第81話 後朝(きぬぎぬ)

カラスの鳴き声で聡の意識は覚醒した。

ヒーターが吐息のような音をときおり出して稼動しているのが聞こえる。

胸の上が重くて温かい。

ゆっくりとまぶたをあける。障子がコバルトがかった藤色になっているのが見えた。

もう夜明けらしい。

聡の顎のすぐ下に黒い山のように……将の頭があった。

将の髪を撫でたまま聡は眠っていたらしい。

将はうつ伏せで、聡の上に覆いかぶさるように、そのままぐっすりと眠っていた。

少し眉根を寄せたような寝顔だ。

――将ってば。

聡は将の髪の中に埋めた手をゆっくりと動かした。

 

 
昨夜。

激しい抱擁。そして裸の上半身にくまなくほどこされる愛撫と口づけ。

聡は自分の本能と快楽の濁流の中で流木につかまるように意識をかろうじて保っていた。

しかし……ふと正気に戻る。

いつのまにか愛撫は止んで、将は眠ってしまっていた。

すうすうと深い寝息が、聡の皮膚に生暖かくあたっている。

呼びかけても、ゆすっても起きない。

こんな淫らな体勢でいるにもかかわらず聡は、なんだか可笑しくなった。

そっと将を動かさないように、腕を伸ばしてスタンドを消すと、掛け布団を将の肩まで引っ張りあげて、自分もそのまま目を閉じたのだった。

だから聡はパジャマのズボンを着たままだし、将も最後の一枚を身につけたままだ。

結局、最後の一線は越えなかった……。

 

 
そのことに、聡は今ほっとしている。

昨日は少しお酒も入っていたし、何よりも1000キロ以上も運転してはるばる自分に逢いにきた将の思いに感動して、それに応えたいと思っていた。

が、やはり、まだ担任教師と生徒なのだ。

もちろん、こんな風に上半身だけといえど裸で同衾すること自体、問題だと思うが、セックスはやはり特別だ。

それは、やはり二人が教室で出会わない関係になってからのほうがいいと思う。

冷静になった聡に、『けじめ』が線をひく。

それにしても将はよく寝ている。

右の頬を聡の左の胸のふくらみに押し当てるかのようにして、寝息をすうすうと立てている。無防備な寝顔だ。

こうしていると、まるで大きな乳飲み児のようだ。いとしい将。これが母性本能なんだろうか、と聡はぼんやりと思う。

井口によると、元旦の朝に出発してからずっと車に乗りっぱなしだったという。つまり、将はずっと運転しっぱなしだったということだ。

よほど疲れていたのだろう。

そのまま寝顔を見ていたい気もしたが、もうまもなく明るくなる。

誰かが起きてくるかもしれない。

「……将、将、起きて」

聡は意を決すると、胸の上の将に囁きかける。少し強めに髪をくしゃくしゃとする。

「ん……。アキラ……?」

いったんは顔を起こして、半開きの目でこちらを見るが、寝ぼけていただけなのか、顔を胸の上にまた置いてしまう。

「将ってば」

次の瞬間、将は目を見開いた。顔にあたる感触の異様な柔らかさで正気に戻ったらしい。

将はパッと顔を起こすと聡の顔と裸の上半身を見比べた。

「……うわ、アキラ?」

パニックになったようにあわてて起き上がった。裸の自分にも動揺しているようだ。

「しっ、静かに」

聡は身を起こすと掛け布団を自分の胸のところにずりあげて、口元に人差し指をたてる。あわてふためく将が可笑しくて思わず笑みがこぼれる。

「おはよ」

将もつられて困り顔に笑顔をつくり、

「……はよ。あのさ、昨日、俺たち……とうとう?」

と訊いて来た。あせっているようすだと覚えていないらしい。

「してないよ。将、途中で寝ちゃったんだよ」
「なんだー、そうかー」

とホッとしたような残念なような表情で一瞬安堵し、

「ごめん」

と付け加えた。トランクス一丁で頭をかきながら、将は夕べを一生懸命思い出した。

とにかくすごく興奮していたことは覚えている。

やる気まんまんだった。なのになんで?

すべすべと吸い付くようでいて、搗き立ての餅のように温かく柔らかな聡の胸の感触は覚えている。豊かなそれは将の掌に余るほどだったはずだ。

胸の先端を吸ったときに聡が漏らしたかすかなあえぎ声とその感触も覚えている。

ふだんの低めの声とぜんぜん違う聡の声に将はよけいに興奮したはずだったのだが……。

行為を繰り返す途中でだんだん安心したのか、眠気が勝ってきた。

何せ、大晦日から昨日までの3日間で、寝たのは姫路で取った仮眠の3時間だけである。おまけに聡の部屋に来る前に焼酎を2杯も飲んだ。

もっと乱れる聡を見ていたいのに瞼が重くて開けられない。

……それ以降の記憶がぷっつりと途絶えている。将は圧倒的な眠気の前に倒れたのだった。

それにしても、女と、しかも一番大好きな聡と初めてエッチ、という最中に寝てしまうなんて最低だ。将は自分の失態に頭を抱えたくなった。

「ううん、逆によかったかも……しなくて」

聡がフォローしてくれるのも情けない。

将は、情けなさを隠すように聡を布団ごと抱き寄せた。裸の肩は昨日の記憶どおりのなめらかさだ。

動揺が収まってくると、聡の剥き出しの肩ごしに見下ろせる、真っ白な背中を見て、むくむくとヨクボウが再び頭をもたげてきた。

将は聡に朝のキスをした。軽く唇をあわせて

「……続き、しようよ」

聡の耳元で囁くように提案する。しかし聡は

「ダメ。もう誰が起きてくるかわかんないから」

教師の聡に戻ってしまっていた。

そこには、昨日のように、危うい声を漏らしていた聡はみじんもない。

昨日の、あの時間は夢だったかのようだ。

「じゃあさ、せめてキスマーク付けさせて」

将は聡を再びベッドに押し倒すと、隙をついて胸を隠す掛け布団を取ってしまった。

「ダメー。もうダメだってば」

聡は両手を交差させて自分の胸を守ったが、ボリュームがあるのでこぼれている部分も多い。

「いいじゃん」

将は、聡の胸の谷間の横の柔らかい皮膚を力いっぱい吸った。

「いったーいっ!」

あまりの痛さに聡が悲鳴をあげる。

スパッという音をたてて将の唇が離れるとそこには赤い内出血、つまり鮮やかなキスマークが出来ていた。

「俺の、っていう印」

将はいたずらっぽい笑顔でベッドから降りると、脱ぎ捨てた浴衣を着た。

「もう」

といいながらも、聡は背を向けてパジャマを着ながら、胸の赤くなった皮膚をいとおしそうになでた。

将が吸ったキスマーク。将の女である証。

「じゃあ、あとでな」

サッシの窓を開けると、厳しい朝の冷気が、二人のとろりとした夜の余韻から、完全に現実に戻した。

コバルトの空の東が白くなっている。

「寒っ!」

浴衣羽織だけの将は震え上がった。石の上に置きっぱなしにしていた草履は氷のように冷たくなっていた。

「ちょっと待って」

聡は押入れを改造したクロゼットからマフラーを持ってくると、将の浴衣の襟元に巻いた。

「これだけでもずいぶん違うでしょ。あとでうちに来た時に返して」
「ありがと。じゃ」

将は忘れな草色に冷たく染まった庭を、門へと歩き始めた。

「待って」

と行こうとする将を聡はなおも引き止める。

「将、わざわざ萩まで逢いに来てくれてありがとう」
「アキラ……」

将はもう一度縁側に戻ってくると、聡を抱き寄せ口づけをする。今度は深い口づけ。シンと尖った朝の冷気のなかでお互いの唇は温かく、離れがたい。

そのとき、家の奥で音がした。とうとう誰かが起きだしたらしい。

「行って」

聡は唇を離すと将を促した。

将は片手をあげて微笑むと、門を開ける。古い門が再びギイイ……ときしんだ。