第250話 死闘(2)

 
翌日は台風も去り、木の葉やゴミが散らかった街の上に澄んだ青空が広がった。どうやら台風は梅雨前線を押し上げて去っていったらしい。

生き残った蝉が仲間に無事を伝えあっているのか、その声のうるささはひとしおだった。

武藤は手早く化粧を終えると、出かける直前に将にいつものように電話をかけた。モーニングコールである。

「将?おはよう。今日は9時に迎えにいくから」

即座に返答はなく、電話は沈黙していた。武藤は気にもとめない。

寝起きが悪いときなどは、こんな風になかなか返事が返ってこない場合もしばしばある。

携帯を握ったまま、また寝ているときすらある。

「しょーお、起きてますかあ?もしもーし」

おどけて大声を出す武藤に

「……今日は、仕事休む」

地を這うようなかすれ声が聞こえてきた。

「どうしたの?将。具合でも悪いの?」

「……うん」

うめくような声はただ事ではない。

「大丈夫?将」

「迷惑……かけて、ゴメン。今日は……こなくていいから」

「そういうわけにはいかないわ。どこが悪いの?」

「……」

将は無言だった。

「将?大丈夫?一緒に、病院にいきましょう。ね?」

「……いいってば。……切るぞ」

そういうと将は電話を切った。掛けなおしても、電源を切ったのかつながらない。

固定電話のほうも1コールもなく留守電になる。

武藤は、いつもより急いで準備をして、車に乗り込んだ。

 
 

 
将のマンションに着いた武藤はオートロックの前で待つようにインターフォンで言われた。

いつもだったら、ロックを解除して部屋まで迎えにこさせるのに。思えばそこから異常だった。

「将……!」

透明な自動ドアの向こうに現れた将の姿を見た武藤は、あまりのひどさに体中に戦慄が走るのを感じた。

まるで特殊メイクのよう……それほどにひどい姿だった。

いちおうジーンズとTシャツに着替えてはいたが、顔中がひどく腫れあがっていた。

頬、そして瞼、唇。肌色のほうが少なく見えるほど……将だというのが一瞬わからないほどのひどい顔だった。

猫背気味に心臓の下あたりをかばって、かつ右足をひきずっていた。

自動ドアが開いても、武藤は言葉を失ったままだった。

胸をかばう右手手首にひどい裂傷がある。それを見た武藤は思わず口を覆った。

「……どうしたの!それはいったい!」

ようやく武藤の口から言葉が出てきた。心配のあまり咎める口調になってしまっている。

「なんでもな……っつッ!」

将は顔をしかめて、体をいっそうかがめた。

「なんでもなくないでしょ!すぐ病院に」

武藤は駐車場のほうへと将の腕をとった。

「いいって」
「よくないわ!」

「大丈夫だよ」
「大丈夫なはずないでしょ!」

「大丈夫!………ててて」

武藤の腕を振り払おうと大声を出した将は、手でかばっているあたりが痛んだのか、下をむいた。

将はそのまましばらく、左胸の下をかばってうつむいていたが、腫れ上がった顔をあげた。

「武藤さん……」

「なに。ほら、行きましょう」

腫れた瞼の下の、細くなった目の中の瞳。それを見るだけで痛々しかった。

「○○病院に連れて行ってくれ」

前にスキーで足を骨折したときに入院した、看護士の山口が内科病棟にいる病院の名前を将は指定した。

 
 

 
病院の待合室で、将は注目をあびた。将を見たものはみな、そのひどさに眉をひそめた。

だがこの、ひどく顔が腫れ上がった男が『ばくせん』に出ているイケメン俳優のSHOだとは誰も気付かなかった。

医師も、あまりの惨状に目を丸くした。

服を脱がせるとさらにひどかった。顔のように派手に腫れてはいないものの、全身が赤や青の鮮やかな痣で彩られていた。

まるで袋叩きにでもあったような将に

「これは……何か事件にでも巻き込まれました?」

と思わず医師が聞いたほどだ。しかし、将は

「非常階段で滑って転げ落ちただけです」

としっかりとした口調で言った。

階段から落ちただけで、顔がこうも腫れあがるはずはないし、右腕に裂傷を負うはずもない、と当然医師はわかっている。

だが、何度訊いてもそう答えるだけだった。

見立てでは、全身殴打と見られる打撲だったが、左胸下と右足は特にひどいのでレントゲンを撮ることになり、将はいったん診察室を出た。

武藤は待合室を離れて、電話スペースでしきりに電話で話していた。おそらく、仕事をキャンセルするため、連絡をしまくっているのだろう。

将は、その姿を見て、傷のほかに良心も痛んだ。

たしか、伊豆ロケが終わったあたりから、将がメインになる回の撮影が始まるといっていた。

メインにならない回でも、最近将の出番は目立って増えていた。

――たしか今週はCMのオーディションもある、っていってたっけ。

ラジオ出演も。雑誌のインタビューも。まともな文章が書けるということで、女性誌にフォト&エッセイを載せるという話も決まったはずだ。

スケジュールはぎっちり詰まっていた。それらを……すべてキャンセルしなくてはならないのだ。

『本当にごめんなさい』

携帯をにぎりしめながら、電話の向こうの相手に頭をしきりに下げる武藤に、将は心の底からすまないと思った。

将は待合室の隅にあるベンチに浅くよりかかると、目を閉じる。

瞼を開け閉めするのも、違和感がある……それにゴロゴロと痛む。

だけど、それよりも、全身の痛みよりも……どこよりも痛いのは心だった。

 
 

 
あれから。

残った覚醒剤が全部消えたのを見届けると、大悟は泣き叫んだ。

だが、ようやく倍量も飲んだ入眠剤が効いたのか、こときれたように眠ってくれて、将はほっとした。

将はその間に、さっき薬が散乱したあたりを、水に濡らしたタオルで拭いた。

薬は見えないほどに散乱したらしいが、大悟のあの様子だと、床を這いつくばって舐めかねない。

将は何度となくタオルを洗い、丹念に大悟の部屋の床を拭いた。

一人、床を掃除する将は、窓を叩く激しい雨にようやく今、台風が来ている事を思い出した。

通常だったら廊下やバルコニーに面している窓に雨が直接あたることなどない。

将は立ち上がると、窓から外を見た。外はあいかわらずまっ白だ。下に広がる街並みが白い斜めの縞模様の中にかすんで見える。

看板か何かだろうか、風に乗ってありえない高さまで舞い上がるのがときおり見える。

将はつけっぱなしになっていたテレビを見た。瞬間最大風速40mを記録した、と報じている。

風雨に煽られてまるで我慢大会のように立っているアナウンサーの画像は『横浜港から中継』とある。

こんなに激しい台風が関東を襲うことなどあまりない。

――聡は大丈夫だろうか。

将はふと心配になった。電話をかけるべきか悩む。

非常時だから、いいだろう、と決意したとき。大悟が、むくり、と起き上がった。

「大悟」

こときれたように寝付いてから1時間程度しか経っていない。

「将……」

起きぬけの大悟は、普通の様子に見えた。さっきの暴れぶりが嘘のようだ。

だが、それも一瞬のことだった。大悟は開口一番、

「もう俺はダメだ。体中が気持ち悪い」

と言い出したのだ。目はうつろなまま、虚空に向かって見開かれている。

「何言ってるんだ。大悟」

「ダメなんだ。この体はもうダメなんだ」

何往復か支離滅裂なやりとりが繰り返されたあと、大悟は薬を求めて暴れ始めた。

「もう薬はない!さっき捨てたのを見ただろう」

将がそういうと、大悟は外へ出ようとした。それを体当たりするように止める。

「外は台風だぞ」

「うるせー!離せ!」……。

大悟は、大声を出して暴れた。止めようとする将を容赦もなく殴る。

ただ、ロクに食べていないせいか体力のない大悟は、30分も暴れると、がっくりと倒れこんだ。

そして、おびえはじめた。

「しょ、しょ~」

「何だ……」

すでに何発か殴られた将も、力尽きて、ソファに身を預けて目を閉じている。

「俺を……、俺を見捨てないでくれ」

「大悟」

将は、寄りかかっていた上体を起こすと、膝の上に頬杖をつくようにして大悟を覗き込んだ。

「頼む……。将……。俺を……見捨てないで」

大悟は骸骨になったような顔の中の双眸を細めて泣いていた。

その瞳は、さっきの狂気とはまったく別の色だった。

そこには絶望に近い孤独と寂寥だけになった大悟の心象風景が透けて見えるようだった。

「わかってるよ」

将は横たわる大悟に微笑みかけた。

「俺と……一緒にいてくれるか」

大悟はなおも、将に弱弱しく問い掛けながら手を伸ばした。将は深くうなづいた。

殴られた頬が、どこかでぶつけたのか、足がにぶく痛む。だけど。

「薬が抜けるまで、頑張ろうな」

将は大悟の右手を握った。その甲には紫色の内出血があった。さっき将がギリギリと親指を押し付けたあたりだ。

大悟は嬉しそうに微笑むと目を閉じた。

おびえて震える。錯乱し暴れる。意識を失う。それが不規則に繰り返された。

ただ、外の台風が遠ざかっていくにつれて次第に弱まっていくのとは逆に、大悟の『振れ幅』はますます大きくなっていった。

特に夕方、暗くなってからのそれはすさまじかった……。

 

 
「出せ!俺をここから出せー!」

大悟は喚いた。やせ細った体からは考えられないものすごい力だ。

将は、死に物狂いでそんな大悟を後ろから羽交い締めにした。

「誰かアアアア!俺は監禁されている!助けてくれエエエエ!」

すると大悟は近所にわざと聞こえるような大声で咆哮した。

「やめろ」

将は大悟の口を押さえようとした。その将の左手に大悟は思い切り噛みついた。

「痛てえッ!」

思わず羽交い締めにする将の力がゆるんだ隙に、大悟は玄関に向かって走り出した。

させるか、と将は大悟の足にとりついた。

リビングの出口あたりで、大悟は足をとられて引き倒された。

転ぶ音はフローリングに反響して部屋中に響き渡った。

「何するんだ!」

顔を床にしこたま打ち付けた大悟は、鼻血を流しながら、なおも左足にしがみついている将の頭を右足でやみくもに蹴った。

そして将を足から離すと、再び立ち上がって玄関へ向かう。

しかし大悟から離れた将も同時に立ち上がって、大悟のさきまわりをした。

「行かせない。行くなら俺を殺せ」

将は大悟の前に両腕を大きく広げて立ちはだかった。すでに大悟に負けないほど息が荒い。

「何を偉そうに……!」

大悟はそんな将の襟首を掴むと、顔を拳で殴った。

鼻血を流す大悟は、手負いの獣そのものだった。人間的な手加減は一切ない。

殴られたはずみで将は、廊下の壁にぶつかるように投げ出された。

そんな将の襟首をさらに大悟はもう一度つかんで引き起こす。

将は口から血をブッと吹き出すと、大悟の瞳を見つめた。

「行かせない……絶対に」

大悟は狂気の目を見開くと、将のみぞおちを膝で蹴った。

「グアッ」

将は玄関の床に横向きに倒れこんだ。大悟は倒れた将の胴体になおもケリを入れる。

薬への依存に精神を奪われた大悟は、まるで容赦というものを忘れたらしい。

全力を足に込めて蹴ってくる。自分も素足だというのに、関係ないらしい。

「誰の、せいで、こんな、ことに、なってると思うんだ」

言葉の区切り区切りでリズミカルに蹴りを挟む。そのたびに走る激痛に将はただうめく。

生命の危険を感じる激痛。肋骨がきしむ。内臓を守るために力を込める筋肉がだんだん言うことを聞かなくなってくる。意識がだんだん遠のいていく。

エビのように体を丸めた将を大悟は仰向けに転がした。

もはや、抵抗できないほど痛めつけられていた将は、ハッハッと小さく息を繰り返すだけだ。

「瑞樹を返せ」

大悟は将を見下ろすとおもむろに言った。

その名前に将は、かろうじて薄目をあけていた瞼を見開いて大悟を見上げた。

……だいご。

声にはならない。唇だけがその形に動いた。

大悟は、正気に見えた。

彼は仰向けに倒れた将の横にしゃがみこむと、

「瑞樹に会わせてくれ」

と将の顔をのぞきこむように言った。落ち着いた、優しげでさえある口調。

将は鉄臭い唾液をごくりと飲み込む。大悟の顔から目が離せない。

風の音はやんだが、雨の音は間断なく続いている。

……これ以上の恐怖はなかった。