第126話 しばしの離別(1)

教頭との電話を切って、聡は大きくため息をついた。

……宅急便の配達員に呼んでもらったタクシーで、携帯が通じるエリアのコンビニまで下りてきている。

突然の、異動転勤命令について説明を訊くべく、聡はまっさきに学校に電話連絡したのだった。

そして結果的には。聡の転勤はもう決まったことで覆せないということがわかった。

聡はしばらく、山の中の新予備校に滞在し、インフラ整備とカリキュラム作成に専念……という任務が改めて口頭で言い渡された。

それにしても、携帯も電話もない山の中に女一人で当直し続けるのはあまりにも危険ではないか。

聡の意見に、教頭は次のように答えた。

電話については手続きは済んでいる。ただあまりに遠いので、工事に時間が掛かっていて、もう少し待ってほしいということ。

さらに警備については、敷地に夜間警備システムを完備するということ。

来週から、掃除と警備のため、高齢者ではあるが夫婦が入寮すること。

「それで今日、セ○ムさんが、そちらに警備システムの工事に入る予定なんです。さっそくですが、また現地に戻っていただけませんか」

「でも、私、一度あそこにいったら、電話も通じないし、タクシーも呼べないし、出てこれなくなっちゃうんですよ……」

「それについては、車を買ってください」

と教頭は簡単に言ってのけた。

「諸経費込み100万ぐらいで中古の。もちろん学校に請求してもらってかまいません。車種は古城先生に任せます」

「はぁ……」

聡は呆然とするあまり、携帯を持ったままコンビニの店先でしゃがみこんだ。

「あの、私、着替えとか1泊分しか持ってきてないんですよね。留守宅もそんなに長く開けるようにしてないし……」

声が思わず低く尖るのがわかる。

「そうですね。ただ、さきほど言いましたように、今日はセ○ムさんの工事のアポが入ってるんですよ。

あと、明日はノートパソコンなどを発送しましたんで、それが着くはずなんです。

なので受け取るまでは現地に滞在してほしいんです。

もし着替えや生活用品で必要なものがあったら経費で落として現地調達してもらってかまいませんから」

「ハァ……」

このため息のような返事を、何度しただろう。

ようするに、聡は今週の週末まで、東京に帰ることを許されないのだ、ということだけがわかった。

「業務連絡とかは、どうすれば……」

「毎日業務日誌を付けてもらって、電話が開通するまでは、週末にコンビニからFAXで流していただければいいです。そちらからの緊急連絡などは車で携帯が通じるところまで降りてきてください」

「ハァ……」

教頭は、聡の、英語教育で見せた、ユニークな発想と教育方法に期待していると結んだが、なんだかそらぞらしく聞こえた。

なお転勤手当てで3万、月給の基本給が2万加算、週末の帰京代は経費でOKと破格の待遇を約束されたのだが、聡の心は沈むばかりだった。

電話を切っても、しばらくコンビニの店先でしゃがんだまま立ち上がれなかった。

田舎のコンビニは、客も少なく、そんな聡に目をとめる人もいない。

聡はそのまま空を見上げた。朝まで雨が降っていた空は、青空が見え始めている。

冷たい冬の青空のかけらに将を思い出した。

握った携帯でメールをチェックする。メールボックスは将からのメールでいっぱいだった。

連絡もなく帰らなかったことへの将の心配がそのメールの数で伝わった。

聡は、将の愛情を感じながら、そのメールの1つ1つを読んだ。

将に会いたい。顔を見たい。声が聞きたい。

……メールをあけるたびに、そんな思いが聡の心を占領していく。

何もかも放り出して会いに行きたい。

聡は無意識に将に電話をかけようとしてハッとした。

まだ11時、授業中である。辛くもそれに気付いた聡は、将に携帯としては少し長めのメールを打った。

 

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心配かけてごめんね。

なんとか無事です。生きてますw

将の足のほうはどう?

なんと私は、電話も携帯も届かない山奥の新しい学校に閉じ込められています。

このメールも、麓のコンビニまで降りてきてようやく打てました。

そして今、その新しい学校への異動を命じられ、びっくりしています。

どうやら今週いっぱい東京もどれそうにない……TT

大ショックです。

大悟くんと葉山さんのこと、少し驚いたけど、

もしできるようなら、将、マンションに帰ったほうがいいかも。

(二人にはお邪魔虫かもしれないけど)

何せ電波が通じない場所なので、電話もメールもできないけど、

1日1回はなんとか麓に下りるつもりです。

そのときに必ずメールチェックします。

将のことや、よかったら、クラスのみんなの様子、新しい先生のこととか教えてね。

週末には東京に絶対戻ります。

たしか週末、将の松葉杖もとれるんだったよね。二人でそのお祝いもしようね。

 将に会えなくて寂しい聡

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さんざん時間をかけてメールを打つと、聡は祈るように送信ボタンを押した。

その電話で、聡はタクシーを呼ぶ。当座で必要なものを買わなくてはならない。

タクシー会社への電話を切ってすぐに携帯が鳴った。

将だ。

「アキラ!」「将!」

二人同時に名前を呼んだあと、1拍の沈黙があった。

「将、……連絡できなくてごめんね」

先に聡が切り出す。

「……めちゃくちゃ、死にそうなほど、心配した、アキラ」

聞きたかった将の声。耳から聡の体に沁み込んでいくようだ。

聡は将の声からその表情を目の前に描いた。

「うん……本当にゴメン」

「いや、……無事ならいいんだけどさ。週末まで帰れないの?」

優しく気遣う声から、その唇を思い出す。ほどよい厚みの、形のよい、熱い唇。

「そうなの……」

本当は、あそこで夜を過ごす心細さとか、わけわからない任務の重責とか、連絡もロクにできない不自由さとか、話したいことはいっぱいある。

だけど、せっかく将とつながった電話でそんなグチをぶちまけたくなかった。

「……ところで、将、授業中じゃないの?」

「サボった。聡がいない学校なんて……」

「将……」

本当は咎めるべきところなのだが、聡は胸がいっぱいになって、しばらく黙ってそれを噛み締めた。

「ダメよ。ちゃんと学校に行かなくちゃ」

どうでもいいセリフだと自分でも思う。

「だってヨォ……」

一方、将のほうも、新しいヤクザ教師の非道さを話したかった。

だけど聡が苦労してつくったプリントをビリビリに破かれたことなんて、言えない。

「俺、……今すぐアキラのところに行きたい」

いっぱいになった胸が、うずくように乱れていくのを、聡は感じた。

聡だって、今すぐ将のところへ飛んでいきたい。

「……そんなこと、できるわけないでしょ。いい?午後の授業にはちゃんと出るのよ」

「……」

かろうじて常識を踏まえた大人らしいことを言うことができた。……将は沈黙している。

「あと、マンションに戻れそう?」

「ん……。大悟は一緒に暮らそうって言ってくれたけど……」

「そう。だったらよかった。家政婦さんもいるんだから、マンションに戻ってて」

そのとき、聡の前に、呼んだタクシーがやってきた。

乗り込みながら一瞬携帯をずらして「このへんで一番近いデパートへ」と運転手に指示する。

「アキラ、週末には帰って来るんだよな」

将の声はせつなげに懇願するようだった。

「うん」

その声を聞いて、聡の目が熱くなってきた。鼻の奥がツーンとする。

まだ月曜、週末まではとてつもなく長い。今までの26年の人生よりも長い道のりに思えた。

「絶対、だよな」

確認してくる将の声。低いけど、ダダッ子のような確認。聡はもうだめだった。

将は今、どんな顔をしているのか……。

タクシーの後部座席に腰掛けた聡の目から、ついに涙がこぼれた。

たかが1週間の別れに。そんな自分が少し大げさだ、と思う理性もある。だけど、もう涙は止まらない。

聡の感情は、将と離れる暮らしなど耐えられない、と次々に涙を湧き上がらせる。

それは頬を伝い、顎から膝の上に落ちていく。

「うん、絶対。毎日、毎日メールする」

それだけいうと、聡は鼻水を啜り上げた。完全に涙声になってしまった。

「俺もメールするから」

「学校には絶対に行ってね……」

そこで通話は途切れた。電波が弱くなったのか。

声は聞こえないが、画面を見ると通話時間がまだカウントされている。

しかし、どんなに電話を押し付けても、懐かしい将の声は、もはや聞こえなかった。

だけど。自分から通話を切ることは聡にはできない。

自動的に通話が切れたとき、聡は携帯を握り締めて、シートに座ったままうなだれた……。