第103話 雪山の一夜(2)

なぜ、瑞樹はそんな嘘を聡にわざわざついたのだろう、と将は考えていた。

9月3日以来、本当に瑞樹とは関係もないし、だいたい関係があった頃から避妊はきちんとしていた。将の子供などではないことは、当の瑞樹が一番よく知っているはずだ。

――俺とアキラへの嫌がらせか?まったく。

将は、不快感に黙り込んでいた。

「私……、将を信じていいんだよね?」

聡は将に問い掛けた。暗がりだけど、聡の声はせつなげなのがわかる。

「あったりまえだろっ!」

不快感のあまり、強い語調になってしまった。それをフォローするように、聡をもう一度抱き寄せる。

「アキラ、俺を信じて……」

吐息のように耳元で囁く。

「俺は、アキラを絶対に、絶対に、裏切らない。アキラを悲しませるようなことだってしない」

暗闇に響く声は、自分自身への新たなる誓いとなった。

「将……」

聡もまた、将の胸にすがりついてくる。安心したのか、泣いているようだ。

他人を愛することを初めて教えてくれたひと。そのひとも自分を愛している。この至福を守るためには何でもする、と将は思っていた。

真っ暗な避難所は、しんしんと寒さを増していた。あいかわらず、ドアを叩く風の音は激しい。携帯の時計を確認すると、もう21時をまわっていた。

「アキラ、寒い?」

気がつくと聡は体をこきざみに震わせていた。

「大丈夫」

将は暗がりの中、聡の額に手を置いた。

「ちょっと熱いよ、アキラ」
「大丈夫だったら」

聡はそういうが、大丈夫な熱さではないと将は思った。あいにく避難小屋には毛布とかそういうものはない。

カイロを持ってくればよかった、と将は舌打ちした。昨日のスキー研修1日目には持っていたのだが、晴れてて逆に暑くなったので、今日は置いてきたのだ。

よく、遭難した男女が、裸で抱き合って温めあう……というシーンがある。しかしこの、おそらく氷点下10度以下の、まさしく冷凍庫状態の中でのそれは自殺行為だ。

ウェアを着たままでも、せめてもっとくっつければと思うが、壁に据えつけられたベンチでは並んで座るしかなく、体をひねって抱き合うのも疲れてしまう。

将は、意を決して立ち上がると、ウェアの上着を脱いだ。それを闇の中の聡に手探りで着せかける。

「ちょっと、将、だめよ。将のほうが凍死しちゃう」
「アキラ、こっちに来て」

「え?」

聡は暗闇の中、将に手を引っ張られた。その手は低いところに聡を導いた。将は小屋の床にじかに寝転んでいるらしい。

「床がちょっとだけ冷たいけど、この体勢のほうが、体をくっつけられるだろ」
「将、だめよ、そんな格好で。底冷えしちゃう」

小屋のコンクリートの床は、雪がガチガチに凍りついている。

「だから、アキラ、ほらぁ!」

将は半身を起こすと、床の上にしゃがんだ聡を抱きしめた。

「アキラは熱があるんだから。逆に俺の湯たんぽになってよ。外側はそれ着てさ」

聡を抱きしめたまま、将は横に転がるように寝そべった。

「俺は若いんだから大丈夫。子供は風の子っていうだろ。ほら聡はフードかぶって」

聡のウェアのフードを頭にかぶせて枕がわりにさせる。

「んもう、人のこと年寄りみたいにぃ……」

そんな口答えをするぐらいだから、まだひどくはないんだな、と将は安心した。

聡は怒るふりをしながら、聡は将の自己犠牲的な優しさに感動していた。

「待って」

聡は自分のネックウォーマーをはずした。

「これを将の枕にして」

凍りついた床にじかに頬が触れたら凍傷になってしまう。

「ありがと」

二人、凍った床に横たわると、ぴったりと体をくっつけて抱き合う。

「将、寒くない?上着なくて大丈夫?」

スキーウェアの防寒性能は高い。もちろんその下にも防寒のアンダーウェアを着ているはずだが、スキーウェアがあるのとないのでは、耐寒性はかなり違ってくるはずだ。

もちろん、聡は将のスキーウェアに袖は通さず、外側に掛けるようにしている。将の体の半分をせめて覆いたいからだ。

「アキラがあったかいから大丈夫だよ。……それにしても、スキー靴ってこの体勢だと邪魔くさいな」

将は笑った。ほんとうは、アンダーウェアとその下のTシャツだけになった背筋がぞくぞくするほど寒い。

がっちりと膝下を守るプラスチックの重いスキー靴は、足をからめようとすると、ガチンゴチンとぶつかり合う。

将は、片方の膝を、聡の両腿のあいだに割り込ませて来た。こうしないと体が密着しないのだ。両腿のあいだに将の足を感じた聡は、大胆にも、上になった足を高い位置で曲げると、将の腿にからめた。裸だったら、何かの体位になりそうな体勢。

「興奮しちゃうな」

暗がりで見えないけれど将は微笑んでいるようだ。そのまま聡は将にからみつけた腕に力をこめて体をより密着させた。寒そうなアンダーウェアだけの首と背中をできるだけ手で包む。

最初、下からの底冷えが冷たく染みるようだったが、こうしていると、だんだん温まってくるようだ。

「……したい?」

聡はいたずらっぽく訊いた。

「うん」

将はうなづいて聡の背中をなでた。

「あたしもしたい」
「ウソっ!」

将は半身をガバっと起こした。

「……バカね。この状況で出来るわけないじゃない」

聡は離れた将の体を『寒いから、ほら』とまた抱き寄せた。

「もー。アキラの意地悪~」

といいながら将は再び聡を抱きしめる。

「出来ないかな。やってたらあったかいんじゃない?」

と将はまだ未練がましく囁いた。

「やってる際中はね。でも体力を消耗するから、終わったとたんに凍死しちゃうよ、たぶん」
「そっかー、残念」

教師と教え子で「したい」「やってたら」「やってる」という会話。

真面目に話しながら聡はなんだか可笑しかった。

それきり、二人は黙った。風がドアをノックする音を聞きながら、いつしか二人はうとうとしていた。

眠ったら死ぬかもしれない、というのは頭にあったが、寒さや空腹をごまかす一番の方策が襲ってくる眠気に従うことだったのだ。

しかし、さすがに寒いせいか、眠りは浅い。睡眠の深みにはまりそうでいて、すぐに風の音で引き戻される。そのたびに互いを抱く腕の力を強める。それが何度か繰り返されて。

再び寒さに意識が戻った将は、しばらくして風の音がやんでいるのに気付いた。あいかわらずあたりは真っ暗だ。

懐にあった聡の携帯をあける。明るい画面は聡の寝顔と、5時08分という表示を浮かび上がらせた。

起き上がると、ぞくっとした寒さに襲われたが、風の音はたしかに止まっている。

「……将?」

将の体が離れた冷えで聡も目を覚ましたらしい。

「ごめん、起こした?」
「どうしたの?」

聡も体を起こした。

「風が止んでる。ちょっと外を見てみる」

ドアへと立ち上がる将に、聡は自分の体にかけていた将のウェアを渡そうとした。

将は『ちょっとのぞくだけだから、聡が着とけ』と押し戻して、入り口のドアをあけた。

とたんに、尖った冷えが将の頬を刺した。……密閉された小屋の中は、寒いとはいえ、二人の体温で外よりははるかに温まっているらしい。

外界は静まり返り、傷一つないなめらかな雪の表面が青く浮き上がっている。それは神秘的なまでに美しい青だった。

将は鋭い寒さに、顔にまでも鳥肌がたつのを感じながらも誘われるように外に出た。

踏むのをとまどうほどの雪の表面。

将は大きな罪を犯すような気分で、思い切ってそれに一歩を踏み出す。将の足は吸い込まれるように新雪に沈んだ。かろうじてスキー靴の上部までは覆わなかったものの。

さっき目印に刺したスキー板とストックが、沈黙のまま、まろやかな雪の表面に影を落としている。それほどまでに明るい夜空だった。

空の雲はいつのまにか、どこかに行ってしまったようだ。西の空に浮かぶいびつな形の月が空を瑠璃色に照らし、どこから集まってきたのかと思うほど、密集する星々。

ドアからの青い光に誘われて聡も将の後ろに従った。聡も雪に傷をつけるのがしのびなくて、将の足跡を踏む。空を見上げて佇む将の背中にそっとウェアを着せ掛ける。

「すごいな。気持ち悪いぐらい」

将は星を見上げて言葉を漏らした。聡も見上げる。手が届きそう、とはこのことだ。夜の中でも白く浮かび上がる周囲の山々が見えなければ、宇宙空間に投げ出されたかと錯覚を起こしそうな星の数。

未踏の惑星に降り立ったかのような静寂と星々の海が二人を包む。

「ホント。すごいね」

青い山々の遥かに、深い紺色の日本海が在った。海岸線にそって、灯りがポチポチと見える。それは盛大な星の祭典を繰り広げる夜空から比べれば、遠慮がちに見えるほどだった。

夜に歓喜するような空に比べて、地上は息をひそめて、沈黙を守っている。地上側の二人は言葉もなく、立ち尽くした。

「あっ!」

二人揃って声をあげる。大きな流れ星が、空を斬っていったのだ。

「見た?」
「見た」

二人は顔を見合わせると、また視線を空に戻した。すると、今度はコロコロと転がるように星がいくつも連続して落っこちた。伏せたおわんのような天球をなぞるように、コロコロ、コロコロと転がる。

「すごい……本当に降ってきてる」

将は感動のままに口に出した。

「あれ、……隕石なんだよね。見えないよね」
「アキラ、現実的すぎ」

将は、聡の肩を抱き寄せた。明るいので吐く息も見える。

「アキラ、何か願った?」
「将は?」

「たりまえじゃん」
「何を願ったのよ……」

青い世界に聡に微笑みかける将の顔が幽かに浮かぶ。聡は問いかけながらも、それがわかっている。

将は聡を抱きしめると、唇を重ねた。

空気までもその冷気に青ざめたような、この蒼い夜に、お互いの唇だけが、体だけが温かい。

取り残されたような、この瑠璃色の世界で、二人は長い口づけを交わした。