第423話 最終章・また春が来る(31)

「待ちに待った子供が流れて、博史さんは……夫はよほど落胆したのでしょう。私たち夫婦はそこからギクシャクしはじめて……とうとうダメになってしまいました」

聡が話す内容は、かつて陽が将に話したことと、ほぼ同じだった。

しかし、その淡々とした口調ゆえ……聡が多くを意図的に省略しているのは、却ってよくわかるようだった。

きっと、博史は聡につらくあたったのだ。

将には目に見えるようにわかる。

だけど、それを聡の口からほじくり返させるのは、やめようと思う。

つらいことをいちいち繰り返し思い出させることもない。

聡の人生は、残り短いのだから。

だけど、聡の中では、つらかったあの頃が、セピアに変わりつつ繰り返させれている。

 
 

子供が流れて博史は変わった。

サンノゼにいったまま、家に帰らなくなった。

たまに家に帰ってきても独りで……聡も陽も寄せ付けずに過ごすことが増えた。

書斎にこもった博史は酒をあおる。

心配する聡に怒鳴りつけることさえあった。

あるいは。

「お前は、俺の何なんだ」

完全に坐った目でつぶやくように問いかける。

しかし問いかける形をとりながらも、聡よりも前に言葉を投げる。

「俺の女房なら。なんで俺の子は産めないんだ」

「あなた……」

「教え子の子は産めて、なんで俺の子は……産めないんだ」

博史の声は、ボストンに降る秋の雨より冷たくて。

聡の体を冷たく縛り上げるようだった。

だけど、聡はわかっている。

博史がそんな風になったのは、自分のせいだと。

どうしても将を忘れられない自分。

博史はそんな聡をわかっているのだろう。

子供が流れたのは、きっかけにしかすぎない――自分たちは最初からダメだったのだ。

そんなことはない。

……頭にふとよぎった言葉を、聡は否定する。自分に言い聞かせるように。

この5年間、自分たちは温かい家庭を築いてきたじゃないか。

――そんなものは心の通よっていない砂上の楼閣にすぎなかったのだ。

蜃気楼のような、まやかしの幸せは、崩れるときがやってきたのだ。

聡だって心の奥底ではわかっていた。

それでも。

冷たくなった夫の心をどうにか解かさなくては、和らげなくては……そんな努力を聡は放棄するわけにはいかなかった。

 
 

そのまま、聡は耐えた。

以来、仕事でずっとサンノゼにいったまま月に一度帰ってくるかどうかの博史を待ち続けた。

聡は予定通り、一家でサンノゼに引っ越すことを提案したが、博史は

「しばらく独りで頭を冷やしたい」

といって受け入れなかったのだ。

そして。

子供が流れて1年以上経った秋。

聡は博史に宣告されたのだ。

「別れよう。俺たちはもうダメだ」

 
 

「別れた後、すぐに博史さんはアメリカの方と再婚しました」

聡はやや明るい口調で――取り繕うように、付け加える。

「アメリカの方と?」

将の問いかけに聡はうなずきながら、

「昔、お付き合いされていた方と仕事で偶然お会いして、またよりが戻ったそうです」

と語った。

そういえば、聡と博史はサンフランシスコで出会ったことを将も知っている。

それは、将と聡が出会って間もないころ、聡が頬を染めて嬉しそうに教えてくれたのだった。

あのとき将は、聡にそんな顔をさせる博史に、確かに嫉妬した。

すべては懐かしい思い出だ。

 
 

そう、博史には聡と出会う前に付き合っていたアメリカ人の恋人がいた。

しかし、彼女の父親の兄は、太平洋戦争で日本軍の捕虜となり惨殺されていた。

父親はJAPとの交際など絶対に許さないと彼女に詰め寄り、二人の仲は停滞していた。

……聡と博史が出会ったのは、そんなときだった。

博史が彼女を忘れるのに、聡はうってつけの存在だったのだ。

そして、10年以上の時が経って二人が再会したとき、最大の障害となっていた彼女の父は亡くなっていた……。

そんな顛末を話す博史は「だから別れてほしい」と乞いつつ、「許してほしい」と静かに結んだ。

聡は許してほしいのは自分のほうだ、と胸が熱くなる。

 
 

「私は、ロマーヌさんの誘いでフランスにわたりました。ちょっと旅行をするつもりだったのが、結局住みついてしまいました」

聡は穏やかに微笑んだ。

「……日本に戻るつもりはなかったんですか?」

あえて将は訊いてみる。

その時点で、聡が日本に戻っていれば――二人は。

考えたところで、時間が逆戻りなどするはずもないのだけれど。

「そのときは……まだ、早いと思いました」

きっぱりと聡は答えた。

あのとき、日本に帰れば、きっと。

それは聡が一番よくわかっていた。

二人は――いや将はふっ切れたのかもしれないが、近くにいれば少なくとも聡の方は……募る思いが耐えがたいほどになる。

あの頃の聡は、自分でわかっていた。

だから、日本へ帰ることは選ばなかった――。

 
 

聡と博史の……静かな別れ。

それに際して、最も涙をこぼしたのは、ちいさな陽だった。

陽は

「どうして?」

と黒目がちの瞳で聡を見上げた。

そのあどけない顔を納得させることなど、できるはずがない。

「陽がわるい子だから?」

思いがけない質問。一生懸命に、問いかけてくる。

陽は陽で……この1年間の二人に心を痛めていたに違いない。

聡は首を横に振る。

「ケンカしたの?……じゃあ仲直りして」

聡はそれにも首を横にふるしかない。

「どうして? 陽……おとうさんとはなれたくないよ」

陽の瞳に新しい涙が盛り上がる。

「お願い。おとうさんと仲直りして。仲直りしてよう……」

聡を見上げる陽のつぶらな瞳から、涙がぼろぼろと流れる。

その顔が真っ赤になっている。

この娘は泣くと、その白い肌が真っ赤になるのだ。

将も、そうだった。

いつだったか、泣きじゃくる将を思い出す。

浅黒く焼けていたからわかりにくかったけれど、鼻も唇も瞼も真っ赤にして子供のように泣く将。

「陽……」

聡は思わず跪くと、陽を抱きしめた。

陽も声をあげて泣きながら聡に抱きついてきた。

無理もない。

博史は、陽にはいい父親だったのだ。

最後の別れのときも、博史は心配そうに言ったのだ。

「陽のこと。聡ひとりで大丈夫?」

博史は博史で、必死で砂上の楼閣に心を通わせようと努力していたのだ――。

いつか、本当に心が通う夫婦に……家族になれると信じて。

それを打ち砕いたのは。他ならぬ聡では――将を心から追い出せなかった聡ではないのか。

「陽ちゃん」

聡の頬にも涙が伝っている。

ボストンの家には早くも初冬の夕暮れの気配が漂っていた。

もうクリスマスまで1ヶ月を切っている。

思えば、離婚のごたごたで、飾りつけもしていない。

斜めに差し込むオレンジ色の弱弱しい日差しは、逆に2人しかいない家の冷やかさを浮き立たせる。

そんな中、聡は陽の肩に手を置いて、幼い顔を見据えた。

いとしい面ざしをより強く受け継いだ顔が……涙にぬれて橙色の陽射しに輝いている。

一方、陽は。

逆光の中で、母の輪郭を伝う涙が、宝石のように煌いていたのを、今も覚えている。

母は――聡は言ったのだ。

「あなたのお父さんはね。……本当は違う人なのよ」

陽は驚いて瞬きを繰り返した。

だけど、すぐにまっすぐに問い返す。

「それは誰? ひなたの知ってる人?」

聡はまたたき……瞳から、再び涙が落ちる。

小さく首を横に振る。

「ひなたちゃんは会ったことないわ。それにもう二度と会えない人なの……」

陽は、二度と会えない人が本当の父親である事実が……幼い理解力ではわからなくて。

また初めて目にする、こんな風に涙を流しながら告白する母、そしてその美しさに押し黙る。

「……でもね。その人は、お母さんにとって、今も一番大事な人なの」

昔も、今だって。

誰よりも愛しているのは一人だけ。将。

将の幸せと自分の幸せが相反するなら、将の幸せをとる。

その決意は変わらない。

だけど、その決意ゆえに、実の父親に会うことすらかなわない娘が不憫で……聡は涙した。

でも、この娘が――将が残したこの娘がいるからこそ、聡は生きられる、生きる喜びがまだ残っているのも事実だ。

それだけは、娘に伝えておかなくてはならない。

博史と別れ、母子だけで暮らしていくにあたって。

いつかこの娘にも、自分の存在を問うときがやってくるだろう。

その日までに。

陽は……二人のかけがえのない愛の結晶だと。

将も聡も、陽が生まれ出でるのを待ち望んでいたのだと、教えておかなくてはならない。

「ひなたちゃん。ひなたちゃんの名前は、本当のお父さんが付けたのよ」

いつのまにか、陽の涙は止まっていた。

泣きだしそうな顔のまま……濡れた睫を必死で見開き、歯をくいしばるようにして、聡の顔を一心に見つめている。

「そのひとは、陽が生まれるのを、楽しみにしていたわ。……そうだ」

聡は思い出すと、いったん立ち上がる。

寝室にある古い鍵付きの引き出しの中から、びろうどのケースを持ってくる。

そして陽の横でひざまずくと、その目の前でケースをあけてみせた。

小さなダイヤがついたベビーリングが入っていた。

「これはね、陽の本当のお父さんが、陽にってくれたものなの」

聡はそういってベビーリングを陽の手のひらにそっと乗せてくれた。

桃色の陽の掌の中で、ダイヤのベビーリングは、弱い日差しを七色に反射させた。

「陽。あなたは、お父さんとお母さんが心待ちにして生まれた大事な娘なの……。それをいつまでも忘れないでいて」