第262話 叶わぬ恋(2)

小柄で、まだ20歳と若く、可愛らしい丸顔の森村先生は、すぐに生徒たちの人気者になった。

なによりも皆を魅了したのは、顔に不似合いなほどほっそりとした指で弾くオルガン、そして歌だった。

森村先生のオルガンはたいそう巧かった。学校の行事のときは、ピアノを担当していたほどだ。

前に担任だった先生はオルガンがとても下手で、どんな歌も今でいう”Cコード”で通していたというツワモノだったから、

森村先生のそれは、素晴らしい音楽に聞こえた。

そして声が大変透き通っていて、小柄な体から信じられないような声量で唱歌を朗々と歌う様に、生徒は皆一瞬聞きほれたほどだ。

「しかしじゃ。森村先生がホトケのような笑顔だったのは、最初だけじゃった。そのうち、鬼のような形相で怒るようになってのう。

廊下に立たされるのはもちろん、帳面で叩かれたり、しまいには竹刀を持って追いまわされたわ」

落ちぶれたりといえど武家の血をひく史絵は武芸にも自信があったらしい。

袴を翻して女とは思えない速さで巌に向かってきた。あっという間に追いつかれ、竹刀でバシバシと何度も叩かれた。

現代でいえば、忌み嫌われている体罰にあたる。そんな記憶なのに巌は、さも懐かしそうに目を細めた。

 
 

「こっえー。いったい何をやらかしたんだよ」

「そうじゃな。いろいろあるが……イナゴって、聡さん、わかるか?」

聡はうなづいた。バッタのような昆虫である。たしか佃煮にして食べる地方があったようにも記憶している。

「昔の子は野蛮でのう。それを捕まえては着物の襟や袂に噛み付かせての。

思い切り噛み付いたところで体をひっぱると、首だけが残るんじゃ。イナゴの首とりといってよく遊んだものだ」

「俺知ってる。それと同じ遊びを『次郎物語』で読んだ」

将は得意げに下村湖人の名作のタイトルを挙げた。

「そうじゃ。似たような時代だからのう」

「……ところでヒージー、子供の頃、都心近くに住んでたって言わなかった?虫とかいたのかよ」

将が素直に出した疑問に

「昔は東京といっても、今と違ってかなり空き地もあった。渋谷や原宿なぞ田んぼが広がっていたもんだ。幕張メッセのあたりなど、遠浅のきれいな砂浜でな。潮干狩りにいくとアサリやハマグリが山のように取れたんじゃ」

巌は目を閉じて、瞼の裏にその頃の景色が見えているように語った。

「……で、その取ったイナゴの首をな。先生が弾くオルガンの鍵盤の上にずらっと並べたんだ。しかし、先生は悲鳴1つあげずに……」

 

史絵は、弾こうとしたオルガンをパタンとしめた。

女の悲鳴を期待していた巌は、期待はずれに落胆した。が、史絵のようすを、いっときも漏らすまいと観察する。

「こりゃ。罪のない虫を29匹も殺めたのは誰です」

と唱歌のときとまったく異なる低い声で問うと生徒を見回した。皆、巌とその手下の仕業だと知っているが黙っている。

「誰じゃ、と訊いておる」

史絵は低い声で繰り返した。

その静かなる剣幕に、それをやった生徒はよりこうべを垂れ、やっていない生徒はちらちらとやった生徒のほうに目を走らせ始めた。

張り詰めた緊張で、木造の教室はきしむかと思われた。

巌は知らぬふりをして、前に座る女子のおかっぱ頭のうなじの剃りこみと、自分で結んだのであろう、

下手糞な帯の結び目をかわるがわるに見つめていた。

と、その黒いおかっぱがさらりと揺れて崩れた。……彼女はそっと振り返って巌の顔に目を走らせたのである。

気がつくと皆、巌と巌の一味の顔を盗み見ていた。

こうして先生と生徒の根競べは、あっさりと生徒が負けた。

皆から注目を浴び始めた巌は、観念して

「僕がやりました」

と立ち上がった。

「鷹枝君」

史絵は立ち上がった鷹枝の前にゆっくりと歩いてきた。そして目の前に立った。なぜか少し哀しそうな目だと思った。

「歯を食いしばりなさい」

史絵は冷静にそういうと、大きく腕を振りかざした。

矢絣の袂が翻り、それは鳥が羽を広げたようだった。

次の瞬間、巌は思い切り頬を打たれた。

パーンという大きな音が木造の教室に響き渡り、生徒たちは首をすくめた。

「罪もない生き物を、こうやって悪戯に使うとは何事だ!こんなことをしたら、いつか天罰で自分も首をとられるんですよ!」

生徒たちはぞっとした。どこかで見た首を取られた武将の気味悪い絵が、おのおのの脳裏に蘇ったからだ。

「……さっさと弔って来い!」

史絵は、外を指差した。

巌は叩かれて赤くなった頬をプッと膨れさせて、オルガンの鍵盤の上に並んだイナゴの首を右手で左の掌の中に払い落とした。

イナゴの首のあたりには、白い柔らかい肉がとろりと垂れていたが、それが乾燥して鍵盤にくっついたのか、

数個が落ちずに、取るのに巌は苦労した。

巌は教場を出ると、若葉になり始めた桜の木の下に首をまとめて埋めた。

「ナンミョーホーレンゲッキョー」

と、とりあえず、経を適当にあげて立ち上がったそのとき。

今埋めたイナゴの塚の上に毛虫がぽとり、と落ちた。

毛虫は葉っぱの上でないところに落ちて、居心地が悪いのか、もぞもぞと動いていた。

巌は、足を高くあげる。腹いせにそれを踏み殺そうとしたのだ。

しかし……寸前でなぜか止めてしまった。

止めたことになぜかすごく腹が立った。だが、もう一度足をあげようとは思わなかった。

教室には戻りたくなかったので、サボることにした。

川原の土手に来ると寝転んだ。赤い茎のスイバがあったので噛んだ。いつもより酸っぱく感じた。

継母に、新しい担任。女は皆、鬼なんだ。

巌は青い空に、くそくらえ、と小さく叫んだ。

 
 

しかし、森村先生はガミガミ叱るだけではなかった。

いろいろな本を貸してくれた。

それは、当時すでに文豪として名高かった夏目漱石の「我が輩は猫である」、森鴎外の「山椒太夫」など、小学3年生にしては難しい本だった。

だが、巌の成績なら読めるだろうと、森村先生は見込んだのだ。

「まあ、こんな難しい大人向けの本は、級長でもない鷹枝君には読めないでしょうね」

史絵はそういって、ふふんと笑った。

まんまとひっかかった巌は、それを史絵の手から奪い取ると読み始めた。

最初『フン、こんなもの』と思っていた巌だが、それを読み進めるうちにやめられなくなっていった。

外で遊べない雨の日など、神社の軒下で一心に本を読む巌を、帰宅途中に史絵はたびたび見かけることになる。

 
 

4年になり、再び級長に返り咲くことが出来た巌だが、森村先生とはあいかわらずだった。

「級長なんだから、自覚を持ちなさい。……いいですね」

森村先生は巌にそういって聞かせたが、巌は上の空だった。

級長に返り咲けたことを、早く父に報告したいと、ただそれだけを思っていた。

継母に冷遇されていた巌は、父だけが拠り所だったのだ。

衆議院議員になった父は、議会がある日は国会議事堂の近くにある祖父宅に泊まることも多かったが、

それでも毎週土曜日には必ず帰宅した。

父が帰ってくるだけでも巌は嬉しかったが、巌がもう1つ楽しみにしていたのが、ときおり父が買ってくる、ハイカラな洋菓子だった。

文明開化と共に東京には、外国人客向けにさまざまな洋菓子店が出来たが、それは新しもの好きの東京の人にも好評を博し、

大正時代にはすっかり定着していた。

……とはいえ、庶民にとっては、現代のように気軽に食べられるものではなく、甘味自体がまだ貴重だったこともあり高嶺の花的存在であった。

巌は一度、祖父の家に遊びにいった折に銀座の資生堂パーラーに連れて行ってもらったことがある。

こんなに冷たくて甘くて美味しいものがこの世にあるのか、とアイスクリームを食べた巌はしばらくぼーっとしていたものだ。

家に帰ってから『あいすくりいむ』というタイトルで詩を書いたほどだ。

先々週は村上開新堂のビスケットだった。

あれも、さくさくとして後をひく味だった。

夢中で食べる巌に、継母が

「巌さん。いくつ食べるのですか。弟や妹のことを考えなさい」

とたしなめた。

言われなくても巌は遠慮していた。弟が1枚食べた。妹も1枚食べた。その下の弟が……次は自分の番だ、と思って手を出したのに……。

下を向いてシュンとする巌を見かねて父が

「いいじゃないか。巌は弟たちに比べてお兄さんなんだから」

と味方してくれた。しかし、このときは継母はゆずらなかった。

「兄だからこそ、下へのいたわりが必要なのです」

巌は結局、ビスケットを2枚しか食べられなかった。

 
 

絣の部屋着に着替えて、ちゃぶ台の前に座った父に、級長になれた旨を話すとたいそう喜んでくれた。

「父さんも、シュークリームを買ってきたかいがあったというものだ」

と上機嫌で今日の土産を教えてくれた。

「ほんとうですか!」

巌は手を打って喜んだ。

食後のデザートとして出された風月堂のシュークリームは、まさに極楽に登るような味だと巌は思った。

アイスのように冷たくはないけれど、バターの香り香ばしい皮と、とろりとしてコクのあるクリームの取り合わせがたまらない。

あまりにも巌が美味しそうに、また大事に少しずつ食べるものだから、父は

「よし。父さんの分もあげよう」

といって1口だけ手をつけたシュークリームを巌に譲ってくれた。

「まあ。行儀が悪い」

継母は、食いかけを譲る無作法に顔をしかめたが、父は

「級長になれた祝いだ」

と微笑んだまま、取り合わなかった。

 
 

その後のある日。

その日巌は、どういうわけか早く帰宅した。

いつもは雑のうも置かずに、そのまま遊びにいくのだが、たまたま宿題が多かった日だったのだろうか。試験があると予告されたのかもしれない。

その記憶は定かではないが、とにかく巌はその日はまっすぐに家に帰ってきた。

「ただいま」

玄関の引き戸を開けた巌に聞こえてきたのは、ちゃぶ台のほうからの笑い声だった。

継母、弟妹たちの声にまじって若い男の声がする。

巌は、声にひかれて、ふすまを開けた。

そこには……風月堂のシュークリームを食べている義理の弟妹たちの姿があった。

弟妹たちは巌を見上げると、気まずそうに下を向いた。

その皿の上には、シュークリームが1人あたり2つずつ載っていた。

「巌さん、お帰りなさい」

ちゃぶ台の下座で振り返って挨拶した若い男を、巌は知っている。

裕福な継母の実家に仕える書生である。

(書生とはこの場合、下宿人のことである。下宿代は無料で滞在する代わりに、そこの家の使い走りなどで奉公する必要があった。主に若い学生や浪人生がなった)

それで巌はすべて理解した。

風月堂のシュークリームを、継母は実家に仕えるこの男に頼んで買いにいかせたのだ。

「あれ。巌さんの分は買ってませんよ。今日はいないからいい、という話でしたよね、奥様」

男は薄汚れたヨレヨレの紺袴に現れたとおりのズボラさで、フケの浮いたザンギリ頭を掻きながら継母を振り返った。

黒い足袋の踵が擦り切れているのが見える。

弟妹の皿には、シュークリームが2つずつ載っているのに、巌にはない、というのだ。

「いいんですよ。巌さんはこないだ、お父様によけいにいただいたのですから」

と継母は澄ましている。

巌は、誰に、ともなく一礼すると襖をぴしゃんと閉めた。

そのまま、草履を履くと玄関から弾丸のように飛び出した。

すれ違った姐や(※お手伝いさん)が何か声をかけたらしいが、それはすでに遥か後ろだった。

 
 

「……それも、『次郎』で同じようなの、なかった? あれは卵焼だったと思うけど」

遥か昔……小学校低学年で読んだ本なのに、将は鮮明に内容を覚えている。

あれはたしか、お婆さんが、家で育った長男と三男だけに卵焼を与えて、里子に出されて戻ってきた次郎にはわざとあげない、というエピソードだった。

将にも強烈な印象が残っているのは、読んだのがちょうど義母の純代に孝太が生まれた頃で、その話に何か自分との共通項を見出したからなのかもしれない。

「卵焼はワシもやられたわ。他にバナナやらチョコレートやら、牛肉やら挙げ出したらキリがない。あの時代、食い物での分け隔ては、もっとも精神的に参ったからのう」

巌は当時を思い出したのか、心持ちうなだれて、白い睫の下の眼は辛そうだった。

「義母は、わしの好物を知ると、わざとそれを出さないようにして、そのくせ、わしがいないときを見計らって山のようにつくる、ということをよくやってくれたものだ。嫌いなものはテンコ盛りにしてくれてのう。そういうときだけ『お体によろしいですから』などと抜かすんじゃ」

「ひどいですね」

聡は思わず声を漏らす。

巌はあくまでもユーモラスに話しているのだが、その内容は、子供には想像を絶する悲惨さだろうと、聡は思う。

「ヒージー、あとで仕返しした?」

将は興味深げに訊いた。巌はため息をつくと、

「いつか仕返ししてやろう、と思っていたんだが……森村先生がな」

と本題に戻った。

 
 

家を飛び出した巌は、いつもの場所になった神社にやってくると、賽銭箱の前に座りこんで膝の中に顔を埋めた。

先週、そこに捨て子があった。

巌が発見したわけではないが、近所中が大騒ぎになったから巌もよく知っている。

子供の親は結局見つからず、結局乳児院に預けられるということだった。

――僕は邪魔ものなんだ。

――生まれない方がよかったんだ。

これらは、いままでに、すでに何度も思ったことである。

そしてそれは何度目だろうと、思い浮かべるたびに巌の心をひどく傷つけた。

心が傷ついて、噴き出した血のように、いつも涙がこぼれてしまう。

泣いたら負けだ、と思うけれど。

もしかしたら。自分はもしかしたら……父が拾ってきた捨て子なのかもしれない。

そんな想像が浮かんできた。

白いくるみに包まれた巌に、父が神社で出会う姿が、まるで白日夢のように浮かんだ。

想像の中の父は、土曜日に帰ってくるときのように、3ツ揃いのスーツにソフト帽の姿だった。

彼はカバンを置き、しきりに泣く赤ん坊を、慈悲深く抱き上げると、あやそうとした。

だが、泣き止まない赤ん坊に、薩摩藩出身の祖父譲りの濃い眉毛とゆがませて、心底困ったような顔になった……。

想像に、涙はとめどなく流れて、巌の縞の着物の膝を濡らした。

「鷹枝君」

自分を呼ぶ澄んだ声に、巌はハッとした。

あわてて涙を袂でぬぐいながら顔をあげる。

そこには……というより思いがけない近さで森村先生の顔があった。

史絵は、いつのまにか巌の前にしゃがんでいたのだ。

そして大きな目を見開いていた。……それは巌の異変を目にしたしるしだった。

巌は恥かしくて、弱みを握られた気がして、ただ下を向いた。

『どうした?』といつもの男言葉で訊いてくるだろうと身構えた。

だが……史絵は何も訊かなかった。ただ、優しい声で

「先生のうちに来なさい。あたらしいご本を貸してあげるから」

と誘った。