第150話 最終列車

二人、さっきと同じようにくっついて寝そべりながらテレビを見ていた。

違っているのは、ワイドショーが終わって、夕方の地元番組になっていること、窓から差していた陽射しはいつのまにか陰り、空が夕方の色になっていることだった。将の手は、あいかわらず聡の体の柔らかさを、好きなように堪能している。

「今日……、何時までいられるの?」

聡がぽつりと訊いた。いつになく寂しげな声だ。将はそんな寂しそうな声を出す聡がいとおしくなる。

「泊まっ……ちゃおうかな」

などと言いながら聡を抱く腕の力を少し強くした。

「……だめよ。学校でしょ」

寂しそうなくせに、教師らしいことではゆずらない聡だ。

「冗談だよ」

将は聡をこちらに向き直らせると、今日、十数回目かになる口づけをして、髪の毛に顔をうずめた。

「ずっと……こうしていたいな、アキラ」

「うん……」

お互いのぬくもりも、匂いも、声もあと数時間でお別れ。

その事実が、それぞれをいっそう離れがたいものに感じさせて二人はさらに強く体をくっつけるように抱き合った。

 
 

「へえ。肉に直接砂糖を振り掛けるんですか」

将は湯気があがる鍋の中をのぞきこんだ。

寮母の沢村正枝が、鍋の中で焼けた牛肉に直接砂糖を振り掛けている。寮の食堂は、牛脂が焼ける香ばしい匂いでいっぱいだ。

「そうよ。関西風のやり方を習ってね。美味しかったからそれ以来真似してるのよ」

「アキラんちもこのやり方?」

将が隣の聡を振り返った。聡は山口、つまり西日本出身だ。

「ううん、うちは割り下を使っていたように思うけど。関西とか関東とかそういう意味じゃなくて単に手軽だからだと思うんだけど」

「へえ。でも、これってまさにすき『焼き』ですね」

将は正枝に笑いかけて、好青年ぶりを発揮している。

鍋の中では肉の次に、ネギとシイタケ、しらたきが加わり、肉の脂でいい具合に焼かれている。

正枝はその中に素早く酒を振り掛ける。鍋から蒸気が勢いよくあがったところで、正枝はラベルのないガラス瓶を手に取った。

どうやら醤油らしかった。

「そして、これがウチのオリジナル。お手製のダシ醤油よ」

それをぶちまけると、鍋は一気に茶色くなり、かわりに旨そうなすき焼きの匂いがあたりに充満しはじめた。

「ああ~っ、腹減った」

「さあ、あとは白菜とお豆腐を入れて、食べる少し前に春菊をいれるだけよ。純さんを呼んでこなくっちゃ」

純一は、暗くなったのに、外灯を点けて畑づくりにまだ精を出しているのである。

ちなみに、外灯は昨日、純一自身が取り付けたものだ。

 
 

「かんぱ~い」

すき焼きが出来上がり、将、聡と沢村夫妻の4人はビールで乾杯した。

後で将を送らないといけない聡は一口だけだが、それでも4人で鍋を囲むと、静かな山の夜もかなり賑やかになる。

先週ここでたった一人でテレビを見ながら食事をしていたことがまるでウソのようだと聡は思った。

1杯目を空けてしまった将は、純一からビールを注いでもらっている。

聡は、将の飲酒に関しては慣れてしまったので、何も言わない。

「んっ……、本当にウマイ!」

最初にすき焼きに手をつけた将は、感嘆の声をあげた。

「アキラも食ってみろよ、旨いぜ」

「ホント?」

聡もレース状に煮えた肉を取り、生卵につける。

肉を口に入れた聡は、大きな目を見開いて将を見つめた。

「ほんとだ、美味しいね!お肉が柔らかい」

「そんな。二人が買ってきてくれたお肉がいい肉なのよ」

正枝は謙遜した。純一は無言だが、その出来栄えに文句はないようだ。

「うちもぜひ真似しようぜ」

将はわざと『うち』という言葉を使った。聡と将来つくる家庭を想定した言葉に、将は願いをこめた。

聡は、それに気付いたのか気付かないのか

「そうね。ところであのダシ醤油ってどうやってつくるんですか?」

などと正枝にレシピを訊いている。

すると、純一のほうが、気付いたらしい。

「二人は、将来?」

とビールのロング缶の口を将のほうに向けながら訊く。

将来、の先に省略されているのはもちろん『結婚するのか』という質問である。

「ハイ。なるべく早く……と思ってるんですけど」

「何、学生結婚するの?」

グラスから泡立ったビールがこぼれそうになり将はあわてて口をつけながら

「ハイ」

と答えた。学生結婚という言葉に、レシピを訊き終わった聡が振り返る。

「副校長さん、近いうちにご結婚するんですか?」

「ハ?」

聡は目を丸くして、将と純一をかわるがわるに見た。

将は、横目でこっちを見ながら、いたずらっ子のような顔でビールを飲んでいる。

「ヤダ。そんな、まず卒業しないと、とてもとても……」

聡は手を振った。

「そうよねえ。結婚したら赤ちゃんができるかもしれないし、そうしたら副校長さんもお仕事続けられないしねえ」

と正枝が口を挟んだ。

『赤ちゃん』というリアルな言葉に、聡は少し頬が熱くなるのを感じて俯く。

自分と将と二人のDNAを受けついだ赤ちゃん。……愛の結晶。

かつて、博史にそれを提案されたときは、なんだかとてつもない重荷に思えたが、将とのそれを考えるのはなんだか甘い綿菓子を口にするようなフワフワした感覚があった。

「俺……僕は、経済的にはなんとかする自信はあるんですけどね」

将は、ビールで少し気が大きくなったのか、そう言い放った。

 
 

東京方面の特急は21時すぎで終わるが、将によると、甲府発の普通列車であれば、東京まで接続する最終は、22時すぎまであるということだった。

食後も、沢村夫妻は気を利かせてくれて、部屋に切り上げてくれた。

将と聡も、部屋に戻って食後のコーヒーを飲んだが、あっという間にここを出なければならない時間になってしまった。

「将、そろそろ出ないと」

「……まだいいよ」

二人は壁に寄りかかっている。テレビは点いているけど、二人ともほとんど内容は頭に入っていない。

「でも、あたしの運転だし……」

甲府駅までは聡が車で送ることにしている。

「ん……」

将は傍らの聡を振り返った。聡もちょうど将のほうを見ていた。吸い寄せられるように、二人は唇を重ねた。

「なんで泣くの」

唇を離した聡は、涙をこぼしていた。将はその涙を優しく指の背でぬぐう。

長い睫が涙で濡れているのを見て、将は胸が苦しくなるようなせつなさに襲われる。

「将……」

聡は将の胸にすがりついた。聡もせつないのは同じらしい。将は聡を抱きしめると、その耳元で、

「やっぱり……泊まっていこうか」

と囁く。それは本心がかなりの割合でまじっていた。

――このまま、ここに住み着いてしまってもいい。

将は別れのつらさが起こす刹那のあまり、一瞬そんなことさえ考えた。

でも……聡は、やっぱり将の胸の中で首を振ると頤をあげた。

「ごめんね。心配させて。ちょっとだけ寂しかったんだ」

と将の瞳を見つめてゆっくりと言った。そして

「土曜、いや、金曜夜には会えるんだもんね」

と微笑み、「行こうか」と立ち上がった。

立ち上がってコートを着る聡の背中を……将はもう一度後ろからきつく抱きしめた。

 
 

夜空に思い切りぶちまけたような星々が山影を浮き上がらせていた。

そんなに美しい夜空がフロントガラスの上に展開しているというのに、二人は言葉も少なかった。

急がないと、終電に間にあわなくなる。だけど……時を先に進めなくない。

そんな葛藤がハンドルを握る聡の中でうずまく。

しかし、夜の道路はごくスムーズに二人を甲府駅まで運んでしまった。

聡は駅の前で別れようとしたが、名残を惜しんだ将のほうが、聡の入場券を買った。

甲府駅が始発の列車は、もうホームに入っていた。

ときおり乗客が、自分でドアを開けて乗り込んでいる。

冬の間、寒冷地の列車のドアは、ボタンで開閉するようになっているのだ。

「金曜日、ていうかもう、あさってだよね。東京に戻るから」

聡は努めて明るい顔を見せるようにした。

だけど、吐く息もろとも、ホームの寒々しい白い照明に照らされて、ひどく寂しげな顔に、将には見えた。

「アキラ……」

何と声を掛けていいかわからない将は、ただ聡の名前を呼んで列車のドアの前で佇んだ。

白い息だけが二人の間にかわされる言葉のように流れていく。

将は聡をこんな寂しげなホームにひとり残して、列車に乗り込むことが、どうしても出来なかった。

将が見つめる聡がビクッと体をふるわせる。スピーカーから発車のベルが鳴り出したのだ。

「学校に、行ってね……将」

聡の目で、蛍光灯がゆらゆら光る。涙が落ちるのを一生懸命堪えているのだ。

それを見つけてしまった将は「じゃあな」という言葉を飲み込むと、ふいに聡を強く抱きしめて名前を呼ぶ。

別れがたいぬくもり。

「行かなくちゃ、将」

将の胸の中で、聡が苦しげに囁いた。

将は、いったん体を離すと、噛み付くように聡に口づけをした。

そのまま顔はずっと聡のほうを向いたまま、列車に乗り込む。

「じゃあな」

将が乗り込んですぐに、列車は動いた。

将は窓に張り付くようにして、ずっと聡を見ていた。

聡は……その場から動けなかった。聡の中でいま動いているのは頬を伝う涙だけだ。

駅員の視線も、乗客の視線もわかっていたし、羞恥心もあった。

けれど将と離れる圧倒的なせつなさの前では、そんなことは小さなことのようにも思えた。

聡は将を乗せた列車の灯りが、暗闇に溶けるように見えなくなるまで立ち尽くしていた。

どうして、こんなに哀しいのだろう。寂しいんだろう。せつないんだろう。たった2日なのに。

月曜日の朝も同じように二人は別れたはずなのに。

聡は行きは二人でのぼった駅の階段を、たった一人降りながら、考える。

あのときは早朝で……あわただしいのと、頭が眠気に支配されていたので、哀しさもせつなさも、きっと薄まっていたのだろう。

いま、はっきりと覚醒した頭に、星降る夜、最終のホーム、白い吐息と舞台装置が揃いすぎて……

二人にたとえたった2日でも、別れ別れになるつらさをいっそう尖らせた。

聡はさらに記憶をたどる。博史とは、こんなふうに何度も別れのシーンがあったはずだ。

しかも2日とはいわず、4ヶ月逢えないなんてざらだった。

あのときも、こんな風に泣いていただろうか……。

聡は洟をすすった。もう、思い出せなくなっている。

それほどまでに……将への想いは……博史を愛した記憶を追い出すほどまでに強いのだ。

そのとき、携帯が鳴った。

将が、泣いているであろう聡をなぐさめるべく、早くも電話を掛けてきたのだろうか。

聡はバッグのポケットから携帯を取り出した。

暗い中、輝く画面には、『原田博史』の文字が表示されていた。

まるで記憶が、彼を呼んだかのようだった。

しかし、現実の彼から連絡があったということは、おそらく、その危篤の母の動向だろう。

ついに審判が下される。聡は悪い方向ではないことを祈りながら、着信ボタンを押した。

電話の向こうは無言だった。

「……博史さん?」

聡のほうからその名前を呼ぶしかない。

「聡……」

やや低い、感情が読み取れない声で、博史は聡を呼んだ。