第369話 忘れ雪(3)

「センセ。何、っボーっとしてんの」

ハッと顔をあげた聡の目に、懐かしい将の笑顔が飛び込んできた。

卒業パーティは1組の生徒と合同かつ在校生も出席可能なため、かなりの盛り上がりを見せていた。

色鮮やかな光が入り乱れる中、音とたわむれるように体を揺らす者、ボックスで笑いあいながらおしゃべりに興じるもの。

皆、制服を脱いで私服に着替えてきているせいか、言われなければこれが高校生ばかりだとは思えない。

おそらく、アルコールがないだけで、ふだんの営業どおりのクラブの姿に近いだろう。

その中にいた将が、いつのまにか聡の目の前に立っていた。

将目当てでこの場に参加した下級生の女子なども多いらしく、注目が集まるのがわかった。

将のその顔を見ただけで、目の奥が熱くなりそうになるのを……聡はぐっと堪える。

将は注目などなんでもないように、あつかましくも聡の隣にいた女生徒を押しのけて隣に腰掛けた。

女生徒からのブーイングを

「もう、俺、行かなきゃいけないからさー」

と軽くいなして、将は聡の顔をのぞきこむようにした。

行かなきゃいけない。

その言葉に聡の心臓は人知れず大きく振動した。

将のために。決心してしまった聡。

決心してしまったら。

今が、将との……永遠の別れになる。おそらく。

そんなことなど何も知らない将は、聡にさりげない言葉を掛ける。

「体、大丈夫?」

その瞳の中で、ライトがくるくると万華鏡のように煌いている。

……聡だけに向けられる優しい瞳。

別れたくない。離れたくない。離れられない……。

泣いてすがりたい衝動を聡はぐっと押し込めて、頷いた。

決意は必ず下さなくてはならないのだ。

わかっている。

「そういえばさー」

聡の様子にまるで気付かない将は、聡の隣でソファーの背に寄りかかった。

熱い体温。聡の血液の中の鉄を体の片側に一斉に集めてしまうような将の磁力。

顔をみなくても、気配だけでもいとおしい……将。

このまま将の肩にもたれかかりたいのに、許されない自分。

もう一度、最後に……将に触れたい。

将の肌に触れたのはいつが最後だっただろうか。

聡が記憶を遡っているとも知らず、将は『世間話』を続ける。

「センセーの、お腹の赤ちゃんって、男?女?……そろそろわかるんでしょ」

ごぼ。

お腹の中で『ひなた』が反応する。

この子にとっても実の父親とはこれが最後なのだ。

一生、顔をあわせることのない父親……。

将は、いつか自分のことも、ひなたのことも、まったく忘れるのだろうか。

将の中で自分の重みがまったくなくなるとき。

そんな日は未来永劫、来ないほうが自然だった。

将は去った自分を探すだろう。……あるいは待つだろう。

いいや。

聡は、そんな考えを振り払う。

いつまでも自分への思いをひきずってもらっては困るのだ。

将の幸せのために、将から離れるのだから。

だけど……将が自分を忘れる日を想像した聡は、心の奥から狂おしいほどの悲しみが湧きあがってくるのを必死でこらえる。

「ナイショ」

聡は心を隠してそっけなく呟いた。

どうせ忘れてしまうなら……お腹の子のことはできるだけ知らせない方がいい。

聡はそう思って、ひなたが将の望んだ女の子だったことを隠した。

「ちぇー」

将はわざとらしく大声を出した。

「ま、生まれたらわかることだけどぉ」

「センセーってば、ウチらにも絶対教えてくれないもん」

チャミが甲高い声で口を挟む。

「ダンナさんにもナイショなのー?センセ」

カリナの問いに、聡はうなづく……口の端を上げるだけでせいいっぱいだった。

『ダンナ』が暗に自分を指していると思い込んでいる将は、聡にだけわかる笑顔を向けてきた。いかにも嬉しそうだ。

その笑顔に聡は激しいせつなさを感じ、思わず目をそらした。

だけど。これでもう最後かもしれない。

脊髄反射のように、聡の視線はゴムひものごとく将に戻っていく。

将は聡とたしかに視線があわさったのに満足したのか立ち上がった。

「じゃ、俺、そろそろ行くわ」

「えーもう?」

その場にいた同級生から声があがる。

「だって、最終便8時なんだもん」

「何、ドラマ?」

「そーそ。最終回が残ってるし」

ドラマ、という単語に、聡は将の才能の1つを思い出す。

元倉亮脚本によるドラマは、視聴率こそ13%台と地味ながら、一定の評価を得ていた。

『峻を演じる鷹枝将の、哀しい過去を暗示しつつの爽やかな演技は、まだ10代だとは思えない存在感がある。このドラマを最後に俳優は休業ということだが大変惜しいことだ』

聡は最近見た新聞のドラマ評と共に、将が雪の中に立ち尽くすドラマのワンシーンを思い出す。

それはたしかに胸を打たれる姿だった。

将本人の過去を知らずとも、同じような感慨を視聴者に与えられる力量を、その記事は示していた。

その記事を見たとき、聡は、嬉しさと共に、そこまで素晴らしい将の才能の一つを自分のために捨てさせることにおののいたものだ。

だけど、それも。

聡が将から離れれば。将はその才能を無碍に捨てる必要はなくなる。

華やかな才能はいつか芽吹いて花を咲かせる日もあるかもしれないのだ……。

「……じゃ、センセ」

その声に、聡の体はびくんと震えた。

将は、聡の傍らを立ち上がると、再び聡を見下ろした。

――いかないで。

……もちろん聡の喉は渇いて貼り付いてしまったかのように声が出ない。

聡の心から流れて行きそうな柔らかくて熱い部分を冷静な理性が必死で固めている。

「合格発表の結果は連絡するから」

――不合格、だったのだ。

そんなことを伝えることもできず、聡はただせつなく将を見上げる。

理性は声帯を凍りつかせるのがせいいっぱいで。何度もまたたきをして涙は押し留めているものの、せつない思いが瞳からほとばしり出てしまうのを聡は止めることができない。

それに、今年からより難しくなったといわれる後期で、万が一合格したとしても。

二人の運命はもう決まっているのだ。

いや。

聡は決めざるをえないのだ……。

そのとき。

将はすっと手を差し伸べた。

一瞬、すべてを知っていた将が、自分を連れてどこかへ飛び去ろうとしているのかと、聡は大きく期待した。

しかし、その指のクラシックな揃え方で、聡は瞬時にその期待がありえないことに気付く。

将は生徒として、恩師に握手を求めているのだ。

聡はせつない視線を制御できないまま、立ち上がると、将の求めに応じて、握手を返した。

熱い、将の掌。

それを知ったのは、まだ聡が将の担任になってまもない頃の……たしか夜の港だった。

ふいに握られた手を通して、将の血潮が流れ込んでくるような感覚。

博史という婚約者がいながら、それは聡にとってちっとも嫌な感覚ではなかった。

むしろ心にありえないほどの温かさを感じて、聡は素直にそれを握り返したはずだ。

あのときから将は聡にとって、かけがえのない存在であると自覚したのだ。

今、聡はそのかけがえのない愛を手放そうとしているのだ。

この手が離れたら。

それこそ、最後。

離したくない。

離さないで……。

聡の願いもむなしく、握り合った手は、あっけなくほどけていた。

聡の掌に、熱い感触のリフレインを残して。

それは、誰が見ても自然な握手だったのだ。

「じゃあね。センセ」

――行ってしまう。

これが将と最後の邂逅だとわかっているのに、聡の体は凍り付いたままだ。

笑顔の将がゆっくりと、後ろを向く。

瞬きさえ惜しいのに……涙を堪えるために、聡は何度も瞬きをしなくてはならない。

大きな荷物を抱えてフロアの皆に小さく手を振りながら、将が遠ざかっていく。

それは、聡無しで将が羽ばたいていく姿のように、聡には見えた。

――行かないで。

感情はあいかわらず叫んでいる。だけど

――どうか、幸せになって。

それを凌駕する強い祈りが聡を立ち尽くさせていた。

千々に乱れた聡の心中を知ることなく、将はついにドアの向こうに消えた。

ドアの向こうに雲ひとつない未来が広がっていることを。

願った聡の瞳からは、とうとう大粒の涙がこぼれ落ちた。