第47話 失踪(1)

将は流れ落ちる涙をぬぐいもせず、立ち尽くしていた。

聡はその悲しげな瞳に思わず立ち止まりたくなった。

しかし、聡の足は非情にも勝手に出口へと向かっていく。

ついにドアの向こうに聡の姿が消えてしまった。

「畜生!」

将は吼えると、残された雑誌を床に投げつけた。雑誌の上に涙の粒がいくつも落ちた。

 
 

 
一方、拾ったタクシーの中でも、家にたどりついても、聡の心は千々に乱れていた。

最後に見た将の涙。

言葉は発しなかったけれど、行かないでくれという将の懇願は聡の心にダイレクトに伝わっていた。

前にもこんなことがあった。

寂しい将の生い立ちを知った聡は、将がどれだけ愛情を渇望しているか、あのときよりさらに知っているのに。

くだらない週刊誌の記事に心乱されたぐらいでなぜ自分はそばに居てやれないのか。聡は自分を責めた。

昔の女性のことを責めるなら、自分は何なのだ。博史と婚約を続けていて、将とこうやって心を通わす自分は汚い二股女ではないか。

将の「今」をなぜ尊重してやらないのか。

しかし、理性という冷たく計算高いものが聡の心の脇から顔を出す。

――いや、これをきっかけにいっそ離れたほうがいいのだ……。

――康三は将を外国にやる、と言っていた。外国にいけば、将は今の気持ちなどすぐに忘れるに違いない。

――そうだ。将は若いのだから、自分のことなどすぐにきれいに忘れる。

――だから、ダイヤを呉れた博史と、元通り一緒になるのが賢明な道なのだ……。

理性は聡の感情を逆なでする考えに平気でたどりつく。

将が自分を忘れる。外国へ行ってしまう。それを思うと、聡の心は張り裂けそうになる。

将の声、温もり、笑顔……そして涙。

すべてが別れがたい聡の一部となっている。

永遠に別れてしまうとしたら……体の一部を生きながら引きちぎられるような痛み。それを想像した聡は身震いした。

すでに耐えられる自信がない。

では、そこまで愛しているのになぜ、たかが過去、しかも週刊誌の誇張記事のことで、さっきあんな態度をとったのか。

理性は、今度は正反対の正論で聡を責め始める。

そう……結局、そこに戻るのだ。

聡はベッドに入っても何度も寝返りを打つばかりで、なかなか眠れなかった。

 
 

 
翌金曜日、将は休んだ。

――無理をしたから風邪が悪化したのだろうか?

聡は彼の病状が気になりながらも、その週末はとうとう部屋には顔を出せなかった。

幸い、週刊誌の記事が他のメディアに飛び火することはないようだった。

偽造免許証のことや他のこと(例えば聡がまだ知らない将の昔の殺人のこととか)も新しく出る気配もない。

きっと父の康三が手をつくしたというのもあるのだろう。

週があけて、12月になった。この週には期末テストがある。

将は、火曜から始まった期末テストには出席した。

喉の化膿はとれたのか、風邪はもういいのか、聡自身も気になっていた。

が、将を避けてしまっていた。

試験の監督をするときも、教卓にいると、目の前の将のことが気になる。

だから、できるだけ教室を歩き回った。

それでも試験が終わると、席の後ろから順繰りにテストは回収され、一番前の将から聡に手渡される。

渡されたテストとともに、将のすがるような目線が聡につきささるのが見ないでもわかる。

だが目をあわせられなかった。

 

 
意外なことに葉山瑞樹もテストには来ていた。彼女の姿を見つけて聡は動揺したが、彼女のほうは聡を今までどおり無視していた。

瑞樹は将を見ると、冷たく口角をあげ、次の瞬間そっぽを向いたが、将にはどうでもよかった。

将がナイフで短く切ったはずの髪は、元の髪型にそっくりなウィッグを付けているのか、見た目にはあまり変わらないようになっている。

心には波乱を抱えて、でも表面は極めて穏やかに、4日間あった期末テストの最終日は終わっていった。

12月に入って天気も安定しているように生徒の顔は、皆晴れ晴れとしている。

聡にとってはこれから、採点業務に続いて通知表付けがあるから大変なのだが、無事に試験を終えて晴れやかな顔の生徒を見るとこっちまで少し明るい気分になる。

英語は最後の時間だった。教材に使った英語の映画や、カラオケからの表現を抜き出したヒアリングで、ほとんどの試験問題を作成した。

例の模擬試験と違い、こっちは、授業に出てさえすれば、ほぼ皆合格点を採れるだろう。

帰りのHRが終わって、将は再び何か言いたげな顔をこちらに向けたが、聡はわざと目をそらした。

試験最終日の今日は午前中までである。聡は足早に教室を後にした。

がっくりとうなだれた将に、隣の席の丸刈りの兵藤が「鷹枝くん、今週、先生になんか嫌われてるよね」とクールに声をかけた。

「うるせー、寿司屋」と答える声も元気がない。

 

 
生徒らは午前中までだが、教師は採点やらなにやらで、定時の17時まで仕事がある。

土曜日に出たくなかった聡も1時間ばかり残業をして採点をやった。

期末試験の結果は、聡の担当する1年も2年もおおむねよかった。

ヒアリング部分だけでなく、中学の復習の部分も、前よりかなり平均点は高くなっていた。

文法というより、語彙や熟語で得点を伸ばしているところなどは、やはり印象的な言い回しなどを覚えているからだろう。

しかし……問題は先週あった模擬試験である。

まだ結果が出ていないが、それ次第ではせっかく皆集中してくれるようになった授業をまた元に戻さないといけなくなる。

こちらは聡たちが採点するのではなく、業者が一括で採点するのでしばらく結果を待たなくてはならない。

 

 
聡は週末の疲れと残業の疲れ、そして将のことでの心理的な疲労をしょって帰途についた。

17時すぎだがもう真っ暗だ。12月に入ったせいか、寒さが定着している。

聡は手を吐息で温めながら自宅コーポの階段を上った。……自室のドアの前にうずくまる男がいた。

「アキラ」

聡の足音を聞き分けて立ち上がった長身の男は――やっぱり将だった。

将はいままでに見たことのないような心細い顔をしていた。

「……『鷹枝くん』、どうしたの」
「アキラ、今日泊めて」

泊めてというわりには準備が何もない。学校帰りのままの格好だった。かろうじて手にしているのは車のキーだ。

『そんなこと、困る』と聡が言う前に将は

「今日、帰ったら部屋がなくなってたんだよ」

と頭に手をやりながら、うつむいて本当に困っているようだった。

聡は一瞬将の言葉の意味がよくわからなかった。

「どういうこと?」

「たぶんオヤジのやつが、俺の部屋を勝手に引き払ったんだ……」