第322話 計画(1)

年末の東京は暖かいよい天気が続いた。

クリスマスに降ったドカ雪は、戻ってきた陽射しによって見る間にその嵩を下げていった。

日陰にこびりついたように残った雪も、30日にはすっかりなくなってしまっていた。

 

27日からの図書館開放にやってくる生徒は意外に多かった。

2クラスある3年のうち確実に1クラス分は毎日通っていた。

自宅で単独で勉強するよりも、皆がいたほうが励みになるということだろう。

「だってえ。家にいると、ネットとか携帯とかゲームとかついやっちゃうんだよねー」

女生徒のセリフに聡はなるほど、と思った。自分が受験のときにはなかった誘惑に生徒はさらされているというわけだ。

「予備校サボってこっち来ました。だってこっちのほうが先生に直接教えてもらえるし」

なんて子もいて聡は苦笑する。

わざわざ高い代金を払った予備校より学校の図書館のほうがいいというのだ。

「予備校って、かなり出会いの場になってるよね。うちら真面目だからこっちで勉強してるしー」

そういうチャミ&カリナも予備校には適当に顔を出して、こっちで勉強している組だ。

もともと進学希望じゃなかったはずだが「受かれば大学行くのもいい」という方針に変わったらしい。

そういうにわか受験組が増えたせいか図書館は活況を呈していた。

 
 

将は……一人でもくもくと生物の問題集を解いている。

センター試験まで1ヶ月を切った今、必死で詰め込みをやっているらしく、将の目の下にはクマが出来ている。

25日からは、毎晩メールと電話を使って、英語の特訓をやっている。

それは2時間の予定だったが、集中するあまり3時間になっていることもあったが、将はいたって真面目だった。

甘いささやきなどは一切まじえず、将は英語に集中していた。

聡との特訓が終わった後も寝ずに、記憶教科の詰め込みをやっているとう。

その個人授業の際に、聡は睡眠時間を訊いてみたことがある。その答えは

「最近は1時間30分かな。仮眠しかとらない」

と聡を驚かせるものだった。

「体壊すよ」

心配する聡に

「だって撮影が始まったら、無理できないし」

そう答えた将。こうして図書館で遠目に見てもあきらかにやつれている。

年があけたら、スタジオでの撮影があるとかで、睡眠を確保しなくてはならなくなる。

「だから、今が無理のしどきなんだ。大丈夫だよ」

そういうと将は『次の問題、メールして』と笑った……。

 
 

わき目もふらず受験勉強に集中していた将だが、今日は少し違う。

午後になると将はボソボソとカイトと話し始めた。

学力で劣るカイトに将が教えてやっているのかと思ったがそうでもないらしい。

カイトは、松岡の座っている席に移動すると、またなにやらボソボソと話している。

松岡は真田由紀子ら女子のところに……。と図書室がなにやらさわさわとしだした。

注意するべきか、聡は迷ったが

「先生……」

と英語の質問を持ってきた生徒がいたので、そっちに気を取られる。

 

「こういうとき兵藤くんがいないのは痛いな」

将はエンピツを持ったままの手で頬杖をついて呟いた。

「いちおうメールしたんだろ」

と、カイトが赤毛を揺らした。

「でもさ、あいつ寿司屋づとめが今日で終わったら、実家に帰るって。井口は?」

「こっちもわかんない。なんか、彼女のところに行くとか、来るとか……」

「ああー。名古屋のパン屋だかの。うまくいってるんだ」

井口に彼女らしき人ができた、という話の続報を聞くべく将は身を乗り出した。

「ちゃうちゃう。名古屋じゃなくて長野。……そういや星野さんは?ずっと顔みないけど」

井口の彼女話はカイトもそれほど知らないらしく、彼は話題を星野みな子に移した。

そういえばみな子は、意外なことに、図書館開放に一度も顔を出していなかった。

「予備校行ってるのかなぁ?メールしてみるよ」

と、そのとき、将と少し離れたところで甲高い声がした。

「いいじゃん、OK」

と大声を出してしまったチャミは、ハッとして首をすくめるようにしてあたりを見回した。

しかしすぐに相棒のカリナと誘い合って席を立つと、他の生徒を指導している聡のところにニコニコと寄ってきた。

「先生さ、お正月はこっちにいるんだよね」

唐突にいつものタメ口で話し掛けてきて、聡は思わず

「そうだけど?」

と二人を見上げた。

「あのね、元旦にみんなで合格祈願に初詣しようって言ってるんだけど、先生も一緒に行こうよ」

将は耳をダンボにしてチャミ&カリナと聡のやり取りを聞いていた。

心の中で『おい、先生の安産祈願もかねて、というのを忘れてるぞー』と叫んでいる。

「みんなって?」

「んとー、うちらとぉ、ユキちゃんとぉ……」

チャミは図書室に居合わせたメンツを見回しながら、順繰りに名前を挙げていった。

その名前の中に将が含まれていて、聡は発案者がわかった。

横目でちらりと将を見やると、将は問題集に目を落とすふりをしながら、髪をかき上げたその手にピースサインを一瞬作った。

「ダンナさんも連れて来ようよ!」

「みたい!アキラ先生のダンナさん見たい!」

ふいにチャミとカリナがはしゃぎだした。

事情を知らない生徒たちの、皆興味津々の視線が聡に集まる。

将はひやひやして聡を覗き見た。

だが、聡は平然と「わかった。来れるか訊いてみる」と答えていた。

 
 

人気のある講師の英語の講義は、すし詰め状態だった。

もっとも、みな子が勉強に身が入らないのは、後ろのほうの席だからではない。

クリスマス以来、みな子の学習意欲は著しく低下している。

正直なところ、もう受験なんかどうでもよかった。

突然の父の転勤で、みな子は関西の大学を受けることを余儀なくされた。

東京に、行きたい大学がある。

みな子はそう訴えた。行きたい大学というのは、両親に対するせいいっぱいの嘘だ。

本当は将のいる東京の大学に行ければいい。それがみな子の願いだった。

だが、両親はみな子が一人で東京に残ることを許さなかった。

「どうして?私、一人でいても真面目に頑張るよ?」

みな子は食い下がった。

「でも女の子が一人でなんて……」

そういう母親を制して父親が口を開いた。

「お前が真面目にやっていけるのは、お父さんはわかってるよ。だけどな……みな子。うちには、お前を一人暮らしさせてやるゆとりはないんだ」

――そんな。

みな子は言葉を飲み込んだ。それはみな子にも分かっていた。

マンションのローンを抱えた中流のサラリーマンが、娘を4年間、東京で一人暮らしさせてやるほどのゆとりをもてるはずもない。

みな子は、黙るしかなかった。

 

今、みな子のノートの上には、予備校の英語の講義とは関係ない10×12×4という数字が書いてある。

ここ数日、みな子は毎日のようにそれを計算してはため息をついてばかりいる。

15×12×4は10×12×4になっても480という数字にしかならない。

480万。

もちろん10万で暮らせるはずもなく、どんなに安い部屋に住んだとしてもみな子はバイトを強いられるだろう。

それに大学に納める授業料をあわせると、どうしても800万にもなってしまう。

国公立に進んだとしても……600万。

それにみな子の下にはこれから高校に進む弟もいる。

それを考えると……みな子の小さな夢――東京で将と一緒に大学生になる――は、どうやっても叶えることは不可能という結論になってしまうのだ。