第281話 夏の終り(6)

「将?」

将の唇が小刻みに震えているのを見て、聡は立ち上がった。

「……死んでる?」

将は目を伏せたまま、ようやく口を開いた。

聡はうなづくしかない。

「……仕方ないよ。あの状況じゃ。……可哀想だけど」

そっけない口調ながら聡は将をなぐさめると、

「これ……どうしようか。ここに置いといたら、他の車に踏まれちゃうし……」

と将の腕に軽く触れた。もっとも、この交通量だったらめったに車など通らないだろうけれど。

「うん……」

さっきまでの明るさが嘘のような将だ。どうやらウサギの死体から目を離せないらしい。

動物を轢いてしまったのがよほどショックだったのだろうか。

それにしても空模様が怪しい。

「将、さっきのスコップ出して」

そう指示すると聡は小走りに車に戻り、コンビニ袋を取り出してきた。カフェオレを買ったときのものだ。

しかし将は、あいかわらず突っ立ったままだ。

「将、スコップは?」

「あ、ああ……」

2回言われて将はようやく、トランクからスコップを取り出した。

水遊びをしながら、きれいに泥を洗ってある。

「やだ。雨。急がなくちゃ」

聡が空を仰いだと同時に、大粒の水滴がボタボタと音を立てるほどの勢いであたりに落ち始めた。

暗い空はとうとう耐えられなくなって雨を落とし始めたのだ。

聡は文字通りでくのぼうのようになっている将からスコップを奪い取ると、スコップを持っていないほうの手にコンビニ袋を手袋のようにはめて、ためらいもなくウサギの死体を持ち上げた。

ウサギに外傷がなく、血がほとんど出ていないのが幸いした。小さい体はそれほど重くはない。

聡はウサギをそっと道のわきに運ぶと、笹の茂みの中にそっと置くように手を離した。

ウサギは笹の中に吸い込まれるように、すとんと落ちた。

聡はその上に枯葉や下生えの雑草をやみくもに引きちぎってかけた。

見ていた将は、それがせめてウサギの死体を葉っぱで隠そうという試みだということはわかったが、手伝う気にはなれなくて、聡のすることをずっと見ていた。

聡はコンビニ袋を手からはずすと、裏返しにして丸め、再びしゃがんだ。

そしてウサギの死体があるあたりに

「ウサギさん、ごめんなさい。せめて成仏してください」

とウサギに手を合わせた。そして将のほうを振り返ると

「いちおう、手あわせときなさいよ。……気持ちなんだから」

と教師の口調で命令した。

その間にも雨は見る間に勢いを強めて、路面は黒曜石のように黒くなってしまった。

物の形が判別できるのが奇跡的な暗さだ。

将がしゃがんで手をあわせたのを見届けると聡は、

「雨、本格的になってきたよ。急ご」

と声をかけて促した。

二人の頭も肩もすでにかなり濡れ、あたりは雨がつくる細かい縦縞に霞んでしまっている。

将はのろのろと立ち上がると、運転席に座ってキーを回した。

そこで、エンジンのかかりが悪くなっていたことを思い出す。

2回、3回、4回とまわす。

エンジンはかからず、セルのまわる苦しげな音が響くばかりだ。

セルモーターがむなしく止まるたびに、雨の音が遠くに遮断された車内は不気味な静けさに包まれた。

「かからないの?」

聡の声に答えずに将は無言でキーをまわし続ける。

こんな、ナビにも表示されていない林道の山の中、しかも雨。

もしもエンジンがかからなかったら……。

あせる将はなんとかエンジンが掛かるよう祈りながらキーをまわす。

しかし、そんな将を嘲笑うように、セルモーターの音が鈍く遅くなってきた。

「……やばい。バッテリーがあがっちまう」

将は呟くとバッテリーをついにオフにした。

ライトが消えた車内はほとんど何も見えない暗がりになった。

もはやお互いの輪郭がようやく判別できるのみだ。

将は携帯を取り出した。だが、案の定圏外であることを確認すると、将はハンドルに突っ伏した。

「……どうしよう」

「将……」

説明なしでも聡には今の状況がわかった。

「俺のせいだ……」

将の声は低かった。あいかわらず突っ伏したままだったので、聡には将が何といったのか、聞き取れなかった。

「どうしよっかねー」

それでも将がなにやら落ち込んでいるのを悟った聡は、シートにすとん、と寄りかかると、おどけるように明るめの声を出してみた。

雨はさっきよりもっと勢いを強めたようだ。

それももう、いくら目をこらしても、音でしか判別できない。

ボンネットを、天井を叩くぼこんぼこんという音でその雨が大粒だということがわかる程度だ。

「ここで夜明かしちゃおうか?」

見えないだろうけれど、せいいっぱいの笑顔をつくって聡は、将のいる運転席のほうに顔をむけた。

「俺のせいだ。……俺が、ウサギを轢かなかったら。俺が道を間違えなかったら……」

将はうめくような声で呟いた。

「将?」

暗闇の中で将の息遣いが粗く不規則になっているのがわかる。ここで聡はようやく将の異変に気づいた。

「ヒージーだって……。俺があんなことを言わなければ……」

「将、何いってるの?」

聡は暗がりに必死で目を凝らして、将のようすを見ようとした。

だが、将の顔も姿も、もはや墨汁のような闇に隠れてしまっている。

そのせいか今までに聞いたこともない、震える声と息遣いがダイレクトに聡に響いた。

「俺が……あんなことをしなければ……大悟だって……。俺の……みんな、俺のせいだ。俺がいけないんだ。俺さえ、いなければみんな……」

それは、将が心の奥底にいつも抱えていた後悔だった。

今、暗闇の中で、まるで自らを傷つけるように、一気に噴出しているのだ。

「俺が、いなければ」

「将、やめて」

聡はシートベルトをはずすと、声のほうに手を伸ばして上体を投げ出した。

聡の手はすぐに声の発信源である将のぬくもりを捉えることができた。

いったん将の体をとらえた聡は、手探りながらすぐに、将の顔を見つけることができた。

それを、ぐいっと引き寄せると、無我夢中で唇を押し付けた。

濡れた将のTシャツからは、雨と潮のまじった生臭い香りがほのかにしたけれど、聡はそれをもっと深く嗅ぐように体を押し付けた。

冷え切った将の心を、体のぬくもりで温めるように。

去年、夜の川で死にかけた将にしたように、熱い息を吹き込むような口づけに、聡は自分の気持ちを込めた。

「将……。あたしは将が必要だから……」

聡は濡れた将の髪をくしゃくしゃとかき混ぜながら呟いた。そして再び唇を寄せる。

わざとなのか、それとも唇がずれたのか、それは将の瞼に、鼻に、頬に……将の顔中に繰り返された。

……聡は視界ゼロの暗闇の中、唇と指で将の姿を確認しようとしていたのだ。

半分濡れた将の髪。耳のカーブ。太いけれど形が整った眉。長い睫に覆われた奥二重ぎみの瞼。高い鼻梁。そして唇。

ぜんぶ、聡が欲しくてたまらないものだ。欠乏すると瀕死に陥るものだ。

「あたしは将がいないとだめなの。……だからそんなこと言わないで」

低い声に似合わない、聡のせつない声が雨音の中に響く。

将は最初されるがままになっていたが、濡れたTシャツに覆われた聡の華奢な背中におずおずと手をまわした。

その温かさと弾力に、感情より先に体が先に反応した。

将の腕はいつのまにか聡をきつく抱きしめて、自らの唇を聡のそれに繰り返し押し付け返し始めた。

ギアとサイドブレーキの存在ももどかしく、二人はお互いの体を密着させようと試みた。

雨の音だけが響く真っ暗な車の中で、お互いのぬくもりと感触だけを確認するように二人は口づけを繰り返した。