第373話 最後の望み(1)

「……それで聡さんのご様子は?」

鷹枝家の居間。いつものように毛利が報告をすべく純代と向き合っていた。

「……はい。健康的には何も問題ないとのことです」

「そう。よかったわ……それで、新しいお部屋のほうの準備は?」

将の前期不合格を告げられた聡に異変が起こるのを心配してた純代はほっとした顔になった――純代は康三になにも知らされていない。

毛利は何食わぬ顔で……康三には、聡が博史とボストンへと旅立つ準備が整った報告をし、そしてその妻の純代には将との約束がまだ生きているかのように立ち回っている。

「都内の、病院の近くにマンションを用意しました。……こちらが登記書です。万端整えてあります。あとは古城先生が入居されるばかりです」

将が後期の合格を果たした場合……聡をできるだけ世間から隠すようにして、最終的には望みをかなえてやる。

そんな純代の準備を、さもきちんと代行したかのように毛利は書類を差し出した。

「わかりました。いつも、面倒をかけますね」

……珍しくねぎらいの言葉をかけられて、毛利はほんの少しあせった。

すべては無駄になることを承知で、嘘の一環として手続きを万端に進めながら毛利はふと思う。

……家族すら、妻すら裏切って康三が守ろうとしている「体面」とは何なのだろう。

掴もうとしている総理の座とは、それで実現しようとしている国づくりとは、何なのだろう。

一瞬よぎった疑問を、毛利は手元に引き寄せることなくやりすごした。

康三のために、もっと大変な修羅場をこなしてきた毛利にとってはどうということはない。そう思いこもうとした。

 
 

「将くん、おはようー」

ロケ現場近くにあるホテルの朝食会場。

窓側の席で一人でパンを頬張る将に気づいた詩織が、くったくなく声をかけてきた。

「おはようございます」

見上げた将はぺこりと頭を下げた。

「ここいい?」

詩織はトレーを将の前の席に置いた。ヘアメイクの女性も一緒だから特に異論はない。

噂の二人とからかわれたのも最初だけで、スタッフは皆、将と詩織がなんでもないことは納得づくだ。

詩織には大学の同級生……つまり一般人と付き合っていることは、騒がれないだけで周知だったし、将はドラマの中でどんなに打ち解けても、素では詩織に先輩としての態度を崩さなかったから。

正月明けに出た週刊誌の記事は、現場ではていのよい話題づくり程度に思われていたのだ。

「将くんのラスト、今日こそギリギリで撮影できそうね」

詩織はよく晴れた窓の外を眺めてほほ笑んだ。

「はい」

今日で3月も11日。最終回の放送日まで2週間となった。

将が準主役を務めるドラマ『あした、雪の丘で』のロケも終盤の大詰めに差し掛かっていた。

将が登場するラストシーン――晴れた雪の丘のてっぺんを目指して峻が新雪に跡をつけながら歩いて行く――ほとんどそれだけのシーンが撮れずに、将は現場で待たされることになった。

ちなみに他の登場シーンはすべて撮り終えている。

詩織や主演の熟年俳優はまだ数シーン残っているが、将はその場面だけ撮ればクランクアップのはずだった。

……監督が将の受験スケジュールに気を配ってくれたのである。

「昨日は、一日勉強?」

うなづいた将に、詩織は「大変ねえ。受験とのかけもちは。スケジュール延びちゃったし」と同情する。

本来は将の撮影は早くて9日に終わる予定だった。しかし、青い空はなかなか現れず……結果、天気まちで将は2日間もここに足止めを食らっていたのだ。

もちろん足止めされている間、仕上げには余念がなかったが、それでも、今日晴れて、本当によかった。

将は心からほっとした。

あさってからいよいよ後期試験が始まる。撮影を残したまま試験にのぞむよりはずっといい。

 
 

9日の夜、将は義母の純代から前期試験が不合格だったことを電話で聞かされた。

もしも合格だったら、すぐさまメールか何かで連絡してくるだろう……それを、撮影終了まで待って連絡してくるということは……と、うすうす感づいていた将はそれほどショックを受けなかった。

試験の出来は、将としてはそう悪くはなかったのだが、それでも合格できなかった。

そんな事実に

――やっぱり東大は甘くない。

と将は再確認することになった。

電話のむこうでは純代が

「まだ後期があるから。後期の二段階選抜の合格通知も来てるのよ……前期より狭き門に合格してるから望みはあるわ」

と、受験に失敗した将に気をつかっているのがわかる。

前期の不合格に対しては、さして悔やむところではない。

しかし残り1回のチャンスへの重圧が急に増したのを強く感じた。

13日に行われる後期試験がダメだったら、聡とは……。

電話を切った将は、聡の番号を押しかけて……途中で止めた。

聡をがっかりさせてしまうこともそうだが、今聡の声をきいたら。

すべての歯止めが利かなくなる気がする。

会わずにおれないほど……せつなさがつのりそうで。

かろうじてせきとめている心細さや不安が、聡の声を聞いただけで雪崩のように崩れる予兆を将は感じずにはいられない。

――結局将は、前期の不合格をメールで聡に伝えることにした。

   >ゴメン、前期ダメだった。

   >もともと前期は「ダメもと」だったし、でも後期こそは絶対大丈夫だから。

   >俺を信じて、心配しないで。

本当は、声が聞きたいのをぐっと抑えて、将は送信ボタンを押した。

そして最悪の考えに至りそうになる脳に暇を与えないよう、最後の勉強に没入することにしたのだ。

今年から新形式になった後期試験はほとんど、その場の瞬発的な思考力と発想にかかっていると予想されている。

(もちろんそのバックグラウンドにある知識や教養がものをいうのだが……)

だから、9日に撮影が終わろうと、今日11日まで引っ張ろうと関係ない。

将はそんなふうに前向きに考えることにして、あいかわらず実力不足を実感している英語の勉強に昨日の待ち時間をあてたのだった。

 
 

将はコーヒーを飲みながら、窓の外に目を移した。

美しい丘の町は、その白一色の起伏を、朝日の下に浮かび上がらせて果てしないようだった。

とにかく。

今日は撮影を失敗なく終わらせて、東京へ帰る。

そしてあさっては、気持ちを無にして試験に臨む。

それしかない。

将は青空の下にうねる雪の丘を眺めた。

そんな将は……聡がすでに法律上で、人の妻になってしまっていることを知るよしもない……。