第223話 全部忘れられるもの(4)

「……わァッ!」

自分の叫び声で大悟は飛び起きた。

眠っていたというのに……心臓が激しく暴れている。背中は寝汗でびっしょりだ。

目をあげると、カーテンから陽光が漏れている。すでに陽は高いらしい。

それで、今まで翻弄されていたのは、単なる悪夢だとわかり、大悟はため息をつく。

そして、もう一度、布団の上に上半身を横たえた。

さっきは明け方だった。

やはり、同じように悪夢で目が覚めて……この1週間あまり、大悟は悪夢に悩まされている。

あの、元保護者のハゲ親爺一家が車ごと港に沈んでいた、というニュースを見てから。

一家心中の疑いが濃厚、そして娘の行方がわからない、という情報内容は変わらなかった。

そのニュースは、近頃特に大きなニュースがなかったせいか、ワイドショーでも取り上げられていた。

それが気にならない、といったら嘘になる。

大悟は『興味本位』とうそぶいて、それを可能な限り見てしまっていた。

ネットのほうにもいろいろ噂で流出しているのではないかと、検索してみた。

が、それほど猟奇色がないせいか、目覚しい情報は見つからなかった。

何が気になるのか、といえば。

大悟の金で酒を飲んだくれていたハゲ親爺はどうでもいい。自業自得だ。

その妻『おばさん』も、少し可哀想だが、まあどうでもいいだろう。

気になったのは道連れにされた彼らの孫と、行方不明の娘である。

あの家を訪れた最後に目にした3人の姿が大悟の脳裏に焼きついて離れない。

ハゲ親爺にまったく似ていない娘。

彼女が抱いていた男の子の泣き濡れた黒い瞳。そして『ばいばい』と手を振った女の子の声。

あの2人の、何の罪もない幼児が、今はこの世にいないのだ。

娘のほうは……おそらく、どこか怪しいところで働かされるのだろう。

大悟の金が彼らに振り込まれなくなったことで、あの3人までもが災難にあったのなら……大悟は心の深いところで罪悪感を感じていた。

いや、そもそも、心の表面も痛かった。それを

――でもあれは、もともと俺の金だ。

――俺が悪いんじゃない。闇金のやつらが、借金をつくったオヤジがいけないんだ。

と無理やり言い聞かせるようにしてことなきを得ていたが、コントロールできない心の奥底が大悟に悪夢を見せるのだ。

それは化け物に追いかけられる夢だったり、乗っている車が水中に転落する夢だったり、誰かを刺して包丁が指から離れない夢だったり。

その中で、かなりの頻度で登場するアイテムがある。

溺死体。そして『この前科者が!』という罵声。

さっきも元保護者のハゲ親爺に殴られまいと逃げていた。

大悟は必死で逃げた。追われて気がつくと港まで来ていた。どんづまりになって、大悟は目の前の海に飛び込んだ。

もう大丈夫だろう、と泳ぎながら振り返ると……溺死体になったハゲ親爺が大悟の肩を掴んで、『この前科者が!』と吼えた。

溺死体の膨れきった体。ふやけて破れた皮膚……こんなときに登場するなんて、まったくグロ画像なんて見ておくものではない、と大悟は後悔した。

眠れば、必ず悪夢を見る、という状態の中で、大悟は完全に寝不足になった。

酒を飲めば熟睡できるかとも思ったが、入眠効果はあっても、悪夢を阻止する力はなかった。

気晴らしに、パチンコに行ってみた。

今度は大負けしないように、と気合を入れるが、なかなか勝てない。

浮上するときはある。例えば、座って1時間やそこらで、1万ほど浮き上がるときがある。

だが、『気晴らし』に来ている大悟は、そんな短時間で離れるのはもったいない気がしてしまう。

もしくはもっと粘れば、もっと儲かる気がしてしまう……かくして、ずっと粘り続けて気がつくと、損をしているのだ。

――『手先が器用だ』なんて言われたけど、たいしたことないんだな。

大悟は勝てない自分を自嘲した。

そして今日、手持ちの金が残り10万に近づいてしまい、大悟は少し焦った。

どうせ、眠っても悪夢にうなされるだけだ、と大悟は久しぶりに薬をさばきにいくことにした。

今日もそれは、飛ぶように売れた。

パラフィンペーパーに包んだ10個のうち、一気に8個が売れた。

中には

「こないだの!よかったよ~」

と大悟のことを覚えていて3個も買った客がいた。

大悟のほうは、彼女にいつ、どこで売ったんだか、まるで記憶にないのだが。

8万を手にした大悟は、自分で決めたルールどおり、30分で店をあとにした。長居をすると危険だからだ。

あと2個の白い包みを手にして、大悟は思う。

――なんで、こんなものが売れるんだろう。

瑞樹の死に際がフラッシュバックする。

あんなふうに幻覚に怯え……ついには命まで失ってしまった瑞樹。

恋人の大悟に遺体にすがることも許さず、蒸発してしまった瑞樹。

大悟は、細かい血しぶきがついた自分の顔を思い出して、自分の頬をなでた。

瑞樹のかけらがくっついていた顔は、今は髭でざらついている。

『つらいことを、全部忘れられるから』

瑞樹の低い声が蘇る。

たしかに、あの頃の瑞樹の状況は悲惨だった。

義父に弄ばれ、帰る家がなく。体を差し出すほど好きな将は他の女に走り。

それを忘れるために、彼女はこの白い薬に走ったんだろうか。

それほど、この薬は、すべてを無にしてくれるんだろうか。

「バカだな」

大悟は、煙草の煙と共に、呟きを吐き出すと、

――感傷に耽っている場合じゃない。この2つを売ってしまおう。

と新しいハコに向かった。

 
 

さっそく大悟は、一人で休んでいた女の子に声をかける。

「ねえ。いいもん持ってんだけど」

「えっ何?」

大音響の中、振り返った顔を見て、大悟は息を飲んだ。

瑞樹に、似ている。

「気持ちよくなるヤツ」

女の子の耳元に叫ぶように伝えながら、大悟は少し怯えた。

だけど、まったく違う匂いになぜか安心する。香水の匂いが強く香った。

「ちょうだいっ!いくら」

そんな甲高い声も瑞樹とはまるで違う。

だけど、こっちに走らせる大きな目は、まるで瑞樹だ。

赤毛ではあるが、長い髪をまっすぐにおろした髪型も、クラス写真の瑞樹を思わせる。

「1つ1万。残り2つだよ」

「いいじゃん。買う買うー」

女は明るくポシェットから財布を出した。

ピンク色のブランドの財布からためらいもなく万札を2枚出すと、大悟に渡す。

これで、商売は終了なはずだが、大悟はなんとなくその女から離れがたくて、隣に座った。

「ね。これ、そんなにスキ?」

大悟は女に話し掛けた。

「スキスキー、サイッコー!嫌なことぜーんぶ忘れちゃうもん」

言ってることまで瑞樹と同じだ。調子は全然違うが。

「嫌なことぜんぶ?」

「ぜんぶー、ぜーんぶ!」

とはしゃいだあとで、女は大悟に向き直ると

「アンタ、やったことないのォ?なのに何でー、持ってんのォ?へんなのおー」

そういってキャハハと笑った。

大悟の薬をヤル前からかなりハイである。

「1個、返してあげるからぁ、一緒にやるぅ?」

と女は親切そうに、いったんしまった大悟の薬を取り出そうとポシェットに手をかけた。

「いや、いいよ。先輩に言われて、ノルマ分売らないと、あとでボコられるんだ」

よく、とっさに言い訳が浮かぶものだ、と大悟は自分で自分に呆れる。

「へえ。コレ?」

女は、頬に人差し指で斜め線を描いた。そういう筋のものか、という意味だ。

そうやって大悟の顔を覗き込むようにすると、三白眼のようになる。

そんなようすも、ますます瑞樹に似ている。

「うん」

「かわいそー。じゃあさ、これ1個おごってあげるからさ。一緒にヤろうよ」

同情に眉根を寄せながらも女の目が潤んだ。大悟を誘っているのである。

「ヤる?」

大悟はわざとらしく訊き返した。

「これをぉ、ヤッて、ヤる」

女はそういうとキャハハと笑った。

 
 

大悟がバスルームから出てくると、先にシャワーを浴び終わってソファで待っていた女はいきなり抱きついて、口づけをしてきた。

女のマンションに来ている。もう3時近い。

すっぴんになると……、アイメイクがとれたせいか、それほど瑞樹に似なくなったな、と思いながら大悟は冷静に女と唇をあわせる。

ミカというこの赤毛の女は、21歳の大学生だという。

大学名は訊いてもわからなかったが、一人でこんなオートロック付きの、1LDKの小奇麗なマンションに暮らしているくらいだから、地方の金持ちの娘なのだろう。

大悟のほうは、念のために『ダイチ』と名乗り、年も20歳と誤魔化した。

「ダイチ……」

ミカはすでに恍惚として、知ったばかりの大悟の偽名を呼んだ。

大悟は、バスローブの襟元から手を侵入させ、ミカの裸の胸に触れた。

それは小柄な体に似合わず案外ボリュームがあった。

瑞樹のよりやや大粒の先端はすでに固まっている。

「ああん、待って。アレ……ヤろう」

ミカは大悟の両肩を掴んで離すと、いったんキッチンに入ってストローを持ってきた。

それを短く切って大悟に差し出す。

「これでね、鼻に吸い込むの。飲んじゃってもいんだけど。でも、こうすると、ホラ、スーッとしない?」

ミカは待ちきれないように、ソファのテーブルの上にかがみこんで、パラフィンペーパーの上の白い粉末を吸い込んだ。

大悟は、ミカの真似をしながら、別にスーッとなんかしない、と思った。

半分近くを粉砂糖で嵩増ししているからだろうか。

しかし女のほうは『スーッとしている』らしい。

「よくなってきたァ……」

と目がとろけてきた。慣れているせいの、条件反射だろうか。

「ねえ……、しよ。これしながらヤると、最高、なの」

恍惚とした目で、大悟を再び誘う。そういう目をすると、ミカは少し斜視のように見える。

大悟のほうは、たいして効果がないな、と思いつつ、いわれたとおりミカを寝室に連れていくと、リクエストどおり抱いた。

ミカはバスローブを脱がされただけで、よがり始めた。

空気だけでも感じるような勢いだ。

大悟は、女の体の各部分を、瑞樹と比べながら丹念にいじった。

――似てない。これは別の女だ。

いじられるだけで、女はまるでAV女優のように高い声で、景気よく喘ぐ。

その声は煩いほどだ。

しかし、だんだん大悟は愉快になってきた。

気が大きくなっている、と思った。

大船に乗ったような……漠然とした安心。

大悟は、瑞樹と似ていない女の体がだんだん好ましく思われてきた。

「ねえ……、ダイチ。きて」

もうすぐなのか、女がせつない声で訴える。

だが……あいにく大悟のそれは、固まっていなかった。

「なあに、まだ、なの?……いいよ、じゃ、あたしがやってあげる」

ミカは気前よく、体勢を交代すると、大悟のそれをとまどいもなく口にした。

気持ちいい。

瑞樹が生きていた頃、それをしてもらいながら……その巧さに我を忘れそうになりながらも

――将のヤツにも、何度となくやってたんだろうな。

ということは常に頭から離れなかった。

なのに今、大悟は、ただ気持ちいい。

ふわふわと花びらのよう空から降ってくる快感が、アレに集中していくようだ。

気持ちよさのあまり、何も考えられない。

「ねえ……、気持ちいい?」

ミカは大悟の先端をこきざみに舐めながら訊く。

「うん」

気持ちいいのに、大悟は勃たないのだ。

大きくはなったけれど……大悟の硬さはこんなものではない。

どこか、だらりとしているのだ。白い薬のせいだろうか。

だけど、そんなこと大悟は気にならなかった。

いや、大悟は、無重力のような感覚に浮かびながら、すべてのことから解放されていた。

ハゲ親爺一家の孫への罪悪感も。

就職の面接官の冷たい視線も。

血の飛沫になってしまった瑞樹も。

『この前科者が!』という罵声も。

帰らなくなった実の父も。

全部、大悟は思い出さなかった。

「……ねえっ!気持ちいい?……ねえ!」

叫ぶようなミカの問いかけすら、どうでもよくなっていた。

こうして……気がつくと大悟は『全部忘れられる』薬から離れられなくなっていた。