第329話 初詣(2)

だいたい揃ったようなので、一同は境内へと歩き始めた。

元旦の境内はなにしろ人がすごい。20人ほどの一行は、小グループに分割されながら人波に乗って拝殿へ進む。

こんなとき将や井口のような背の高い生徒は皆の目印として役に立つ。

いつもは芸能人ということで、人目から隠れるようにしている将ではある。

だが今日はクラスメートたちが取り囲んでいるのと、あたりの人は初詣という目的があるせいか、人目を集めながらもそれらが将へ殺到することはなかった。

「なに、井口くん、本格的にパン屋さんになるの?」

「まだダンスも諦めたわけじゃねーよ」

将の茶化した質問に井口はややムッとして答える。

だが、傍らのさやかの視線を感じたのかあわてて

「や、でも。パン屋もおもしれー。マジ、おもしれー。そうだ、パンのワールドカップってのがあるの知ってる?」

「知らない」

「あるんだわ、これが。俺らが夏に行った研修の講師が、優勝してんの。世界で、だよ。すごくね?」

引きこもりの兄がいる家をひたすら嫌う井口は、この夏休み、バイトしているパン屋の主人の勧めのままに岐阜県の高山市であった新人職人向けの研修に参加したのだ。

さやかと知り合ったのもそこで、である。

「へー」

「本場のフランス勢を押さえて、日本の職人が優勝するのってすごいことなんですよ」

口を挟むさやかに、井口が嬉しそうな顔を見せる。

さやかの表情に一喜一憂しつつ必死の井口を見て、将は可笑しくてたまらない。

それと同時に聡と近づき始めた頃の、自分を思い出して懐かしくなる。

最初のデートはドライブだった。

自分の車に聡を乗せただけで、とても幸せだったけれど。

聡を好きな将が投げたボールが、ただ返って来るような会話が続く。

そんな中、たまに聡の方から会話のボールを投げてくるだけで……たまらなく嬉しかった。

聡が自分の車の中で、自分に向けて言葉を発した。

ただそれだけなのに。

受け容れられたような気がして……天にも昇る心地だった恋の始まりを将は甘く思い出す。

それを今、井口も味わっているのに違いないのだ。

 
 

聡は前の方を歩く将の頭のあたりを見ていた。

聡のまわりには、初期の頃から補習に参加していたまじめな生徒たちが集まっていた。

いま聡のとなりを歩くのは、いったん実家に帰ったものの、初詣のために、わざわざ東京に戻ってきた兵藤だ。

「兵藤くんは卒業後も海潮寿司で修行を続けるの?」

「はい。卒業したら昼間も修行できるので、仕入れの勉強がしたいです」

兵藤は午後の陽射しに目を細めながら答えた。

出会って1年以上たって……この子も少し背が伸びた、と聡は少しのびた丸刈り頭を見る。

「キャッシュバックは何に使うか決めた?」

無事卒業できるともらえるキャッシュバック。

遅刻も欠席もせず、赤点もとらなかった兵藤はほぼ満額のキャッシュバックがもらえることになっているのだ。

「まだ……。親方からは、いつか必要になるから大事にとっとけ、と言われました」

「そうね。お店出すときとか必要だもんね」

兵藤はうなづきつつ問い返す。

「先生、僕らの卒業のあとは、だんなさんについて外国に行っちゃうんですか?」

とっさに、どう答えていいか言葉に詰まる。

まわりにいた松岡や真田由紀子らも皆、聡の顔をのぞきこむようにしている。

その猶予のない状況に聡は、うなづくしかない。

「そうですかー。そうですよね……」

兵藤は少し肩を落とす。そんな様子を見て、聡は胸が苦しくなる。

外国には行かないけれど……自分はこの子たちに酷い裏切りをしているのではないだろうか。

同じクラスメートの将の子を孕んでいると知って、この子達は何を思うだろうか。

「赤ちゃんも、外国で生むんですか?」

何も知らない真田由紀子が、心配そうに聡の顔をのぞきこむ。

聡の気持ちに反応して、お腹の中が少し動く。胎児もうなだれたのだろうか。

――この子を生むとき、自分はどこにいるのだろうか。

そして将は一緒なんだろうか。

わずか4ヶ月先のことなのに、何も見通せない聡はただ

「わからない」

と答える。あわてて「どうしたらいいか、二人で考えてるの」と明るく付け加える。

考えても答えは今は決してわからないのだけれど。

生むことに決めてしまったこの子を、健やかにこの世に出してあげることと、将の幸せのために毎日できることをするしかない。

自分と結婚するにせよ、できないにせよ、東大に合格することは将のためになる。

拝殿の前に来た聡は、厳粛な気持ちで500円玉を賽銭箱に入れる。

将の合格と……初めての教え子たちの今後の幸せを祈念して。

 

お参りが終わると、皆一斉におみくじを買い求めた。

まるでこっちが本命のような大騒ぎである。

凶が出たらショックだの、逆にめったにないから縁起がいいだの口々にいいながらおみくじを引いていく。

聡もせっかくだからと引いてみた。そんな聡に将がさりげなく近寄ってくる。

「アキラ先生は?……すっげ、大吉じゃん」

聡のおみくじには『願い事……叶う 結婚……良縁あり。慎重に選べ』なと概ねよいことばかりが書いてあった。

将は『出産……安し』をこっそり指差すといたずらっぽく笑った。

「鷹枝くんは?」

「末吉。あんまよくなかったけど、気にしないしー」

将は歯を見せて微笑んだ。いち生徒としての顔だけで、みな子や井口たちのもとへ戻っていった。

あまりベタベタするとよくない、と聡にさんざん言われているからだ。

 
 

「ところで将」

ひいたおみくじを囲いのような紐に結んでいる将に、ふいに井口が声を掛けてきた。

そのまま肩を抱くようにして柱の陰に連れ込まれる。

小春日和の境内に慣れた目は、柱の陰を真っ暗に見せた。

徐々に復活したコバルトの視界の中に映った井口の目は、鋭いものだった。

顔を寄せて、ひそめた声が低いところから何かよくない知らせらしい。

一緒にいたみな子とさやかは、お守りを選んでいる……その隙を狙っていたらしい。

「前原くんが出所してる」

元クラスメートで、昨年覚醒剤所持と恐喝・婦女暴行未遂で逮捕された前原茂樹――。

久しぶりに聞く名前だったが、将はその隈取をしたような目を即座に思い出した。

凍るような夜の川に投げ込まれた記憶と共に。

「前原が?」

井口はうなづいた。無精ひげが伸びた顔は、陰にいるせいか蒼ざめて見える。

前原とは昨日、カウントダウンイベントに参加したときに、街でばったり会ったという。

「少年院ってこんなに早く出所できんの?」

まだ逮捕されて1年と少ししか経っていない。

「知らねーけど、初犯で未遂だからじゃね?保護観察チューとか?俺はシカトしたけど……、お前は気をつけたほうがいいんじゃない?あいつ粘着だし」

気をつけたほうがいいというのは、言われなくても反射的に理解していた。

しかし、もはや生きている場所も違うし、それに前原とて更生しているのだろう。

……そう思い込もうとした将だが、心に不快感がしみ出してくるのを防ぎ切れない。

思わず顔をあげると、温かい陽射しの中に聡の横顔を探す。