第28話 教師と生徒の恋(2)

―――へー、そういうこと、なんだ。

男は心でつぶやくと、人ごみの中に消えていった。

   ◇

「アキラ、メシ行こうよ」将の誘いを

「ダメよ。そんなに毎週外食なんて」と聡ははねつけた。

実は、聡の経済状況はかなり厳しいのだ。なぜなら、弁当屋のバイトから急に教師になったことで、「キチンとした服」を買うのにまとまったお金が掛かった。

それから、毎日忙しいことからつい、自炊を怠ってしまい、食費もかさんだ。

かつ、疲れが累積した木曜日の朝が雨だったりすると、どうしても混んだ通勤のバスに乗ることが出来ず、タクシーを使ってしまう。

そこへ毎週、生徒へのお茶代。

毎月1万ずつこつこつと貯めてきた貯金もここ2ヶ月滞っている。

9月以来、気がつくと毎週1回は将と外食している。将は払いたがったが、聡は示しがつかなくなる、とたいていワリカンにした。

「おごるのにぃ」将はいかにも残念そうだ。
「夕食何すんの。作るの?」

「そうねえ」

そうはいってももう、19時近い。今から帰っても20時近くになる。とてもじゃないけど週末疲れで、それから作る気になどなれない。

「……お弁当屋さんで買うわ」
「じゃ、俺もそうしよーっと。そうするから、乗ってけよ。な?」

お金のない聡は、将の申し出に従うことにした。

「アキラ、何かほしいものとかあるの?」

ローバーミニの中は相変わらず狭い。でも今の聡にとってはその狭ささえ嬉しく感じるようになっている。

「え?何で?」
「だってサ……」誕生日でしょ。将は言葉を飲み込んだ。できればびっくりさせてあげたかった。

「そうねえ……」将がほしい。
ゴホッ、ゴホッ。とっさに浮かんだセリフに、聡は一人でむせた。

「大丈夫?」

ドアのほうにうつむいて咳き込む聡を将がのぞきこむ。

―――何だ、今のは!

自分で自分が信じられない聡の背中を、追い討ちをかけるように将がさすった。信号が赤になったらしい。

「風邪流行ってるから。気をつけて」

後ろめたい聡はうなづくだけでせいいっぱいだった。

   ◇

弁当屋の女将さんは入ってきた聡と将を見つけるやいなや

「あら~アキラちゃんと、山田さん!」

と親しげに声をかけた。

将は「どーも」と顔をぺこっと下げ、聡は会釈した。

「あたし、野菜弁当」
「俺、揚げ弁」

「仲いいねえ。あんたら美男美女で本当にお似合いだよ」

と女将さんはにこにこしながら奥に行った。揚げ油の前では、一瞬ご主人が晴れやかに聡を見たが、隣に将を見つけたとたん、ムスッとした顔で油に視線を戻した。

弁当屋では将はいまだに山田なのである。

それは、先日、初めて二人で弁当屋に来たとき

「あらあら。二人で……あんたたちいつのまにそういう仲に」

と女将さんは目を丸くした。誤解を解こうと聡が、

「いいえ、あの教え子な……」

と言いかけたところで将はカウンターから見えない部分にある聡の足を軽く蹴って

「教え子の兄です」と笑顔と共に付け加えた。

女将さんは「じゃあ弟さんが荒江高校に?」と訊いた。

将は「ハイ。出来の悪い弟で……」とさらにごまかす。

女将さんが「兄さんに似ればよかったのにねえ」と笑いながら奥に消えたとき聡は

「なにすんのよ、痛いじゃない」

と抗議した。将は人差し指を口にあてながら

「だって俺、前に『東大生山田』で聡の住所聞いてるんだぜ。マズイよ」

と声を出さずに言い訳した。

他の客が途切れたからか、出来た弁当と一緒に、主人が出てきた。眉毛の中の白いものは、また少し増えたようだ。

「聡、学校はその後どうだ」
「ハイ。なんとか」

主人は、将のほうに目をやった。長身の将は主人から見ると見上げる形になる。

「ま、こんな男にうつつをぬかしているようなら、仕事のほうは問題ないようだな」
「いえ……」

聡は何もいえずに固まった。でも頬だけは赤く染まっていた。

「あら、山田さんはいい男じゃないですか。ちょっとこんなコいませんよ」

と奥さんが横槍を入れる。

「オイ、山田、聡を泣かすようなことすんじゃねえぞ」

と主人が将にむかって言った。将は素直に「ハイ」と返事をした。

聡はなぜか切なくて、胸がギュッとした。

それは弁当屋の主人の愛情が沁みたのか、将の素直な返事が響いたのか。

「フン。とっとといっちまえ」

主人はお弁当代の端数を聡の掌に返した。

   ◇

「弁当屋のオッサン、こないだも、同じ事言ってたね」

弁当を受け取り、再びハンドルを握った将はつぶやいた。

「聡を泣かすようなことすんじゃねえぞ、って。……アキラ、泣いてるの」
「……ううん」

といいつつ、聡はもうなんども目から溢れる涙を手の甲でぬぐっていた。

「きったないなあ。手鼻かむなよ〜」

将は後部座席からティッシュを取って聡に手渡した。

「そんだこと、してだいぼん」

といいつつ、聡はティッシュをうけとると、ヂーン、と鼻を派手にかんだ。

「……ったく。オッサンこそ、アキラを泣かしてるじゃん」

とつぶやきながら、運転中、助手席の聡を何度も振り返った。

あんな風に、あれ以上に聡に優しくありたい。将はハンドルを握ったままフロントガラス越しの夜空を仰いだ。

都会の空の上ではカシオペアが弱弱しく光っていた。

「いつぼ、どうぼありがとう」

家につくまえに、なんとか泣き止んだ聡だが、まだ鼻をぐしゅぐしゅさせていた。

「いいえ。じゃ、またな」

本当は将は、聡の家にあがりこんで、一緒に夕食を食べようと思っていたのだが、泣いた聡に、ついそれを言いそびれてしまった。仕方なく、一人で家へと車を走らせる。

と、ガラの悪そうな少年2人が路地に入るところをローバーミニのヘッドライトが照らした。眉を剃った金髪に、だらっとしたトレーナーに腰パンを将は見た。それは別にいいが、肩を押されていた黒髪の少女は……。

将は、車を急いで道のわきに停めると、路地に駆け戻った。

雑居ビルの非常階段の分の幅しかない路地は、空き瓶用のプラケースやごみバケツで雑然としている。非常階段の下の暗がりで、瑞樹は今、少年に押されてよろけて倒れたところだった。

「瑞樹!」

将は、一人の少年に体当たりを食らわせて倒すと、すかさず向き直りもう1人のみぞおちを蹴った。

少年らはケンカ技量の差を知るとあっさり引き下がった。たぶん中学生なのだろう。

半身を起こした瑞樹は、ほうけたような顔をしている。そういえばここ2〜3日、また学校を休んでいた。制服が薄汚れている。

「大丈夫か」
「将……」

瑞樹は将にすがりついた。

  ◇

洗濯乾燥機が回り、瑞樹はシャワーを浴びていた……将のマンションである。

将は、ソファに寝転がり、テレビを見ながら、心配そうにバスルームのほうを振り返った。テレビの内容など頭に入ってきやしなかった。

さっき、すがりついてきた瑞樹を受け止めてきたとき、キツい男性の体臭のような臭いがした。

将のマンションを追い出された瑞樹は、学校を休みがちになっていた。前に、家に帰れない事情を聞いていた将だけに、少し心配をしていたが、その心配は的中しているかもしれない。

タオルを頭に巻きつけて、バスローブを借りて出てきた瑞樹を見て、将はソファから起き上がった。

ウーロン茶を手渡しながら「大丈夫?」ともう1回訊いた。

「……うん」とうなづく瑞樹。こんな風に眼力の失せた瑞樹を将は初めてみた。

「半分食べる?」将は買ってきた弁当を見せた。

「ううん、いい」
「そう……」

将はそう言われるとなぜか、自分も食べるべきじゃない気がして、ソファに腰を下ろした。お腹はひどくすいているのだが。

瑞樹は静かに将の隣に腰を下ろした。

将は、ぎくりとして反射的に立ち上がった。

「……制服、乾くまでゆっくりしてていいから」

可哀想だと思いながら、釘をさす自分を将は残酷だと自覚していた。

「……将」

将を見上げる瑞樹はあきらかに痩せた。バスローブの襟元の鎖骨が前よりくっきりと浮き出ている。

「もう一度、やり直せない?」瑞樹が再びすがりついた。