第415話 最終章・また春が来る(23)

博史はまだ、少し離れたところに立っている将に気づいていない。

たんぽぽの綿毛に興味津々の我が子しか眼中に入っていない様子だ。

いや、博史の「我が子」ではない。あれはたぶん……将の子。

聡が産んだ、将の子。

将が知っている予定日から計算すると、0才11か月。

だけど、将が知っている11か月の赤ちゃんよりずっと成長しているように思えた。

淡い黄色のワンピースを着た「彼女」のくるくるとした巻き毛は、すでに水色のリボンを飾れるほどの量があった。

赤ちゃんというよりは、幼児に差し掛かっているようにさえ見える。

それでも綿毛を吹くことができない「彼女」に代わって、博史がまた吹いてやる。

綿毛は高く舞う。

「彼女」はそれを追いたいのか、ベビーカーにつかまって立ち上がり、一心に目でそれを追っている。

見開いた瞳はすでにくっきりと印象が強い。

『将、子供の頃は目がすっごくぱっちりしていたんだね。女の子みたい』

聡の声が蘇る。たしか、大磯でのクリスマスの夜。

将の子供の頃の写真を見て笑った、聡……。

「アー、たぁた」

立ち上がった「彼女」は博史を振り返る。

「わかったわかった」

博史は立ち上がると「彼女」の両手を取った。「彼女」は嬉しそうに芝生の中で足を一歩踏み出す。

一歩、また一歩。博史の両手にしっかりとつかまりながら「彼女」は大地を踏みしめながら歩く。

「よしよし、上手。ひいたん、上手だね」

博史の声音が、滑稽なほどに甘く優しい。

「タバー!」

『ひいたん』は何かを見つけたのか、博史の手を離れて、芝生の上をハイハイし始めた。

手につかまって歩くより、ハイハイの方が移動スピードが早い。

「こらこら」

といいながらも全然怒っていない博史の声。ひいたんの行く先へついていこうとして……そこで初めて、立ち尽くす将に気が付いた。

博史の視線は一瞬、将を見つめたが、すぐにひいたんへと戻った。

彼女は、芝生の中に生えるクローバー――シロツメクサの白い花が欲しかったようだ。そのシロツメクサは将の足元で咲いていた。

「たバ」

花のすぐそばまで来たひいたんが嬉しそうに博史を見上げる。

「クローバー、よく覚えていたね」

ひいたんはハイハイをやめて座り込むとシロツメクサに手を伸ばした。

「今、美容室に行ってるんだ」

つまり、聡はここにはいないということを、博史は主語を省略して将に伝えた。

視線は子供から移さず、挨拶も何もなかったが、将に話しかけているのは声色の違いですぐわかった。

特にうろたえることもなく、落ち着いた声色だった。

その落ち着きと、子供の存在に、将は応えあぐねた。

ただ、博史の視線の先にいるひいたんを言葉もなく眺めるしかない。

「はな!」

『ひいたん』が摘んだシロツメクサの花を見せようと博史を嬉しそうに見上げた……そして将に気づく。

博史は花を握った『ひいたん』を抱き上げた。

ひいたんの不思議そうな視線が、将の視線の高さに近づく。

一瞬、幼い視線と将の視線が交差した。

「たぁた」

博史の腕に抱かれたひいたんは、握ったシロツメクサの花を、ふいに将に差し出した。

「こえ」

小さな手から、丸い白い花が将の方に差し出されている。

とまどう将に、

「あまり人見知りしない、いい子なんだ。ね、ひいたん」

博史が穏やかな声でフォローした。その視線はあいかわらずひいたんだけに注がれている。

何があっても我が子から目を離さない。

それは我が子を愛し守る父親そのもの、としか思えない。

ひいたんは、花を差し出したまま、その丸い瞳で将をじっと見つめている。

その小さいながらも強い目力に促されるように将はやっと言葉を出せた。

「……くれるの?」

「た!」

将はシロツメクサの花をその小さな手から受け取った。

「……ありがとう」

花を渡したひいたんは将に一瞬笑いかけた。

次の瞬間には嬉しそうに博史を見上げて、そして博史の首にしがみつくようにして、将の視界から笑顔を隠してしまった。

その子にとって父親は、将ではなく、博史なのだ。

守ってくれる存在は、博史なのだ。

子供にとってそうならば、その母親は。聡は……。

 

「……ばいばい」

将は自分から小さく手を振った。それがせいいっぱいだった。

聡の「いま」の幸せを壊せない。

将にできるのは、もう会わないことしかない。

将の声にひいたんは少しだけ振り返ったが、すぐに博史の首にしがみついた。

「……会わないのか?」

聡に、を省略して博史が淡々と問うた。それは他人が聞いたら憐れむようでさえあった。

「いいです」

将は博史に一礼すると、シロツメクサを握ったまま、二人に背中を向けて歩き出した。

早足で立ち去ろうとする将に、風にのって桜の花びらの一群が舞い降りてきた。

その花びらから逃げるように、そして、涙を振り切るように、将はいつか走り出していた。