第263話 叶わぬ恋(3)

史絵は学校から歩いて15分ほどのところにある小さな一軒家に、帝大生の兄と一緒に住んでいた。

小さいけれど生垣と坪庭のある家だ。その家には、はみ出すようにして、本がいっぱいあった。

巌が史絵に連れられて家に上がったときは、兄は留守だったが、その本の多さに巌は目を丸くした。

家中が父の書斎のようだと思った。茶の間まで本棚が侵食していた。

「だいたいは兄のよ」

口をぽかんとあけて、並ぶ本の背表紙を眺める巌に史絵は笑いながら言った。

史絵がいつも貸してくれる本はてっきり図書室から貸してくれるのかと思っていたが、それにしては貸し出しカードがついていなかった。

その理由が今わかった。

興味深そうに背表紙を眺める巌に、史絵は

「どうぞ、手にとっていいのよ」

と言ってくれた。巌は、外国語の本の1つを興味本位で手に取った。

「これは独逸語の本。こっちは仏蘭西語。ぜんぶ兄が神田の古本屋で買ってきたの。そのうち鷹枝君もスラスラ読めるようになってよ」

 
 

史絵は巌を、ガラスのコップに入った琥珀色の液体でもてなしてくれた。

よく冷えたそれは口にすると、ほのかに甘く、香ばしく、最後に少しだけ渋みが残り、それが知的で大人っぽい味だと思った。

「……うまい。これ何ですか?」

あまりに感動した巌は素直に口に出した。

「紅茶よ。井戸の水で冷やしてみたの。気に入ってくれてよかったわ」

史絵は嬉しそうに笑みを浮かべた。

あの恐い森村先生が、こんな顔をするのか、と巌は思った。

そんな無防備な笑顔を見るのが、なんだか照れくさくて、巌はまたまわりを囲む本に目を走らせた。

「鷹枝君も、いずれ帝大に進むんでしょう」

巌はハッとして史絵を振り返ると、俯いてしまった。

お前は私の跡取だ、だから一高から帝大に行くんだ――というのは父からよく言われていることだ。

だけど、今回の仕打ちを思い出した巌はつい、言ってしまった。

「僕……小学校を終わったら、家を出ようと思うんです。丁稚奉公でも移民でも、士官学校でもなんでもいいから」

言ってしまってハッとした。

とんでもないことを言った気がする。下を向いた巌は、ちらりと上目で史絵を盗み見た。

史絵は笑顔のままだった。茶の間の外にある柿の木の若葉の緑を映した顔は、少し寂しげに見えた。

しばらく黙って巌を見つめていたが

「家がつらいから、逃げよう、というわけですね……。お父様が悲しみますよ」

父を出された巌の脳裏に、再び、神社で巌を拾う父が蘇った。

「僕……捨て子かもしれません」

「たわけ」

史絵はいつもの口調で即座に巌をいましめた。

目を大きく見開いて巌を睨みつけていたが、その顔はどこか可笑しそうだった。

「捨て子が、こんなにお父様に似るはずないでしょう」

史絵は強く言い放つと、フフっと笑った。その笑顔には若い女のあでやかさがあった。

議員である巌の父は、教育にも熱心で、何度か学校を視察に来ていて、史絵もその顔を知っていたのだ。

だが……巌が、父に似ていると言われたのは初めてだった。

実際、その鋭い目の形、整った鼻梁、太めの眉は、父と見事な相似形を描いていたのだが

(それは将まで受け継がれている)継母に遠慮して誰も巌にそれを告げたことはなかったのだ。

『父に似てる』

その事実を知って、巌は泣きたくなった。

何か巌を苦しめていたものが、雪解けの氷のように溶けて流れ出すかのように、目に涙が溜まりだした。

それを史絵に見られるまい、と必死で瞬いてひっこませる。

史絵はそれを見なかったことにして

「……ところでこないだ貸した本は面白かった?」

と訊いてきた。涙をひっこませることで手一杯の巌は、無言でうなづいた。

「そう。じゃあ、今度は……詩なんかどう?」

と史絵が差し出したのは高村光太郎の『道程』だった。

巌は、それを受け取ると、さっそくその場で開いた。

 
 

「俺、それ読んだことある。『僕の前に道はない。僕のあとに道は出来る』みたいな内容だっけ。……ヒージーが子供の頃からあったんだ」

将は言葉を挟んだ。

「そうじゃ。ちょうどあの頃に刊行されたんじゃ。あの頃の人々は、今よりずっと詩に親しんでおったからのう。

それにしてもあのときのワシには、沁みいるようだった」

巌は、目を閉じて、詩を唄うように呟いた。

 
 

「鷹枝君。自分をいじめる人がいたらね。……自分の道を邪魔する人がいたらね」

史絵はふいに言った。

詩に没頭していた、巌は驚いて顔をあげた。

なんで、先生が、継母のことを知っているんだ、と思った。

実は巌の継母の仕打ちは、おしゃべりな姐やから、近所の奉公人に筒抜けだった。

『うちの奥様は、ご長男をないがしろにしてご自分の子供ばかりを贔屓なさる』

テレビはもちろん芸能週刊誌などのない当時、人の噂は娯楽として面白おかしく伝わった。

もちろん、継母と同じ階層の人々は口をつぐんでいたが、尋常小学校にはそういう奉公人衆の子供も通ってきていたから

口伝えで史絵の耳に入っていたのだ。

「自分を強くしてくれるんだ、自分を偉くしてくれているんだ、と思って我慢しなさい」

巌は険しい顔をした。

即座にそんなのきれい事だ、と思った。

そんな巌の顔にかまわず、史絵は続ける。

「悔しいとか、逃げたいとか、仕返ししたい、などと思ったら、負けですよ」

負けでもいい、そう喉まで出掛かって引っ込んだ。

史絵はまっすぐ巌の瞳を見つめていたからである。

「鷹枝君。君は、頭もいいし、体力もある。輝かしい未来が約束されているのです。それをつまらない相手の挑発に乗って、台無しにするなど、もったないことです」

史絵に『勉強もできるし、体力もある』などと言われたのも初めてだった。

試験で学年一番を取っても

『まだ日本一というわけではない。天狗になるな。まだまだ精進せよ』

などと言われてきたのだから。

「意地悪をする相手は、君が悔しさのあまり、やる気をなくして、落ちぶれるのを望んでいるのです。……相手の思い通りになってやることはない。いつか手の届かないほど偉くなっておやりなさい」

 
 

「目からウロコが落ちるとは、このことじゃった。

ワシはそれまで、継母にいかに仕返しをしてやるか、もしくは逃げてラクになるか……そればかり考えていたからのう。

先生が言うことはもっともだ、と思った」

「偉い先生だと思うけど、なんで好きになったんだよ。接吻はいつだよ」

将は、なかなか恋愛話にならないのに焦れて、つい急かす。

「そう急かすな。そんなわけで、ワシは先生を困らせるのをやめたんじゃ」

 
 

巌は見る間に大人しくなっていった。

本を読んでいろいろな世界に触れることが楽しくなり、ガキ大将として子分を引き連れてチャンバラをやることなどに面白みを感じなくなっていったからである。

今まで、巌は織田信長に倣って、自分のことを『おやかた様』などと子分に呼ばせていたのだが、子分は口々に

『おやかた様が出家してしまった』と囃し立てた。

だが巌はおおむね相手にしなかった。

……ときおり、それが過ぎるときのみ、こっぴどくやり込めてやったので、巌は男子からは一目置かれるようになった。

そして女子や弱い者がいじめられているときは進んで助けてやった。

そんな巌を、史絵は温かく見守った。

史絵が見守ってくれている、史絵が期待してくれている。

そう思うと、自然に学問にも身が入った。

もともと優秀な巌である。綴り方(作文)で4年・5年・6年と連続で東京市の賞をもらったほどだ。

継母による分け隔てに腹を立てることも、依然あったが、怒りの感情をうまくコントロールすることができるようになった。

自分の中の怒りを鎮めるとき、すでに巌は史絵を思い浮かべるようになっていた。

 
 

巌は、尋常小学校6年になった。ちなみに当時の義務教育はここまでである。

その頃、巌は史絵が自分にはなくてはならない人だと自覚していたが、それが恋だとは気付いていなかった。

ある夏休みが近づいた月曜日。

史絵が初めて学校を休んだ。

史絵が学校を休んだことなど、巌が3年生のときに赴任してきてから一度もなかったので、巌は心配して、代わりに教壇に立った教頭に理由を訊いた。

「何でも田舎のお母様が危篤だと、電報があったようです」

学校一いや、市で一番の秀才と評判の高い巌ゆえ、教頭は丁寧に教えてくれた。

夏休みまでに帰ってきますように、と巌は毎晩祈ったが、史絵はとうとう帰らぬまま夏休みに突入した。

夏休み、巌は祖父母の家に逗留するのが習慣になっていた。

さすがに父も、継母が巌を嫌っていることに気付いていた。

休みの間、四六時中顔をあわせるのは巌があまりに可哀想だ、ということで祖父母の家にやっていたのである。

祖父母は優秀な巌をたいそう気にいっていたから、巌は羽を伸ばし放題だった。

だが、3年までは夏休みが来るのを心待ちにしていたのだが、4年あたりからは、なんとなく寂しい気がした。

休みに入り、史絵に逢えなくなるのが物足りない気がしたのだ。

今年はとうとう、史絵が心配で、祖父母の家に行きたくない気分にさえなってしまった。

だが、継母と1日中顔を突き合せるのは気ぶっせいだから、結局、祖父母の家にやっかいになることにした。

だが、毎日考えるのは史絵のことばかりで、

――まさか、このまま会えないなんてことはないだろうか。

と心配した。祖父母が

「中学にあがったら、ここから通いなさいな。ここなら一高も近いですし」

などと提案するのも上の空だった。

 
 

2学期になるのがこれほど、待ち遠しかったことはなかった。

巌は、いつもは帰りたくなかった自宅に帰ると、念入りに夏休みの宿題などを整えた。

そして誰よりも早く学校へでかけると、用もないのに、職員室をのぞいた。

……そこに、海老茶の袴にきりりとマーガレイトと呼ばれる髪型に結い上げた史絵の後ろ姿を見つけると巌はホッとした。

史絵はなぜか他の教師に囲まれていた。

「先生……」

思わず、声をかけようとした巌に聞こえてきたのが

「何はともあれ、おめでとう」

「してお式は……」

という史絵を囲む教師の言葉だった。

史絵は……故郷で縁談がきまったというのだ。

巌は目の前が真っ暗になった。