第372話 後悔

「大丈夫? 聡」

空港に無事着陸したアナウンスが響くなり、傍らの博史が、顔とお腹をかわりばんこに眺めながら気遣ってくる。

「うん……。なんともないよ」

聡はお腹をさすりながら微笑んで見せた。

お腹の中の『ひなた』は飛行中も静かに眠っていた。

火曜日。

聡は萩にいる両親に、博史との結婚を報告するべく、彼とともに山口・宇部空港行きの飛行機に乗っていた。

妊娠8か月での空の旅は本来は控えたほうがよいのだが、では代わりに新幹線は、といえば長時間の振動はさらによくないようだった。

聡の体調が良好ということで早産さえしなければ、おそらく問題はないだろう、と医師のお墨付きをもらっての今日の萩行きとなった。

ちなみに今週末のボストンへの旅は、康三の指示でわざわざ医師を同伴することになっている。

博史は

「ご両親に東京に来てもらえば?」

と聡の体を気遣ったが、聡自身が萩を訪れることを強く希望したのだ。

聡は微笑みをつくりながらも、別のことが気にかかっていた。

――今日は、合格発表の日。

ドラマの撮影にさし障ることがないよう、発表は撮影が終わる夜を待って、義母の純代から将に連絡することになっている。

不合格を知ったら将は……。

『やれるだけのことはやった』。

試験直後の力強い将の声は、おそらく合格を信じていたのだろう。

それが不合格だとわかったらどれだけ傷つくだろうか。

 
 

あらかじめ電話で伝えていたものの、聡の両親は、聡のお腹を見て驚きを隠さなかった。

両親の喉を、ほぼ同時に固唾が落ちていくのを目にした聡は思わず下を向いた。

「こんなことになってしまい……報告が遅れて申し訳ありません」

博史は額を畳に擦り付けるようにして頭を下げた。

ここでも、博史の父にしたのと同じ説明を繰り返すしかない。

お盆にヨリを戻してそこで子供を授かった、という嘘だ。

果たしてそんな嘘が親に通じるのか、聡は心臓が逃げ出さんばかりに足踏みを始めるのを感じた。

そもそも、前に帰省した時、博史とは結婚しないと宣言してしまった聡である。

「それで、お正月に帰ってこなかったのね……」

母・幸代の眉が寄っている。そんなにお腹が大きくなるまで実の親に妊娠を隠していた聡を責めているのだ。

「……それで予定はいつなの」

責めながらも幸代は聡の顔とお腹を心配そうにかわるがわるに見つめながら問い返してきた。

「……5月」

「じゃあ、赤ちゃんは向こうで産むの?」

今週末にボストンへと発つことも、今伝えたばかりだ。

「……そうなると……思う」

幸代はそのまま絶句すると、傍らの大二郎を振り返った。

「ずいぶん、急なんだな」

大二郎は、渋い顔を崩さなかったが、心配そうな聡の顔をちらりと一瞥すると、諦めたように

「娘は……聡はもう大人だ。その大人が決めたことなんだから、何も言えん」

とため息とともに言葉を投げた。

「本当にすいません」

もう一度頭を下げる博史を見ながら聡は、つい想像してしまう。

もしも。これが将だったら。

本来なら、将が東大に合格したら。

こうやって頭を下げているのは将のはずだったのだ。

博史のように社会人でもなく、高校を卒業したばかり、しかも教え子にして担任を孕ませた将に……両親はどんな態度をとったのであろうか。

いや。

たとえ怒鳴られようとも。勘当されようとも。それでよかったのだ。将と一緒になれるなら……。

聡はハッとした。

この期に及んで、まだそんなことを考えているなんて。

怒鳴られて、勘当されて、世間の目から隠れるように生きる。

そんなことをさせたくないから、この道をえらんだのに。

聡は未練がましい自分の心を、引きちぎって捨ててしまえれば、と唇を噛んだ。

 
 

「……聡。去年のお正月に……博史さんとは結婚しないっていっとったやろ?」

幸代は意を決したように、人参の皮を剥く聡に問いかけてきた。

聡と幸代は……早めの夕食の支度をすべく二人で台所に立っている。

作っているのは聡の家の冬の定番である肉団子が入った鍋である。

――将も好きだった鍋であることは考えないように聡は一心に包丁を動かして野菜の皮を剥いていた。

両親は、急な報告をした聡と博史の二人に、それでも泊まっていけばいいと勧めた。

一人娘がいきなり結婚して外国へ移住すると聞かされたのだから、別れを惜しむのは当然だと言える。

だが博史は

「明日、役所で入籍しますので」

と断った。入籍と聞いた聡はびくっと肩をふるわせた。

今日、聡の両親の許可をもらって早々に入籍するのは、二人で話し合って決めたことだ。なのに。

将ではない他人の妻に……法律で定められてしまうことに、聡は震えてしまう。

「じゃあ、せめて夕食だけでも……ね。6時前に出れば大丈夫でしょう?……聡、ちょっと手伝って」

聡の様子を黙ってみていた幸代だったが、こうやって聡を台所に連れ出したのだ。

 

どきりと揺れる心臓にあわせて、全身がふるえたのではないかと一瞬ひやりとする。

「……あのときはそう思ったんだけど、夏に、ヨリを戻したの」

しかし何事もなかったように打ち合わせた通りの回答を明るく声にする。

「玉ねぎ、刻むね。肉団子に入れるでしょう?」

何気なさを装うために聡は幸代が持ってきた玉ねぎを取り上げると、薄皮を剥く。

「……ほかに好きな人ができたっていっちょらんかった?」

去年の正月。博史が結婚のあいさつに来たとき。聡は母の幸代に温泉で密かに

――ほかに好きな人ができたから、博史とは結婚しない。

と伝えたのだった。

聡は幸代のさらなる問いかけが聞こえなかったかのように手元を動かし続けながら、必死で答えを編み出している。

答えを考えている脳の裏側では、去年の正月、ここで将と愛を確かめ合ったことが蘇っている。

1300キロを寝ずに走って聡のもとにやってきた将。

その将に……『好きなのは将だけ』と伝えたのもこの家だった。

あのとき聡の心にいたのは将だけだった。

いや、今も。愛しているのは将だけ……。

「……ダメだったの」

思い出に押し出されて湧き出てきそうになる涙を、できる限り明るい声で吹き飛ばす。

明るい声にあわせるようにリズミカルに包丁を動かし、手元の玉ねぎをみじん切りにしていく。

「失恋……しちゃったんだ。それで博史さんがなぐさめてくれてね」

そう、本当に。聡は失恋しつつあるのだ。

振られたり、振ったりするだけが失恋ではない。

こんな風に……深く愛し合っていても実らない恋だってあるのだ。

聡は、今まさにかけがえのない恋を手放そうとしている。

自分から、将を捨てようとしているのだ。

それを自覚した途端に、耳元で将のささやきが蘇る。耳の産毛が震える感触も鮮やかに。

――アキラ。アキラ愛してる。

――俺は、アキラだけだから。

――アキラがいればそれでいいんだ……。

手放したくない……将。

「……聡?」

まな板にぽたりと涙が落ちて、幸代が心配そうに聡を見上げる。

「ごめん。……この玉ねぎ、めちゃくちゃ滲みるね」

聡は包丁を置くと、台所に置いてあったティッシュで涙をぬぐった。

「大丈夫?……聡」

背後から心配そうな幸代の声。

「うん。ちょっと滲みただけ」

思い出が、ほんの少し、心に滲みただけなのだ……。

聡は何でもなさを演出するために、さらにティッシュで鼻をかむと微笑んで見せた。

「聡」

幸代は聡の正面にまわった。

聡より背が低い幸代だから、聡を少し見上げる形で……聡の瞳を直視した。

「本当に、博史さんと結婚するんね?」

母の強い視線に聡はとまどった。しかし目をそらすわけにはいかない。

これは自分が決めたことなのだ。

将のために、決意したのだ……。

聡は母の瞳を見詰めたまま、無言でうなづいた。

「後悔は……しないんやね」

後悔。

その単語に聡の心の奥深くがことりと音をたてた。

もう……すでに悔いている部分を聡は自覚していた。

でも。

自分の気持など、二の次でしかない。

大切なのは、自分より大切な将の、将の幸せ。

そのためなら、後悔することになっても、かまわない。

そう思っているのは本心なのに。

なおも将を求める心の奥深くは、血を流しながら叫んでいる。

――将と離れたくない。

――将と別れるなら生きている意味がない。

封印していた奥底で渦巻く激しい感情は、母が口にした『後悔』という単語によって、一気に動脈を伝って心臓を激しく叩いた。

聡はなんとかそれを押し殺してもう一度強くうなづいた。

だが、瞳は。

……理性のコントロールの及ばない瞳からはすでに涙がこぼれおちていた。

「聡……」

次の瞬間、聡は母にすがりついていた。

母親を目の前にして、タガがはずれてしまったかのように。

涙はあとからあとからあふれ出てくる。

「バカな……バカな子だね、この子は」

幸代は、もはや何も訊かなかった。ただ聡の背中をそっと撫でる。