第37話 拉致(4)

 
雹交じりの雨はいよいよひどくなった。

雨だけでなく雷もとどろき、駅は雨宿りとタクシー待ちの人でごったがえした。

将は駅から家までタクシーを使おうかと思ったが、待つ人が多く断念せざるを得なかった。

たかだか1メーターだ。しかし1メーターといえど歩けば10分近くある。

白い粒を包んだ雨はますますひどく道路を叩き、強風にあおられたしぶきが屋根の下まで飛んでくる。

景色がかすんで見えるほどのひどい雨。将は意を決して、冷たい雨の中に飛び出した。

全速力で走る。咳が邪魔をする。信号無視した将に、するどくクラクションが鳴るがかまわない。

頭はあっという間にびしょぬれになり、皮のコートは濡れてずっしりと重くなった。

靴もとうに水浸しになり、その下の靴下ごと用をなさなくなっている。

と、持っていた紙袋が破けて中身が水溜りに落ちた。プレゼントのマグカップが入った紙箱だ。

将は拾い上げた。箱はびちゃびちゃになっていたがかまわず、抱えて走る。

やっとマンションのエントランスにたどりつくと、将はその場にひざまづいて苦しく咳き込んだ。

咳き込むたびに冷たい空気が将の肺に苦しく沁み、それがますます激しい咳を誘発した。

血でも出るのではないかというほど、将の胸から喉は激しく痛んだ。

……ようやく、落ち着いた頃、ちょうどエントランスに瑞樹が現れた。

駅でビニール傘を買って歩いてきたらしい。ローファーに紺の靴下が濡れている。

「将。どうしたの?」

びしょぬれで壁にもたれかかる将に瑞樹は驚いたようだ。将は睨み付けそうになるのをこらえて笑顔を作った。

「部屋、行こうぜ」

瑞樹が部屋に入るのを見届けて、将は入り口の鍵を閉めた。

しかし瑞樹は、逃げ出そうという気配もない。すっかり将のことを信用しているのだ。

「早く、拭かないと」

瑞樹は勝手を知っているバスルームからタオルを持ってくる。

将はタオルを受け取らずに、

「アキラはどこだ」

といきなり切り出した。1秒でも時間が惜しい。

瑞樹は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにそれは冷たい笑顔になった。

「そういうこと?おっかしいと思ったんだよね」
「だからどこだ」

将はずぶぬれのまま瑞樹に詰め寄った。

濡れた冷たい雫が頭から湧き出してくるように顔に流れてくる。濡れた衣類が将の体を冷たくしぼりあげるようだ。

「いうはずないじゃん」

瑞樹は嘲笑った。

「言えよッ!」

将は、瑞樹の両肩をつかんだ。しかしそのはずみに激しく咳がでる。
瑞樹は肩をつかまれたまま将をにらみつけた。

「やだよ……絶対言わない」

将は思わず右手を振り上げた。しかし瑞樹はみじろぎもせず言い放つ。

「殴れるはずないよね。将、言ってたもんね。生理的に女を殴れないって」

将は唇を噛み締めて、右手を下ろした。

そのまま瑞樹の足元に崩れるように膝をついた。床に両手もつく。

「頼む。教えてくれ。頼む」

頭を下げた将の髪の毛からの雫が床にぽたぽたと落ちる。

床に土下座して自分に頭を下げる将を、瑞樹は驚いて見下ろした。

……あのプライドの高い将が、あの女のためにこんな格好をするなんて。

――ますます許せない。

「教えられねーよ。そんな格好をしたって無駄なんだよ」

乱暴な言葉を発した瑞樹は顔をそむけると

「そういう用件だったら帰る」

と玄関へ踵を返し始めた。

「待てよ」

将は立ち上がると瑞樹を追った。思わずナイフを持って先回りする。

「アキラの居場所を教えるまで帰さない」

リビング出口のドアに手をかける瑞樹の前に立ちはだかる。

「そんなもので……刺せるわけ?刺せるなら刺せば」

瑞樹はバカにするように言った。しかし言った後で、将の噂を思い出した。

瑞樹も真相は知らないが、将が人を殺したという噂を信じている一人だからだ。

将は鋭い目で瑞樹をにらみつけると、瑞樹に左手を伸ばした。

「キャ……」

刺される、と思わず目を閉じた瑞樹。

……将は瑞樹の黒髪を掴んでいた。髪にひっぱられて瑞樹の頭が傾く。

「もう一度聞く。アキラはどこだ」

顔は熱で赤くなっていたが、それと逆に将の目は無機質に光っていた。瑞樹は将のこんな顔を初めて見た。

「教えろ」

調子は静かだったが髪を掴まれた瑞樹はだまって将の顔を見るしかない。

数秒沈黙が続いた。

将の右手のナイフが次の瞬間、瑞樹の髪へと非情に動いた。黒髪はジャクっと嫌な音をたてて、瑞樹の頭から離れた。

「……!」

瑞樹は信じられないという顔で将が床に放たれた自分の黒髪と将の顔をかわるがわるに見た。

無表情を続ける将は、再び瑞樹の残った髪を握ると再びナイフを動かす。

「非道い……」

瑞樹の大きな瞳に涙があふれた。

「非道いのはお前のほうだ。丸坊主になりたくなかったら、早く教えろ」

将は瑞樹の涙にもひるまずに、瑞樹の頭に残った、すでに短くなった髪も乱暴にナイフで切り取っていく。

「……くっ」
女に暴力をふるわない、といっていた将にこんな行為をさせるあの女が憎い。

――絶対に言うもんか。

瑞樹は歯を食いしばって落ちていく髪を見ていた。

瑞樹の頭髪がほとんどめちゃくちゃのショートカットになったとき、将の携帯が鳴った。井口だった。

「前原の行き先がわかったぞ」
「どこだ!」

井口は気を利かせて、カイトに『今から参加したい』と嘘をつかせて、場所を手に入れたのだ。
将は、濡れた服のまま、鍵もかけず部屋を出た。

――アキラ!無事でいてくれ!

将はローバーミニのキーを差し込むのももどかしく急発進させた。

瑞樹は切り取られた自らの髪の中にへたりこんでいた。

さっきまでつややかな長い黒髪が自慢だった頭は、部分的に刈りたての芝生ほどに短くなっているのが手触りでわかった。

――悔しい。

――どんなことをしても二人の邪魔をしてやる。

瑞樹は床にうねる髪に誓うと、携帯を取り出した。アドレス帳からある人間を探し出して掛ける。

「はい。週刊パパラッチの安藤です。瑞樹ちゃん?」

「もしもし。面白いネタがあるんだけど……」