第411話 最終章・また春が来る(19)

36週で生まれた陽だが、低体重である以外はなんの異常もなく、健康そのものだった。

産んで間もなく聡は初乳を与えることになった。

――将!

わが子に初めて対面した聡は、そこに確かに将の面影を見た。

――まだ生まれたてなのに。どうかしている。

真っ赤でしわくちゃの新生児……だけど、見れば見るほど似ている気がした。

――将。あなたにそっくりな赤ちゃんが生まれたのに……。

その父親である将はいまだ、意識が戻らない……。

『感動してるのね』

思わず涙ぐむ聡に、アメリカ人の助産師が微笑みかける。

ちょうどそのとき、突然の出産で、立ち会えなかった博史が許可をもらって入室してきた。

一瞬おびえたように顔をあげる聡など見なかったように、博史は赤ちゃんを見るなり相好を崩した。

『ちっちゃいなあ……。かわいいなあ……』

そうやって赤ちゃんを見て目を細める顔に偽りはなく……博史は心から感動しているようにみえた。

『聡に似てるよ。美人になるぞ』

その言葉に、聡は少しほっとする。

まだ生まれたて。誰に似ているなんて、見る人の見方次第なのだ、と聡は思いこもうとしつつ、自分の乳房に吸い付くわが子はやはり将に似ていると思う。

安心しきったときの将の顔を思い出して……聡の目じりから涙がこぼれた。

まもなく初乳を与え終わって、小さな生まれたての赤ちゃんは博史の手にゆだねられた。

この病院では、これから父親の手によって新生児室に連れて行かれ、父親自ら体重測定などを行うことになっている。

本能的に聡は少しおびえたが……杞憂にすぎなかった。

博史はさもいとおしそうに、聡の産んだ赤ん坊をそっと抱えた。

『名前、何にするか決めてる?』

博史は赤ちゃんから目を離さずに、聡に聞いた。

かわいくて仕方がないというように、『わが子』に唇をすぼめている。

そんな無防備な博史を聡は初めて見たと思った。

そこまで喜ぶ様子を見ていると、本当に博史がその子の父親であると錯覚しそうになるほどだった。

『……陽(ひなた)、にしようと思って』

『原田 陽か……。いいね』

博史は、よしよしと赤ちゃんを揺らしながら、今日はよく晴れていて、ここに来る途中の桜並木が少しほころんでいたことを告げた。

『こんな素晴らしい春の日に生まれた子にふさわしいね』

嬉しそうにこちらを振り返った博史に対して……聡は少し後ろめたい気がした。

そして、子供に『ひなた』という名前を付けた将のことを再び案じた。

 
 

「鷹枝くんの意識が戻ったことを聞いたのは、その翌日だったわ……。毛利さんがこっそり連絡をくれたと……博史さんから聞きました」

そこまで言って聡はひといき付いた。

博史から将の無事を聞いたとき、聡はみたび、涙をこぼした。

――よかった……。

これで完全にふっきることができる。

将をおきざりにして離れる自分の迷いを断ち切ることができる。

これからは、無事に生まれた陽を大切に慈しみながら、生きていけばいい。

将のことは遠くから見守ることができれば、それでいい……。

「鷹枝くんの無事を聞いて……私は、ようやくふっきることができたのです」

穏やかな聡の口調。

本来ならその余韻が在るべき間に、将は割って入った。

「あなたはふっきったのかもしれないが」

聡はあいかわらず哀しげな瞳で将を見つめていた。

まるで、その言葉が返ってくるのがわかっていたかのように。

思わず将はひるみそうになるが、あまり抑揚をつけずに続ける。

「置き去りにされた僕は、どうしていいかわからなかった……」

 
 

一方、将は驚異的な気力でリハビリをこなしていた。

聡が心配で。聡に会いたい一心で。

「思えば、変でした。……だって携帯もメールもつながらないんですから。だけど、僕は何か事情があるんだろう、まずは体を治さなければとやっきになっていた」

2か月たらずで、将は車いすに自力で乗り降りできるほどに回復した。

手すりにつかまれば、数歩ならどうにか歩けるようになった頃になると、将は再び不審を感じ始めていた。

聡の出産予定日は5月の中頃だった。

純代は『初産だから遅れている』と説明したが、今はもう、6月なかばになる。

遅れているにしても……あまりにも遅すぎることぐらい、将にもわかる。

何度目かの鋭い追及に、純代はとうとう観念した。

『将。……これを』

さすがに自らの口で説明できないと思ったのか、純代が差し出したのは手紙だった。

聡の筆跡に、ひとたび将の眉毛がゆるむ。

しかし……その直後。手紙を持つ手がぶるぶると震え始める。

『……将』

純代は何と声をかけたらよいのかわからず、おどおどと将を盗み見る。

『……嘘だ』

やがて将は低い声でつぶやいた。

『隠したんだろう……?』

『ちが……』

違う、断じて違う、と涙目を見開いた純代を押しのけるように、将は怒鳴った。

『オヤジのさしがねだろう!』

『違う、違うわ。将!……私だって何も知らなかった』

『アキラをどこに隠した!』

そう叫ぶと、将はベッドから飛び降りた。

しかし、飛び降りた足はまだ回復していない。

着地する力が足りなくて、将は大きな音をたてて床に転倒し、純代が悲鳴をあげた。

倒れた将の上に、ひらひらと聡の書いた手紙が舞い降りる。

――私は、鷹枝くんとは結婚できません。それは、よく考えた結論です。

――あなたの若さも、家柄も、あなたにかかる大きな期待も……一緒に受け止めていく自信がありません。

これが……聡の筆跡であることは、将が一番よく知っている。

『アキラ……!』

将は倒れたまま、這うようにしてドアに進もうとした。

『鷹枝さん、どうしましたか!』

物音に気がついて看護師が駆け寄ってくる。

将は抱き起そうとする看護師をも押しのけて進もうとした。

『放せ! アキラは、アキラに会わせろ!……』

押さえつけられて鎮静剤を打たれながらも、将は聡の名前を呼んだ。