第191話 禍々しい形見(1)

――ついに言ってしまった。

聡の部屋を辞してコーポの階段を降りきったところで、大悟は大きく息をついた。

一生、自分だけの胸に秘めていよう。いや、本当に刺したのは自分だと思い込もうとしていた。なのに。

――俺も救いようがないな。

階段を降りた大悟の前を、再び春には似合わない滝のような雨が阻む。

――将……ごめんな……。

重い荷物を吐き出して軽くなったはずの心だが、そこにはべっとりと冷たい空虚が残っていた。

別名、絶望というのかもしれない。

絶望は、親友を裏切ったことで、腹にたまった空気のようにさらに自らを不快にさせていた。

『生まれたことが間違いだから』

天からの啓示のように、脳裏に声が蘇る。瑞樹の声だ。

瑞樹がたびたび呟いていた言葉。

彼女からため息のようにその言葉が発せられるたびに、大悟は

『違う。生んだ親は間違いだけど、俺たちは頑張れば幸せになれる』

と励ましていた。だけど、今、瑞樹の気持ちは彼女が乗り移ったようによくわかる。

「瑞樹……。お前のところに行こうか」

死ねば無になるのかもしれない。

このどうしようもない、不快感とも、友人を裏切った後悔とも、そして生きるために必要な金銭の悩みとも別れられるかもしれない。

大悟はポケットから瑞樹の骨の瓶を出した。

骨は雨が別世界のように、瓶の中でさらさらと乾いていた。

いっそ、こんな風になるのも、いいかもしれない。

大悟は瓶の中の白い骨に憧れた。

それほどに……大悟は疲れていたのだ。

親にさえも頼らずに生きてきた大悟の精神は、ただでさえ限界だった。

そこに、殺人犯という重い十字架が加わり。

それに耐えるべく、庇護しつつ頼っていた瑞樹もいなくなり……もう大悟にとって、生きるということはつらいことでしかなかった。

『死のう』

ついに大悟は決意してしまった。あっさりと。

今の大悟には生へと引き止める未練など何も無い。決意してしまえば話は早い。

大悟は死に方を考え始めた。

その前に。

将に、あのことを聡に話してしまったことを謝っておかなくては。

大悟は、将に電話を掛けようとして、着信履歴から将の番号を探した。

そのとき、目に止まった番号があった。

昨日、聡との夕食の後に掛かってきた番号……瑞樹の祖母の番号である。

 
 

「もしもし……」

将からの電話に聡はすぐに電話に出た。

雷が一段落した分、間断なく激しい雨音が続いている。

「あ、アキラ。俺。今、試験場から帰ってきた」

「将……」

なんとなく、返答がだるそうに聞こえるのは気のせいだろうか。

「今日、大悟が来なかった?」

将は、思い切って訊いてみた。

「来たよ」

聡の返事に将は息を飲み込んだ。思わず

「それで!」

と反射的に訊いてしまう。その訊き方は答えづらい、と言ってしまった後で気付く。

だいたい、大悟が何で聡の住所を知っているのだ、と将の思考は慌てた。

しかし……将は思いなおす。将と同居しているのだから、いくらでも知るチャンスはあったのかもしれない。

現に、携帯やパソコン、車のナビから聡の住所の情報が知れる可能性はある。

「それで……って?」

聡は訊き返してきた。

単に質問の意味がわからないのか、それともつらい出来事を隠しているのかを将は、聡の声音から必死で判別しようとした。

「何も……なかった?」

直接的なマズい訊き方だと自分でも思う。

「それ、どういう意味?」

聡の答え方にずっしりしたものを感じてしまう。

「いや……、大悟、聡の部屋にわざわざ何しに行ったのかな……と思って」

「……悩みを、相談しに来ただけ、だよ。……大悟くん、部屋に戻ってないの?」

「ああ。いない」

答えながら、将は聡の答え方について、いやにゆっくりしすぎていると思った。

考えながら、言葉を選んでいるような印象。

それが、将には、悲劇的な出来事を隠しているように思えた。

「アキラ、大悟に何もされなかった?」

将は、あえて直球を投げてみる。

「何もって、何よ。あるわけないじゃない」

怒ったような聡の口調。それでようやく将は安心することができる。

「……自分の、友達でしょ」

怒りだけでなく、軽蔑を含んだ声が電話の向こうから付け加えられ、将は慌てた。

「いや、大悟の様子が変だったからさ。アキラ、大悟、ヘンじゃなかった?」

とフォローを加える。

「……いろいろ悩んでたみたい」

あいかわらず、いつもより低い聡の声。

だけど、大悟に何もされていないのなら、大丈夫。

最初の予定通り、ホテルでの逢瀬へと進めばいい。将は

「そうか。どうしたんだろうなー、あいつ」

声のトーンを無理やり変え、

「アキラ、今から迎えに行くから。準備は出来てるんだろ」

と明るい声を出そうと試みた。

しかし、電話の向こうからは、はずんだ返事は返ってこない。

沈黙が海底を泳ぐエイのようにのったりと横切っていった後、低い聡の声が聞こえてきた。

「将……」

「ん?」

ようやく、聞こえた聡の声は、

「大悟くんに会って」

というものだった。

「え?」

将は思わず電話を持ち直すようにして訊き返す。

「大悟くん、とても辛そうだった」

聡の方は。

将が何を心配しているのか、最初からわかっていた。

将も、大悟が置かれた危機的な状況がわかっているのだ。

だから自暴自棄になって自分に乱暴な形で手を出すのではと恐れていたのだろう。

しかし、大悟の自暴自棄は、別の方向になって自分に向けられた。

将が関わる大悟の不幸の原因の一角を、自分に告白するという形で……。

しかし、それを告白したことによって、大悟はより苦しんでいるのではないか。

聡は、大悟をそれほど知っているわけではない。だけど……

もう5年も将と友達だということ。

将から聞いた瑞樹の死への悲しみ方。

そして萩で一緒だった2~3日。

タンメンを一緒に食べた短い時間とその後……

断片的にしか過ぎない大悟の印象を組み合わせて大悟の人間像を類推する。

すると、どうしても、あのような秘密を暴露してすっきりするような人間ではない、という結論に至ってしまうのだ。

そして……電波の悪いテレビのようにざらついた聡の記憶の中で、聡の部屋を辞すときの大悟の暗い瞳がサブリミナルのように聡の中でフラッシュする。

「……だって、考えてみて。私のところに、わざわざ話しに来たんだよ」

聡は将に訴える。

「何の話、したんだよ」

将の質問に聡は答えられない。まさか将の人殺しを大悟が被っていることを告白されたとは……。

「それは……。悩みとか」

聡は言葉をにごらせた。

「とにかく、将。大悟くんが心配なの。私は待ってるから、大悟くんを探して」

無茶なことを言ってると、自分でも思う。

聡は……早く抱いて欲しい、戻れないところまで連れて行ってほしい、と願いつつ、実は殺人犯だった将に会うのが恐いのだ。

いや、将がこわい、というより、将にあって自分が何を口走るか、どんな態度を取るか、が恐い。

それで将に逢うのを必死で遅らせているのだ、ということを聡はとうに自覚している。

「……って、どこに行ったかわかんないし。電話さっきから掛けてるけどつながんないし」

聡は一瞬考える。

奇跡のように閃く昨日の記憶。あっ、と声に出す。

「昨日、タンメン食べた帰りに、大悟くんの携帯に、葉山さんのおばあちゃんから電話があった」

「え!それホント?」

「うん。瑞樹のおばあちゃん、って訊き返してたから。もしかしてそこに行くかも」

瑞樹の祖母は小山在住である。

その地名を思い出したとき、将の脳裏に暗雲のように1ヶ月あまり前の記憶がたちこめていく。

JR○山駅。鉄道警察隊。DNA鑑定。時速200キロの新幹線。

そこは……瑞樹が、そんなふうに最期を遂げた場所である。

そして、それは嫌な連想となって、将の中で自暴自棄の大悟とつながってしまった。