第207話 保護者

金曜の夕方。

大悟は三宅弁護士に送ってもらった地図に従って、西嶋運転手の弟・西嶋隆弘の家を目指して歩いていた。

西嶋隆弘の家があるT地区は、東京の『モノづくり』を代表するような小さな町工場が密集し活気がある一帯だ。

西嶋隆弘が経営する西嶋光学工業は、隆弘が一代で築きあげた会社だが、ある技術で世界中にその名を知られているという。

その光学機器はNASAの宇宙開発にも使われているという記事を、大悟はあらかじめネットで見つけていた。

当初、なんとなく、西嶋を訪ねあぐねていた大悟だが、それで少し興味が湧いて、訪ねてみることにしたのだった。

もちろん、手持ちの金がなくなってきたことのほうが原因としては大きいが……。

 
 

西嶋光学工業は、大悟の想像よりずっと立派だった。

『町工場』というと、錆びたトタンの外壁に、とびちる油、黒く汚れた作業服に軍手……というのが大悟のイメージだったが、

ここはまるで3階建てのこぢんまりとしたオフィスビルのように見えた。

大悟はとりあえず、その小さなオフィスビルの玄関から入り、受付に立った。

受付の奥は小さな事務所になっていて、そこで電話の受け答えをしていた中年の女事務員が大悟を見つけてすぐに

「ハーイ。ちょっと待っててくださいね」

と元気な声をかけた。そして、観葉植物で区切られた応接スペースにあるソファを手振りで勧める。

事務員は電話に戻ると、真剣な顔でファイルを取り出して、チェックをしたりなどしていた。

大悟は小さな事務所を見渡した。キャビネットに囲まれた中に、グレーの事務用机が5つ置かれていて、いずれも書類が雑然と置かれている。

小さな事務スペースの向こうはガラスで仕切られていて、作業台の上で精密な作業をしている男達が見えた。

女事務員は、やっと受話器を置くと、

「あの、どちら様でしたでしょうか」

とソファに座る大悟のほうに近寄ってきた。小太りなのに身のこなしは素早い。

「あの……。島といいます。三宅弁護士事務所の紹介で伺いました」

大悟は立ち上がるとおずおずと頭を下げた。

「ああ!島大悟さん。聞いてますよ。……そう、あなたがぁ、まあ、まあ」

女事務員は感慨深そうに大悟を見上げた。そして

「もうすぐ5時30分だから、少し待っててね。工場がひけるから。主人もすぐ出てきますからね」

と親しげに声をかけた。

「あ、私は、西嶋の家内で、節子といいます。よろしくね」

と大悟に微笑みかけた。

 
 

節子の言ったとおり、まもなく17時30分になり、工場は終わった。

1階奥と2階の作業場より30人ほどの作業服の男達が次々と

「お疲れ様です」

と声をかけあいながら出てきて、ロッカールームに入り、引けていった。

中には作業服のまま、会社を出る男もいる。

「あ、社長」

節子は夫を呼ぶのに、『社長』と呼んだ。社内だから呼び分けているのだろう。

節子の視線の先に、薄いグリーンの作業服を着た中年の男性がこちらへやってくるのが見えた。

すっかり禿げた頭は、大悟の親戚のバカ親爺を思わせるが、禿げ頭の下の顔は、穏やかで、仕事を終えたせいか、さばさばとした笑顔だ。

「島大悟さんがいらっしゃったわよ」

節子は、隆弘にはずんだ声をかけた。

「おお、来たか。じゃ、上で」

と、親しげに、年の割にキラキラと光る瞳を大悟に向けた。

 

西嶋光学工業の社ビルは2階までが工場兼オフィスで、3階以上が社長の自宅になっていた。

社長の隆弘について、大悟は階段を上った。

「会社が休みのときは、外階段から出入りするんだ」

といいながら隆弘は3階の階段を登ったところにあるドアをあけた。

そのとたん、まっ白な猫が飛んできて、隆弘の足の周りに嬉しそうにまとわりついた。

「こら。シロ。足踏むぞ……」

隆弘はそういいながら、

「遠慮しないで、あがりなさい」

と大悟を促した。

「ハイ」

猫は客が珍しいのか、大悟を見上げてニャー、と鳴いた。

下の事務所にはソファがあったのに、ここにはなく、かわりに畳の間と古風なちゃぶだいが応接間を兼ねている。

オフィスビルの外観から信じられないほど、所帯じみた……まるで昭和30年代を思わせるようなスペースになっていた。

隆弘は、ちゃぶ台の奥に作業服のままドッカとあぐらをかくと、大悟にも親しげに座布団を勧めながら

「座って、座って。……君はまだ未成年だったな。熱いのと冷たいのとどっちがいい?」

と聞いてきた。

「……じゃあ、冷たいので」

と大悟が言い終わる前に

「節子、麦茶2つー!」

と隆弘は奥に向かって怒鳴った。

「あら、ビール、栓抜いちゃったわ」

節子はすでに、怒鳴ることもない位置に、盆にグラス3つとビール瓶を乗せて立っていた。

「しょーがないなあ……。大悟くんは、イケる口かい?」

隆弘は大悟をいたずらっぽく見つめて、手首をクイッと傾けた。お酒はやるのか、という意味だ。

「いや、僕はいいです」

大悟は用心のために、遠慮した。

もしかしたら、更生したのかどうか、試しているのかもしれないから。

本当は……、ここまで来るのに駅から結構歩いたので、ビールは大歓迎なのだが。

「そうか……。節子、アレを持ってこい」

「ハイハイ」

節子はお盆に載せたビールとグラスを畳に置くと、踵を返した。

隆弘は、「じゃあ、悪いけど私だけもらいますよ」と

笑顔で大悟に断ると、手酌でビールをついでグラス1杯を一口のように飲み干した。

ぐいっと喉が動くさま、そして気持ちよさそうに息を吐き出す様は、とても旨そうだ。

グラス2杯ほどを飲んだところで、節子が「それ」を両手で捧げるように大事そうに持ってくると、隆弘に渡して、自分もその横に座った。

それは……大悟名義の通帳とそれに挟まった封筒だった。

通帳を開いて、隆弘は説明した。

「これは、私が三宅さんから預かった通帳だ。この中に、君に必要な金が振り込まれる」

中には5万と記帳され、今日の日付で引き出されていた。

その引き出した5万は封筒の中に入っていた。

「これは5月分に少し4月分がプラスされているそうだ。いま、君は鷹枝さんの息子さんのマンションに住んでるというから、小遣いと散髪代、洋服代ということだ」

隆弘は封筒から紙幣を出すと、大悟の前でいったん広げた。

「これからは、毎月1回、小遣いを取りに来なさい……もちろん、君がどこか学校に通いたい、というのなら、ここに必要な学費が振り込まれる。

私はそれを責任を持って、学校に振り込むようにする。きちんと領収証もとるから、君は毎月確認しなさい」

「どうも、ありがとうございます」

大悟は頭を下げながら、その封筒を受け取った。

「そうだ。大悟くん。あなた保険証持ってないでしょう?」

節子が隆弘の隣から声をかけた。

「あのね。もしよかったら、うちの子になりなさい?そしたら扶養家族として保険証も使えるのよ」

大悟はそういえば『保険証』を持っていなかったと思い出した。

自動車部品工場に勤めていたときは持っていたのだが、その後、保険のないハケン勤務だったから。

「こら、お前、まだ気が早いぞ。……ところで、ちょうどよかった。大悟くん、1つ頼みがあるんだが」

隆弘は、気の早い節子を咎めると、大悟に封筒を渡し、にっこりと笑った。

「ハイ」

「実はな」

隆弘は、あぐらから勢いよく立ち上がると、箪笥の上に飾ってある模型の軍艦を持ってきた。

それは砲台が見事に壊れていた。

「戦艦大和の模型だ。知人にもらったものなんだが、シロがいたずらして壊しやがってなあ……。

自分で治そうと思ったんだが、今日は疲れてしまってねえ……。

でも今週末、その知人がうちにくるんだよ。それで、大悟くん、もしよかったら、ちょっと治してくれないか?」

隆弘は「これが、壊れる前の写真」と模型の完成形の写真を持ってきてくれた。

「元通りに見えればいいから」

大悟は、それ模型と写真をじっと眺めた。あまり難しくなさそうに見えた。

「ハイ。僕でよかったら……」

「よかった。じゃさっそく頼むよ」

隆弘はボンドやカッター、塗料などの道具を持ってくると、自分はちゃぶだいの片方に腰掛けて、ビールの続きを飲みながら、大悟の手並みをのんびりと観察していた。

節子は夕食の支度をしはじめた。

台所から包丁を使うコトコトという音や、何かを炒める賑やかな音がしたかと思うと、ちゃぶ台の方まで醤油の匂いが漂ってきた。

……大悟は、手先が器用なほうである。

それを、最大限に生かして、万引きやバイク泥棒などをして暮らしていたのである。

父が借金取りに追われて貧乏暮らしだった大悟は、こんな立派な模型を作ったことはないが、材料と完成図があるなら、別に特に難しいようにも思えなかった。

ときおり、アドバイスを受けながらも、1時間あまりで、壊れた砲台は元通りになった。

「ありがとう!助かったよ。大悟くんは、手先が器用だな」

隆弘は、握手を求めてきた。

この昭和な雰囲気の中で、欧米風の挨拶がどことなく面映い。

「いい手だ。それにいい目だ」

隆弘は大悟の手を握りながら、まっすぐに大悟を見つめ、さらに褒めた。

大悟はくすぐったいような気持ちになった。

「もう、あなたったら。大悟くん、お腹すいたでしょう」

「ちょうど、メシの時間だな。メシ食ってけ。たいしたものはないが」

隆弘は、大悟の肩を叩いた。

「まあ。失礼ねっ」

節子は『たいしたものはない』に腹を立てるそぶりをしながら

「よかったらぜひ、食べていって。大悟くん」

と大悟を誘った。その温かい雰囲気は逆らいがたい気がした。

だが、この家の雰囲気もろとも、あまりに温かすぎて……自分にはそぐわない気がして、大悟は

「いえ、いいんです。……友達と約束がありますから」

と断ってしまった。

「そうか。残念だな」

隆弘と節子は目を見合わせた。

「じゃ。僕はこれで」

大悟は一礼すると、靴を履いて、外階段のほうに出た。

そのとたん、真っ赤な夕日が大悟の体を染め抜いた。

「大悟くん」

夕陽を背にして、紫に翳った階段を駆け下りようとした大悟は、節子に呼び止められた。

「大悟くん、来月誕生日なんでしょ。もしよかったら、うちに来なさい。お祝い用意するから」

節子の小太りの体の後ろから夕陽が射して、後光のように見えた。