。

嫉妬の炎の痕が、心にちりりと痛んだ。

「先生、どうしたんだろう。心配だね」

その痛みに抗うように、みな子はようやく、傍らのすみれに言うことができた。

 
 

聡を一人で抱きかかえて保健室にやってきた将を見て、保健医の三田先生は驚いたようだったが、反射的にベッドを示してくれた。

将は聡をベッドに横たえながら、

「急に倒れたんです」

と必死の形相で三田先生に訴える。

「先生。聡先生」

三田先生の靴を脱がせながらの呼びかけにも聡は反応しなかった。

いったい、どうしたんだ、と将はぐったりとした聡の顔をのぞきこむ。

いつもばら色の頬は、緑がかって見えるほどの白になり、睫の長さを際立たせた。

形のよい唇は閉じられたまま、紫がかっている。

将の脳裏に、いつか病院で会った聡が浮かんだ。

あのとき、確か、貧血と言っていたはずだ。単なる夏バテだとも。

だけど、今日は長袖でもいいほどの涼しさだ。

いまさら夏バテのはずがない。

貧血といえば……将の脳裏に、2年前に大ヒットした小説のヒロインが浮かぶ。

白血病に冒された恋人と死に別れるあの話でも、たしか最初に出た症状は貧血だった。

聡は……もしかして、とんでもない病気に蝕まれているのか。

――嫌だ。

そのとき、将は確かに、棺に入る聡を白日夢のように見た。

将はそんな想像を一瞬でも浮かべた脳を取り出して掻き毟りたい衝動に駆られる。

――アキラが死ぬわけがない。

「どうもありがとう。あとは私がやるから。職員室に行って、代わりの先生を呼んできなさい」

三田先生は聡の襟元をゆるめながら、将を振り返った。

「先生。……アキラ先生は……」

「夏バテで、体調が悪かったみたいだから……。たぶん、また貧血だと思うけど」

三田は、心配をまるで隠さない将の顔を見上げて、なだめるように言った。

「でも、もう涼しいのに」

将は三田の言葉を遮るように反論した。

「もちろん、聡先生は意識が戻っても戻らなくても病院で診てもらうわ。だけど、夏バテってね。

涼しくなってからドッと出る場合もあるのよ。だから、たぶん大丈夫よ。鷹枝くんは教室に戻って。ね?」

それぐらいではもちろん納得できなかったが、少しだけ冷静さを取り戻した将は、黙ってうなづくと、保健室を出るしかなかった。

心配で、後ろ髪を引かれるとはまさにこのことだった。

 
 

白とグレーと薄緑のだんだら模様が、幾何学模様の平面図になり、やがて遠近感が戻ってきた。

自分の目の前にあるのが天井と薄緑色の仕切りのカーテンだということに聡はようやく気付いた。

聡は起き上がろうとして、いやに冷たい自分の体に気付いた。

「気がついた?」

三田先生が、カーテンを開けて顔を出した。

何か返そうと脳は反射したが、唇に届くまでに思考がまとまらない。

「はい……」

仕方なく短い返事で、気がついたことだけを伝えるに留まる。

「授業のほうは、権藤先生がみてくれているわ。視聴覚組は多美先生が」

実務的なことを持ち出されて、ようやく思考を司る部分に血流がまわりはじめる。

「ありがとうございます」

聡は礼を言いながら上体を起こそうとした。

しかし体を支えようとする腕がしびれたように力が入らなくて聡はベッドの上でふたたびよろけた。

血の流れが滞っていたところへ、急速に流れ始めたからだろう。

三田先生があわてて制する。

「聡先生は、今日は大事を取ってここで休んだあと早退するように、ということです。それと、病院にもう一度行きなさい、と」

聡は黙った。

「もう少し休みなさい」

三田先生は年配らしく聡に命じた。しかし布団を掛けなおす手は優しい。

「ここへは……」

聡は倒れたときのことを思い出そうとした。

黒板が……視界が急に、アンテナが壊れたテレビのような砂嵐に見舞われて……手足の先と脳天が冷たくなっていった。

それだけが聡の覚えている全てである。あとはどうなったのか、どうやってここに来たのかまるきり覚えていない。

「鷹枝将が、一人で抱えてきたのよ」

――将が。

「もうすっかりあのコも大人ね。あなたのことを軽々と持ち上げて、血相を変えてここに飛び込んできたわ」

聡はとっさに三田の顔の中に疑惑の色を探していた。

しかし、進学希望の生徒の中では一番背も高く、がっしりとした将が聡を運んでくることに、さしたる違和感を持っていないようだった。

「鷹枝……くんが」

安心した聡は、将の名前を反芻した。

――将が、自分を抱えて……。

だが甘い想像は、厳しい現実を連れてきた。自分の体が抱え込んだ現実。

実は……聡はすでに昨日、病院に行っていた。

そこで思いがけない現実……運命が自分に訪れたことを知ったのだった。

聡は目の前が、真っ暗になった。

嘘だ、と疑った。

だが、医師は紛れもない事実を聡に突きつけるだけだった。

昨日一晩中、聡は悩み、眠れなかった。

このことを……どうやって将に打ち明けるべきだろうか。

将から受け取った、今日からしばらく学校に来れるというメールをあけて聡は苦しんだ。

そして……今朝。

生徒たちの中に将の顔を、見つけた聡は、緊張と安堵の両極端が体を支配しようとするせめぎ合いの中で、気を失った。

 
 

カラスの声に、聡は目覚めた。

眠ればすべては夢に変わってくれるかもしれない、と期待した聡だった。

しかし目覚めるなり現実が体に寄り添っていることを実感し……起き上がる気力を失った。

もう、夕方らしい。自宅コーポの白い天井は薄墨色になって聡を憐れんだ。

このところ、暮れるのがどんどん早くなる。

聡は鉛のような体を横に向けた。

――どうしよう。どうしよう。どうしよう……。

そればかりが、聡の頭をぐるぐると回り始めた。それがあまりにも煩くて、聡は布団の中にもぐりこむ。すると

――なんで。なんで。なんで……。

リフレインはフレーズを変えて、耳鳴りのように聡の内耳から離れようとしない。

 

ピンポーン。

玄関のチャイムが鳴った。直後に、

「アキラー。俺」

と懐かしい声と共に、小さくドアを叩くノックの音。

聡は、反射的に起きると、玄関に駆け寄った。鉛のような体が、将の一声で軽くなったかのようだった。

ドアをあけるなり、聡は視覚より先になだれ込んできた干草の匂いにふわりと包まれるのを感じた。

抱きしめられる直前に見た……眼鏡をかけ、帽子を被ったその姿は、将に見えなかったけれど、まぎれもなく将なのはその温もりでわかる。

聡は、キラキラしたものの目くらましで、悩みが見えなくなるのがわかった。

「ゴメン。合鍵、しまいこんじゃってたから」

ひとしきり聡を抱きしめた将は、眼鏡と帽子を脱ぎながらいたずらっぽい笑顔で言い訳をした。そして

「病院行った?」

と顔を近くに寄せてきた。心配のあまり睨みつけるような顔になっている。

答えることができない聡は、

「タクシーで来たの?」

と訊き返しながら、目で将を中へいざなった。

「うん、そう。最近ミニのほうはチェックされてるらしいから……」

ドラマの放映は1月からとはいえ、将は最近CMやバラエティで以前より頻繁にテレビに出るようになっている。

官房長官の息子であることがバレてから、知名度が増したのはあきらかで、迂闊に外を出歩けないのだ。

「アキラ……、変な病気じゃないよね」

「あれ?将、なんか匂いがする」

またしても聡は、はぐらかすしかない。聡は将の持っている白いビニール袋に今目をとめたフリをした。

「ああ、これ。一緒に食べようと思って買ってきた。アキラ、ちゃんと食べてないだろ。こないだ金沢でもずいぶんメシ残してたし……」

将が持っていたのは、久々に見る聡が前にバイトしていたお弁当屋さんの包みだった。

「ありがと。お茶淹れるね」

聡はパジャマ姿のままキッチンに立つと、お湯を沸かした。

「いいよ、冷たいので」

「あたしが、あったかいのを飲みたいの」

将と向き合えば、事実を告げなくてはならない。それが恐くて……聡は無意識に将に背を向けていた。

そうとは知らない将のほうは、さっきより顔色がよくなっている聡を見て安心したらしい。

白いビニール袋から出した弁当をローテーブルの上に置きながら話を続けた。

「それがさ、俺が高校生だって、すっかりバレてて『何が東大生だ。だましやがって』ってオヤジに小突かれちゃって」

どうやら、弁当屋夫妻もテレビで将を見て、今までの将の嘘がわかったらしい。

「サインよこせって言われるし。でも色紙ないから、仕方なく弁当の包み紙にサインした」

将が可笑しそうに話すところを見ると、弁当屋夫妻もそれほど怒っていないらしい。

まもなくお湯が沸いたので、聡は美智子にもらったウーロン茶をペアのマグカップに淹れた。

「温かいうちに食べようよ。俺もう腹ぺこだしー」

そういいながら将は、聡がテーブルにつくのを見計らって自分の弁当の蓋に手をかけた。

白いプラスチックの蓋がずれたとたん。

いつもは香ばしいだけの油の匂いが、鼻から不快感として体に伝わるのを聡は感じた。

逆流する何かを堰き止めるように聡は手で口を覆って立ち上がると、ユニットバスに走りこんだ。