第309話 恋ゆえの計算

やっと晴れたという将からのメールを、聡は職員室で見た。

青空の下、足跡ひとつなく広がるまっ白な丘の起伏、その向こうに同じく大雪山系が輝くように連なる画像と一緒に

>23日の夜には帰るからイブは一緒に過ごそう

というメッセージ。

「アキラ先生、お正月にはダンナさん帰ってくるんでしょう」

ふいに訊かれた聡はハッとして携帯を折りたたむ。隣の席の権藤先生だった。

「……あ、ハイ。でもとんぼ返り、みたいです」

あわてて、笑顔をつくりながら答える。セリフはもちろん毛利のマニュアル通りだ。

学校では……聡は、海外赴任中の婚約者との間に子供が出来て、籍を入れたことになっている。

『旧姓』で通していることになっている聡だが、通称が『アキラ先生』なのでほとんど支障はない。

婚約者のことも、この学校に入ったばかりの頃、ちらりと漏らしたことがあるので、どの先生も疑わなかったのだ。

あの頃は、まさか将のことを好きになって、博史と別れてしまうなんて思いもしなかった……。

 
 

「センセイ、お腹ちょっと大きくなった?」

「彼氏に会わなくて、つらくない?」

帰りのHRが終わったとたんにチャミやカリナたちが親しげに話し掛けてきた。

聡が妊娠して以来、おなじみの挨拶のような習慣になっている。

身近な聡の妊娠は、女の子たちには興味津々だったのだ。

体のこと、そして結婚のこと。そして相手のこと。

放課後の補習はたびたび、芸能リポーターばりのインタビューの時間になった。

体のことは、教え子たちも将来経験することだから隠さず話そうと思うが、相手のことを話すのはつらかった。

『先生の彼氏ってどんな人?』

『リーマン?』

『いつ知り合ったの?』

『プロポーズは?』

幸せならのろけるのも嬉しいようなことを……聡は嘘で答えなくてはならない。

いや、嘘ではないけれど。博史という、現実に付き合って別れてしまった恋人のことを、現在進行形として話すのは……嘘を話すよりつらい。

そのせいか……聡はこのごろ、よく博史のことを思い出す。

忙しさのあまり中国から帰って来れない『設定』の博史。

本物はいま、どうしているだろうか。

また去年の今ごろ、余命1年だった優しい博史の母親は……今もまだこの世にいるのだろうか。

聡は、それを思い出すたびに、自分の身勝手さに少し苦しくなる。

余命1年の母に孫の顔を見せたいと、聡に子供を望んだ博史。

あのときは、まるで考えられなかった子供を、まさか1年後、こうして宿すことになるとは……。

聡の心は、油断すると、運命のめぐりあわせの不思議さのままに、思い出をずるずるとたぐりよせそうになる。

「先生、この英作文添削してください」

そこへ割って入った生徒がいた。星野みな子だった。

「ホラ、みんなも勉強しなさい」

聡はチャミやカリナたちを追い払いながら、みな子が差し出したプリントを受け取る。

「……ウン、よく出来ているわ。でもここはこういう表現をつかってもいいかも」

行間に赤ペンで構文を書き添えながら、みな子の英作文がこの学校の生徒にはあるまじき優秀さであることにあらためて感嘆する。

英語に限れば、将よりもみな子のほうが成績は上だった。

「だけど、これでもバッチリよ。星野さん」

笑いかける聡に、みな子はすっと立ち上がると一礼した。

こんなとき、聡はみな子からの敵意、のようなものを感じてしまう。

そして、敵意状の空気を肌から発したみな子は、このごろハッとするほど美しいと思う。

ギャル系女子のように化粧もほとんどしていないし、ヘアスタイルも黒い髪をそっけなく2つに結んでいるだけなのに……透き通るような肌は、眼鏡の奥の黒い瞳は……聡に勝負を挑んでいるように見える。

若い子への嫉妬なのか、と聡はそっとセーターの下に隠れたお腹を盗み見る。

あのときも……みな子は聡に助け船を出しながらも、冷ややかな敵意をも発していた。あのとき……それは、聡が妊娠を教え子に公表したときだった。

 
 

つわりから回復して退院した聡は、学校に戻ってすぐのHRの時間に、自らの妊娠を教え子たちに告げなくてはならなかった。結婚したという嘘と共に。

もちろん将が撮影で休んでいる日を選んだのは言うまでもない。

そのときの生徒たちの動揺といったらすごかった。

一瞬、水を打ったように静かになり……各自の喉がごくっと動くのが何かの特殊効果のように連続して見えたほどだ。

「センセー。まさか、将の子供じゃねーだろな」

HRが終わったとたん、井口が駆け寄ってきて叫んだ。後ろにはカイトやユウタも口をパクパクさせている。

あまりの単刀直入に、聡も動揺のあまり瞬きそうになるのを……かろうじて抑える。

丸刈りの兵藤や松岡が、教科書をいじりながら聞き耳を立てているのがよくわかる。

「もー、何いってんの」

……そういわれることを予想してさんざん鏡の前で練習した笑い顔。わざとらしくないだろうか。

そんな心配を無理に飲み込む。

「だってサ。センセイ、将とデキてたんだろ」

カイトが馬鹿でかい声で叫んだ。

「デキてませんっ。ずっと付き合ってた人がいるのよ」

わざとらしく口を尖らせる。嘘をつく喉が焼けついて、声が裏返りそうだ。

井口が顎をあげて、『あー』という形に口を開けた。

彼は思い出したのだ。将と大悟と一緒に聡の実家を訪れたときに同席した男のことを。

「あの、正月に萩に来たリーマン?……先生趣味悪いな」

井口は言葉を放り出す。それは納得したようにも、聡をバカにしているようにも聞こえるが聡は何も言い返せない。

「何、ハルキくん知ってるの?先生の彼氏」

ユウタが金髪を揺らす。

「知ってる、知ってる。なーんだ、ヤルことやってたんだ。できちゃった婚なんて」

井口は少し軽蔑したように、細めた笑い目で聡を見やった。

聡は身が縮む思いだった。

実は、単なるできちゃった婚よりもっと蔑まれることをしている聡だ。

……生徒の子供を妊娠する教師なんて。

それに、井口は将と聡とのプライベートな関係も……将が聡に寄せる一途な思いも、かなり知っていたはずだ。

それで『将を捨てて博史を選んだ』聡への軽蔑を、彼は態度に表しているのだろう。

これ以上はつらい……息があがり、視線をそらしそうになる聡に助け舟が差し出された。

「もうそれぐらいにしたら? 先生のプライバシーでしょ」

星野みな子だった。……みな子は、聡が倒れたときに、その真相を職員室で偶然聞いて知っていたのだ。

みな子はクールな調子で続ける。

「できちゃった婚だって、先生はもう結婚したって問題ない大人なんだから、勝手でしょう」

なんだよ、星野サン、と斜に構えようとした井口が、思い出したように口にした。

「……そっか、将は今、星野サンと付き合ってるんだもんな」

みな子はチラっと聡に視線を走らせると、目を伏せた。

「……付き合ってるとかじゃ、ないけど」

聡は、みな子に礼を言うわけにもいかず、ただ立ち尽くしていたのだが、みな子が割って入って興ざめしたのか、井口たちは去っていった。

かわりに、チャミやカリナら女の子たちが

「先生、式はしないの?」

などと訊いてきたので、聡は少しほっとした。

そんな聡を、みな子は離れたところから見つめていた。

 
 

聡の妊娠を知って……他の男と将を両天秤にかけていた聡を激しく憎んだみな子だったが、2日も経たないうちに熱く激しい胸のうちの溶岩は急速に冷めてしまった。

冷えて固まった岩のようなごつごつした憎しみは依然胸のうちにあったが、それよりも急速にみな子の心に舞い降りてきたのは希望だった。

もはや他の男の子供を妊娠した聡である。

将がいくら愛しているといっても、また聡が意地汚く将に手を出したとしても、所詮聡は他の男のものなのだ……。

将は、いつか……近いうちに、聡のことを忘れるだろう。いや、きっと忘れるに違いない。

みな子はそのときが来るのを待つことにした。

将への思いを『一緒に大学生になる』という希望に転化し、勉強に向かった。

将がどういうわけか、芸能活動を休んで東京大学を目指しているのは、本人から聞いてみな子も知っている。

理由については、将は詳しく語らなかったが、それはどうでもよかった。

曽祖父の死が関係しているのではないか、と思っている。

事実、週刊誌などには、将の急な受験休業について、『敬愛していた曽祖父の死によって政治家の血に目覚めた可能性がある』などと

書き立てられていたからだ。

さすがに、みな子が東大を目指すのは難しかったが、東大のすぐ近くにある大学でN大やM大などみな子でも目指せそうなところがいくつかある。

将の近くで大学生になれば……いつか、自分に振り向いてくれる日がくるのではないだろうか。

みな子は、勉強に励み、少しでも将の目に魅力的に映るように自分を磨いた。

そしてうっとおしくない程度の匙加減を研究しながら、将に親切であるようにした。

すべては熱い恋情による冷静な計算であった。