第388話 旅立ち(2)

将はなぜか、また聡の元に戻ってきたのだ。

「忘れ物」

そういいながら、将はこちらへと大股で歩いてきた。

聡はふいを突かれた驚きのあまり、流れた涙をぬぐうことも忘れていた。

「何で泣いてるの?」

再び聡の目の前に立った将は、そこで初めてけげんな顔をした。

もちろん聡に理由など言えるはずもない。

涙をぬぐいながら

「忘れ物って何かあった?」

と訊き返すのがせいいっぱいだった。

いたずらっぽく微笑んだ将の顔。

と、次の瞬間、朝の冷たい空気が遮断されて聡はすっぽりとぬくもりに包まれた。

将はそのまま聡の頬に両手を添えると、軽く口づけをする。

さっきより軽い、お互いの唇のぬくもりと柔らかさだけを確認するような優しいキス。

以前、こんなふうに聡のもとから出かける将に口づけを与えたことがあった。

あのとき、聡は自分から『忘れ物』と将を誘ったはずだ。

柔らかな感触が甘い記憶を呼び出す……。

 

「アキラ。心配しないで」

唇が離れたとき、将はそう囁いた。

柔らかくなった瞳が至近距離から聡に注がれる。

「俺、頑張るから」

そういって将は口角をきゅっとあげると、若竹のようにすっと背筋を伸ばした。

「じゃ、行ってくる」

将は軽く手をあげた。

そのまま聡を振り返りながらも、あんまりタクシーを待たせては、と思ったのか今度は走り去った。

将。

聡が廊下から身を乗り出したそのとき、階段を降り切った将が上を見上げた。

――将。

行ってしまう。もう二度と会えない……。

見上げた将は聡に向って軽く手を振ると、開いたタクシーのドアの中に乗り込んだ。

それが最後だった。

タクシーはそのまま走り去った。

将の乗ったタクシーが見えなくなるまで聡は見送った。

目からは涙がとめどなく流れていた。

 

しかし、時間があまりない。

聡は涙を手の甲でぬぐうと、部屋に入った。

空気にかすかに混じる将の匂い……新たなる涙がにじみそうになる。

それを聡はこらえながら便箋を取り出す。

一刻の猶予もない。博史が迎えに来るまであと30分あまり。

将への手紙を書きあげて、食器を洗って、着替えて……それだけのことをしなくてはならない。

聡はペンを取ると、したため始める。

きっぱりと、冷酷に……迷っている暇はない。

 

   ――鷹枝くんへ

 

宛名はわざと苗字を選ぶ。

将という名前を呼んでいいのは親しい人だけだろうから……将と一線を引くべき聡はもはや使ってはいけないのだ。

 

   ――私は、鷹枝くんとは結婚できません。それは、よく考えた結論です。

   ――あなたの若さも、家柄も、あなたにかかる大きな期待も……一緒に受け止めていく自信がありません。

   ――私は、私にあった安定した人生のために博史さんとやりなおすことにしました。

   ――両親も賛成してくれました。

 

将を追い詰める言葉を……意図的に選んで書きながら、聡は息が詰まった。

これを見た将はどんなにうちひしがれるだろうか。悲しむだろうか。

悲しむよりは、怒ってほしい。怒りを今後の人生へのパワーにしてほしい。

それだけを願って聡はペンを進める。

 

   ――若いあなたとの時間は、私にとって思いがけないものでした。とても楽しかった。

   ――だけど、生活は、人生は――そうはいかないと思う。

 

聡の人生にとって将はゆきずりの恋にすぎなかったのだ――。

したためた嘘が、事実となって将に届くことを考えると聡は絶望しそうになる。

生きる希望さえなくなりそうになる。

かけがえのない、たったひとつの愛をこんな風に貶める理由を忘れそうになる……。

 

   ――子供は、博史さんの子供として育てます。

   ――だから、鷹枝くんは、鷹枝くんの人生を早く見つけて。

 

将の人生。将の幸せ。

聡がこの愛を諦める理由はただひとつ。

将の幸せのためなら、自分の幸せを捨ててもかまわない。

いつかひらめいた予感が……いま、現実になろうとしているのだ。

聡は最後に自分の名前をしたためると、それを素早く折りたたんだ。

折りたたみ終わったのとほぼ同時に……涙がボタボタとローテーブルに丸い水たまりをいくつもつくった。

 
 

タクシーは高速に差し掛かっていた。

将は、シートに寄りかかりながら考えていた。

何かが、ずっと、胸にひっかかっている。

いや、胸にひっかかっているものの正体ははっきりしている……それは昨日からの聡の泣き顔。

さっきも聡は泣いていた。

いくら今日の受験が心配だからといって。

今日の受験に失敗したら引き離されるからといって。

悲観的過ぎるのではないだろうか……。

悲観的?

聡が泣いていたのは、将が出ていったあとだ。

あのとき、将がふいに戻ったから目にしてしまっただけで……今朝の聡は涙を見せないようにこらえていたはずだ。

こらえていた?

何のために?

考えれば考えるほど、ずるずると何かが引っ張り出されてくる。

何か。不安のようなもの……。

気のせいだ。

ついにやってきた正念場だから……聡も涙もろくなっていただけだ。

そう思おうとしたけれど、脳の奥では割り切れないでいる。

何かが、ずっと注意信号を発している。

しかも深刻な……。

やめよう。今はそれどころじゃない。

今から試験だ。

よけいなことを考えている場合じゃない。

将は目をつむると、不安を追い出すべく瞑想した。

聡の涙の理由は、このもやもやは。試験が終わった後でゆっくり追及すればいい。

いや、今日試験が終わったら二人で大磯だ。

そこでなにもかも解決する……。

息を吸い込んで、目をあけると窓の外を眺める。

都市高速は車が多くなってきている。追いこし、追い越されていく車のボンネットにきらきらと春の朝日が反射している。

すぐ横を追い越していった一台のタクシーを見送ったとき、将の中で、ことり、と何かが動いた。

そのタクシーは……今から成田方面にでも向かうのか、トランクから、大きなスーツケースがはみ出していた。

スーツケース。

将は視線を窓から膝の上に落して、今一度、記憶を探る。

昨日。階段ですれ違った業者が抱えていたスーツケース。

聡のスーツケースは。山梨にいったときのスーツケースは別の色だった。

しかし。

将は、昨日のスーツケースをどこかで見たことがある。

――どこだ。

将は額を右手でわしづかみにした。

次の瞬間、ある記憶が稲妻のようにひらめく。

去年の冬。同棲していたとき。

聡の部屋のクロゼットの中。

将のために、聡は自分のクロゼットの1/3ほどを整理してくれて……将のためにあけてくれた。

そこには、聡のスーツケースが大小2つあるのを……将はたしかに見たのだ。

『アキラ、スーツケース2つも持ってるの?』

『ふだんはこっちしか使わないけどね。大きいほうは留学してたときのなんだ。めったに使わないから、中には季節はずれの服を入れてる』

間違いない。

こっちしか使わない、といっていたのが山梨に持っていったほうで、昨日……業者が持っていったのは、その大きいほうのスーツケースだ。

――しかし、なんで……。

『アキラ先生が、ダンナさんと一緒にボストンに行くって、鷹枝クン知ってた?』

稲妻のあとの雷鳴のように。

兵藤の声が蘇って将は顔をあげた。両のまなこが大きく見開かれている。

まさか。

冷汗が一筋、将の背中を流れていく。