第314話 クリスマスの夜、二人(2)

いつもの倍の時間をかけてたどりついた大磯でも、多少弱まったとはいえ雪が降り続いていた。

外灯や信号に照らされた夜の景色は、いつもより明るく見える。

「こんなの初めて見る」

思わず将がつぶやいたように、巌の邸宅の、巌がこよなく愛した庭木も綿帽子のような雪にすっぽりと覆われているのがわかった。

雪明りというのだろうか、夜だというのに雪自体がぼうっと光るようだ。

ガラス障子から漏れるわずかな明かりはまるで行燈のようだ。

「きれいね……」

聡は将の後ろに続くとつぶやいた。

「まあまあ、将さま、雪の中お疲れ様でした」

二人の到着を聞きつけたのか、ハルさんと西嶋運転手が引き戸を開けて転がるように出てきた。

玉砂利の庭もすっかり雪に覆われているが、玄関へ続く道だけ雪が取り除かれている。

たぶん将が来ると聞いて雪をあわてて取り除いてくれたのだろう。

「急で、すいません」

「さあさあ、寒いでしょう、お入りになって」

頭を下げながら、聡は、この二人にはお腹の子供はどう説明すればいいのか、迷った。

コートを脱げば、聡が普通の身体ではないことは、すぐにわかるだろう。

「アキラ、入ろう。……あ、いい匂い」

将が少しとまどった聡の肩に手を添えながら、鼻を鳴らした。

「いやだ、それが材料が揃いませんで。寄せ鍋ですよ」

ハルさんは謙遜したが、旨そうな匂いは明かりと共に玄関先まで漂ってくる。

さあ、とうながされて、とまどった聡は、引き戸の前で将に囁いた。

「どうしよう」

「何が?」

きょとんとした将は、せっかく声をひそめた聡に不釣合いなのんびりとした声を出す。

その声に、ハルさんや西嶋が振り返る。聡は息を飲むと、配慮の足りない将を軽く睨み

「あたしの……」

といいながら、下腹にさりげなく手を添えた。

「ああ」

将はようやく聡の心配がわかったらしい。聡に微笑をかえすと、ハルさんと西嶋に向き直る。

「あのさ。ここだけの秘密だけどさ、俺たち、結婚するんだ」

「まあ」

ハルさんは眼鏡の縁に手を添えて口を丸くあけたが、その顔には非難も蔑みも含まれていなかった。

「それは、おめでとうございます」

西嶋があらたまったように二人に頭を下げる。

「しょ……鷹枝くん」

聡はひやひやしていた。結婚できるかどうかは、まだわからない。将の受験次第ではないか。

「それでさ。俺、5月には父親になるんだ」

将は流れのいきおいのまま、ごく自然な形を主張する。

「まあ……」

しかし、今度はハルさんも西嶋も、驚いて口を真ん丸くあけた。

「じゃあ、聡さんは……将さまのお子を?」

ハルさんが口を利いたのは、しばらく経ってだ。

「……すいません」

聡は思わず下を向いた。

この二人にとって将は大切な御曹司だろう。その由緒正しい御曹司をたぶらかしたとんでもない教師であろう自分に身の縮む思いがする。

「何で謝るんだよ」

将は笑いながら、聡の肩に手を添える。

身に染みる寒い外気の中で、聡は目だけに急速に熱い涙が集まっていくのを感じた。

久しぶりに感じる罪の意識に、聡の感情は大きく揺れたのだ。

「……そうですよ。おめでたいことですよ」

ようやく聞こえたハルさんの声に顔をあげた聡の瞳から、涙がぽろんと落ちた。

涙はこぼれたとたんに冷えて、頬に冷たい軌跡を残した。

ハルさんの眼鏡の奥の瞳はあたたかだった。

「……こんなところにいるのは体の毒です、早く中にお入りください」

西嶋が促す。

二人とも、聡を咎める様子はなかった。ただ聡を気遣うべく、温かい瞳でみつめていた。

「すいません」

そんな温かさに、聡の涙は止まらなくなってしまった。

「アキラ、何で泣いてんのさ。早く入ろう。ケーキが凍っちゃうよ」

将は駅前で買ったケーキを西嶋に渡すと、聡の体を抱きかかえるようにして引き戸の中に入った。

 
 

「ふう。腹いっぱい」

将は、ついに箸を置くと椅子によりかかった。そんな将を見て、ハルさんと西嶋、そして聡が微笑む。

この古いうちにくると、将は少し子供返りするようなのだ。

ハルさんと西嶋は固辞しようとしたのだが、せっかくだからと一緒に鍋を囲んでいる。

「聡さん、足りました?お腹に赤ちゃんがいるんだから、たくさん食べないと」

食後のほうじ茶を準備しながらハルさんが聡に訊く。

巌の畑でつくった野菜に、急遽集めたらしい魚介類を入れた寄せ鍋はハルさん特製のダシが素晴らしく美味しかった。

4人でもかなりの量があったはずなのに、最後に入れたウドンまですっかり食べ尽くしてしまった。

「はい。もう充分に」

聡もようやく、心から微笑むことができた。

巌にかしづいてきたこの二人が、将が選んだ聡を心から歓迎していることがわかったからだ。

それほど温かい、こころづくしの食卓だった。

シャンパンは暖炉でと言っていた将だったが、ここでみんなで乾杯した。それはそれで、楽しいものとなった。

「少し、腹ごなししないとケーキは無理だな」

将は大儀そうに腹をさすった。まるで将が妊娠しているような仕草に聡は口元を緩める。

「こんな雪じゃなかったら、ミサを見にいけたのに残念ですね」

ハルさんはほうじ茶を淹れながら古い柱時計を見た。

「ミサ?何それ?」

「いえね。教会でクリスマス・ミサがあるんですよ。このあたりの子供たちが、教会に集まって賛美歌の練習していたんですが、それはそれはきれいな歌声でねえ。ぜひ見に行きたかったんですけど」

西嶋の解説に、聡が興味深い顔をする。

「教会って、小学校の近くの?」

「はい。9時からとのことですが。この雪じゃあね」

将も柱時計を見た。ちょうど9時になるところだ。

「アキラ、ちょっと行ってみる?」

「え」

聡は、長い睫をしばたいた。頬が輝いているのは、行きたい証拠だ。

「将さま、外はまだ雪が降ってますよ」

ハルさんがとんでもない、と眉を寄せる。西嶋は、呑んでなかったら私がお送りできたのに、と舌打ちした。

「でも俺が通ってた小学校の近くだし。すぐ近くじゃん。あったかくしていけば大丈夫だろ」

食い下がる将に、聡は同意の視線を送った。

こんな寒い夜なのに、聡はなぜか、表に出てみたかった。将と二人で歩いてみたかったのだ。

「では、せめてタクシーをお使いください」

責任感の強い西嶋が提案したせいで、歩けばたかだか10分ぐらいの距離にタクシーを使うことになってしまった。

 
 

「みな子、遅かったじゃない」

帰宅したみな子に、母親が咎めるような声を立てた。もう9時すぎている。

真面目なみな子だから、この時間の帰宅は極めて珍しかった。

「ごめん。友達んちで、勉強してたから……」

みな子は小さく言い訳する。本当は、勉強なんかしていなかった。

将と聡がまだ続いていたこと。そしておそらく……聡のお腹の子の父親は将だ、ということがわかってしまいショックを受けたみな子は、呆然としたまま、山手線に揺られていたのだ。

雪による視界不良で遅れ気味の山手線のシートに腰掛けたまま、何周も。

クリスマスイブ、そして週末の今日、乗客は次々に乗っては降りて……みな子がずっと座りっぱなしだということに誰も気付かなかった。

沿線のネオンやイルミネーションを窓に映しながら、東京を巡るメリーゴーラウンドと化した列車の中、人々は楽しそうに浮き立っていた。

そんな人々の中で、沈んだみな子の表情はかなり異質だった。

しかしそれぞれの幸せしか見えていない今日の乗客である……いや気付いたとて手をさしのべるはずもないのだけれど。

「ごはんは?」

「いい。いらない」

母親を振り切ってリビングダイニングを突っ切って足早に部屋に引っ込もうとするみな子を、なおも父親がその名を呼んで引きとめる。

みな子は立ち止まるしかない。

「何?」

さもめんどくさそうに訊き返す。

「大事な話があるんだ。ここに座りなさい」

父親の重い口調にみな子は仕方なくダイニングテーブルに腰掛けた。

今度から高校生になる弟のヒロトもいる。父親に目で促されて母親も加わった。

考えてみれば、一家でこんな風に集まるのは本当に久しぶりだった。

なのに、どことなく緊迫感が漂っている。クリスマスらしい楽しさはまるでない。

「みな子。ヒロト。お父さんは、4月から大阪に転勤になる」

あらかじめ知っていた母親を除いて、二人の子供は目を丸くした。

「大阪ぁ?」

ヒロトが思わず声をあげる。

「本当は1月から大阪勤めなんだが、あまりに急だから、3月までは出張で対応することになった。それで」

父親は二人の子供の顔をかわるがわるに見つめた。

「二人とも関西の学校を受験しなさい」

みな子は息をつめて、父親の顔を見つめていた。

否。視線は父の顔に固定していたが、心は違うところを見つめていた。

さっき、列車の中で……将と一緒に大学生になる夢が、大きく揺らぐのを、ただ見つめていたみな子は……今度はそれが崩れていくのを感じていた。