第199話 青い朝(2)

「じゃ、次はバスケット。希望者が多いのでくじ引きで決めていいでしょうか」

さくさく進めようとする兵藤に

「待てよ、どうせだったら勝てるメンバーを選ばんと」

と珍しく井口が立ち上がって意見を言っている。

そんな会議なぞ完全に上の空の将もまた、聡のいる方向である右後ろに強烈な磁力を感じていた。

なのに、振り返れない。

強烈な紫外線を照射されたように右側の肩や背中は妬けつくようだ。

さっき、入り口をあけたときに目に飛び込んできた聡の姿。

黒に近いグレーのパンツスーツを着て、髪を1つにまとめて……一見いつもと変わらない姿だったが、

瞼にうっすらと水色のアイシャドウを付けているのに将は気付いた。

愛らしい瞳からの視線を、その水色はクールに引き締めていた。

甘さのないその視線は、頭痛薬を飲んでもいっこうに思い出せない昨夜とあいまって、昨日のことは夢だったんじゃないかと、将は疑いそうになる。

「やっぱ、将とかはバスケだろー。あのデカさで卓球はありえないじゃん、なー将」

井口の発言の中で、突然呼ばれて、将はハッとした。

「あ?ああ」

状況がよくわからないので、適当に返事をする。

「しかし、ですね。やっぱりこういうことは公平にしないと」

星野みな子がたしなめる。続いて

「先生はどう思いますか?」

と意見を求めたので、クラス中の目が後ろにいた聡に集まる。

将も、それに乗じて振り返ると聡を盗み見る。

すると、ちょうど将のほうを見ていたのか、聡と一瞬目が合った。

しかし、水色の瞼の下の瞳は、すぐに教師に戻ると

「やっぱりくじ引きが一番なんじゃない?」

と皆に向かって意見を言った。

これが決め手でくじ引きでバスケのメンバーを決めることになった。

 
 

「ありえねーし。卓球かよ」

HRが終わっての下校時間。井口が面白そうにそばに寄ってくるとケケケと笑った。

「るせーし。俺わりと得意よ、ピンポン」

といいながら、将は聡を目で追った。聡は教壇を降りると、振り返りもせず職員室へ向かった。

「じゃな」

「おい、将、マックいかないのかよ!」

という井口の声を背に受けて将は廊下へと聡を追った。

「アキラ!」

と呼びかけて

「……先生」

とすぐさま付け加えたのは、すぐそばに多美先生がいたからである。

「何?鷹枝くん」

聡は教師のままの顔で、将を振り返った。

「いえ……。えーと。明日は補習はありますか?」

「ありますよ」

聡は水色の瞼を少し見開くようにして、『生徒』に対して軽く微笑んだ。

微笑んでいるのに、睨まれているように将は緊張した。

「わ……かりました。じゃあ、さよなら」

将は引き下がるしかなかった。

 
 

「あのさ。昨日、大悟がさー……将、聞いてる?」

ビックマックを食べ終わってポテトをつまみながら、井口。

将は井口と一緒に駅前のマックに来ていた。

だが、将のビックマックはなかなか減らない。

将の意識は、油断するとすぐに聡のところへ飛んでいってしまう。

「え、あ、うん」

「お前、今日おかしーよ。さっきから上の空だし。だいたいなんで私服なんだよ」

「あ、うん……。大悟がどうしたの」

説明できない将は、あわてて話題に上った大悟に話を戻す。

井口はフンと鼻をならして、コークをストローで吸い上げると

「大悟が昨日、クラブに来てた」

「へえ」

少し驚いた将は、テーブルについていた肘を離して、椅子に寄り掛かるようにした。

――遊ぶ金、あるんだ。

と意外に思い、次にどこから調達したんだか、と少し疑念を抱く。

「……て、踊りにじゃないと思う。なんかヤバそうな感じ」

「え?何が」

井口は、将を肩を抱くように顔を寄せてきた。そして囁く。

「たぶん、やばいクスリ売ってんじゃないか、と思う」

はれぼったい瞼の下の井口の目が光った。

「ああ……、偽シャブ売り。あいつ、そんなことまた始めたんだ」

将は、ふっとせせら笑った。

中学の頃、よく二人でやったなあ、と懐かしくさえある。

「いや、それがさあ。ホンモノっぽいよ。ダチがお持ち帰りした女子大生がそれ買っててさあ

……マジでラリッちゃってゲエゲエ吐いたらしいもん」

「まさか。自己暗示だろ」

昔、将たちが、マリファナと偽って売った粉砂糖+すり潰した頭痛薬をブレンドしたものでも、結構みんな『効く』『ラリッた』などと騙されていたから。

しかし、そんなふうに否定しながらも、将は心の中にできた小さなニキビのように嫌な予感を消し去ることができなかった。

 
 

井口とわかれた将は、聡の部屋に帰ってきてしまった。

このまま、聡の帰りを待つつもりだ。

将は、今朝自分が起きたままになっているベッドの掛け布団を上げた。

シーツには、将と聡が確かに結ばれた、いくつかの証拠が染みになってすでに乾いていた。

それを見て、将はため息をついて、汚れたシーツに倒れこんだ。

そして目を閉じる……。

「だめだ」

将は一人、声をあげた。

やっぱり何も思い出せない。将は頭を抱えた。

――何てこった!

最愛の聡との、初めてのセックスなのに……一生の思い出になるはずなのに。なんにも覚えてない。

将が覚えている、聡の肌は……あの山梨の寮で午後の陽射しの中で見たものが最後だ。

温かさとか、柔らかさとか……かろうじて覚えている感覚も、時間の経過とともに薄れ……今は他の女を抱いた記憶と混じってしまいそうだ。

もしも、こうして汚れたシーツがなかったとして。

仮に『そんなことはしていない』と言われたら、信じてしまいそうな、あやふやさ。

……最悪だ。

将は天井に向かってため息をついて、舌打ちをした。

しかし、そうやって舌打ちをしながらも、将はふわふわとした幸福感の中にあった。

一度愛し合ったなら、また何度でも……。

と甘い希望を抱いて、聡はそこまで甘くないだろう、と、さっきの聡の水色の瞼を思い出す。

せっかく18歳になったのだから、一度だけ。

というスタンスでこの土曜日の逢瀬は約束されていたはずだ。昨日はその代わりだったのかもしれない。

昨日、という単語に、巌を思い出す。

康三は『大丈夫』と言っていたが、将は心配になって、ハルさんに電話をしてみた。

たぶん、彼女が巌に付き添っていてくれるだろうから。

だが、ハルさんは電話に出ない。病院の中だから電源を切っているのかもしれない。

思い出してしまった昨日の苦悩だが、聡を抱いたおかげなのか、そこまで自分を責めないで済みそうだ。

将は携帯を閉じようとして、思いついて再び開ける。

聡にメールを送ろうと思ったのだ。

そこで、朝着信した、マネージャーの武藤からのメールを見つける。

そういえば内容をロクに確認していなかった、と開封する。

そこには、今日放課後、事務所に来るように、とあった。

――めんどくせ。

将は、シーツの上に身を起こすと、武藤に電話をかける。何とか理由をつけて断るつもりである。

「もしもし、将?今日これるでしょう?」

武藤は将からの返答を待ちかねていたようだった。

「いや……ちょっと」

行きたくないが、とくに用事があるわけでもない。将は自然に言葉を濁した。

武藤の声には抗議テイストが混じる。

「今日、入学式で学校が早く終わるって言ってたでしょ」

――そんなことまで教えたっけ。

将は

「何でですか?」

と、とりあえず用件を聞くことにした。

「ちょっとあなたに会いたいっていうプロデューサーがいるの。ほら、こないだ言ってた『ばくせん2』の」

「はあ、『ばくせん2』」

その他大勢役で出演できるかも、と言われていた夏に予定されている人気ドラマだ。

「それがね、よく聞いて、将。実は、主要な生徒役のうち、内定していた一人が、急に芸能活動を休むことになっちゃって」

「ハァ」

それがなんだ、と将は興味のない、単なる相槌をいちおう声にする。

「飲酒喫煙がバレて謹慎だそうよ」

「……へーそー」

ドジだな。と将は心の中でせせら笑う。

「でね、代役にあなたを推したいの」

「ハ?」

「……というより、あなたにほぼ、決まりなの。こないだの食事会に来てた△△さんがあなたをとても気に入ってね。あの人、局Pと仲がいいのよ」

「え」

将はわけがわからなくて、短い声しか発することができない。

「ということだから、今日、来てほしいのよ」

武藤は畳み掛けるように言葉を重ねる。

「いや、でも」

「あいてるのね?」

有無をいわせない武藤。その勢いに

「……あいてなくは、ないけど」

つい、将は正直に言ってしまった。

「じゃあ、5時までに事務所に来て。絶対よ」

「えー」

「えー、じゃない。これは仕事よ」

武藤の口調はどんどん強気になってくる。将は承諾せざるを得なかった。