第332話 口づけのあと(1)

反射的に、聡は駆け出していた。今来た方向へ。

人波をかいくぐるように走る、走る。

色づき始めた駅前のネオンが後ろに流れていく。

聡は後ろもみずに、膨らみだしたお腹が揺れるのもかまわず走って……気がつくとホームにいた。

荒い息とともに、膨らみ始めたお腹が上下する。

自分は、いったい何を見たんだろう。

横断歩道の向こう側。振袖姿のみな子に、口づけする将。

見まちがい?見まちがいだ、きっと。それか、良く似た他人。

聡の理性は、それを『まちがい』として片付けようとやっきになって働いた。

だが……目をつぶると……瞼の裏に焼きついているその映像は消しようがない。

桃色の振袖姿の若い女に、顎を傾けるようにして唇を寄せる背の高い男。

見慣れたダッフル。それに何より……首にぐるぐる巻きにしているマフラーは、聡が編んだややふぞろいな編み目だ。

まっ白になった頭の中で、その映像だけが鮮明に何度もリピートされる。

「大丈夫ですか?」

聡はハッと顔をあげた。

無意識のうちに、電車に乗り込んでいたらしい。

棒につかまって立っていた聡の前に座っていた女性が、心配そうに聡の顔を覗き込んでいる。

聡の表情も顔色も、よほど悪かったらしい。

女性の隣に座っていた男性が立ち上がると、「どうぞ」と聡に席を譲ってくれた。どうやら夫婦らしい。

大丈夫です、と遠慮しようとした聡だったが、お腹に視線を感じる。

夫婦そろって聡のお腹と顔をかわるがわるに見つめてにこにこしている。

断る方が不自然な状況になってしまい、聡は好意を受けることにした。

シートに落ち着いたおかげか、お腹の子供がまだ動いていることに気付く。

聡と一緒に走っていた胎児は、いまだ止まりきれないように活発に手足を収縮させているらしい。

……妊婦だというのに無茶な走りをしてしまった。聡は反省をこめて、そっとお腹を撫でた。

今は何も考えたくない。

聡は下腹に手をおいたまま、身も心も電車の揺れに任せるしかなかった。

 
 

「みな子?いったいあなた、どこにいるの」

電話の主はやはり母親だった。横浜の祖母宅……正確には母の兄にあたる叔父宅に祖母は同居している。

着物を着せてくれたのもこの祖母だが、そこに昨日からみな子の一家は泊まっているのだ。

夕方になっても戻らない娘を心配して携帯に電話してきたのだ。

「……ごめん。勉強したいから、今日はおうちに帰る」

「そんな、みな子」

抗議しようとする母を、「電車の中だから」といってみな子は一方的に電話を切った。

さすがに元旦だけあり、この時間にしては乗客は少ない。

みな子は携帯を握り締めたまま、シートにぼんやりと腰を下ろして、寒々しい色に照らされた電車の床を眺めていた。

 

一瞬の出来事だったと思う。

みな子は、生まれて初めて、人の唇の感触を、唇で味わった。

……はずなのに、くっつけたその感触は、突然すぎてまるで覚えていない。

鼓動も至福感も恥かしさも、何もかもすっ飛んでいた。

ただ、至近距離にいた将を、熱いと感じていた。

時間の感覚がない。その口づけが長かったのか、一瞬だったのかそれもさだかではない。

やがて……傾けた顎を戻すようにして、将はそっと唇を離した。

――キスって。そうか、こんな風に顔を傾けるから、鼻がぶつからないんだ……。

途切れていたせつない感情。漠然と……それだけが戻ってきた。

鷹枝将にキスされた。

せつなさに呼ばれるようにして、心臓が大きく拍動を始める。

鷹枝将にキスされた。

動き始めた心臓に体中の血が熱く駆け巡る。

鷹枝将にキスされた。

脳天に達した熱い血液はのぼせたように思考を邪魔する。身体がただあったかくてふわふわする。

しかし、せつなさとふわふわした身体が、幸福感に到達する前に

『ごめん』

みな子は将の声を聞いた。ハッと我に帰ったみな子は将を見上げる。

『ごめん。本当にごめん。そんなつもりじゃなかった』

将は今までに見たことないほど動揺していた。

みな子と目をあわせないように……顔を逸らしたまま、しきりに詫びの言葉をつなげる。

その、ほとんど後ろ向きの斜め45度になった耳のあたりには、とまどいと後悔しか見つけられず……そのとき、みな子は初めて傷ついた。

――何で謝るの……。

哀しさは、再びの涙を連れて来そうになる。

みな子は辛くもそれをこらえた。

夜風が、目頭から鼻の奥にツンと沁みて……みな子は、黙って将の傍を離れるしかなかった。

 
 

期待していなかった、と言えば嘘になる。

もしかして将が……追ってくる。名前を後ろから呼んでくれる。

諦めながらも、みな子は襟足の端っこに希望を残しながら……惨敗した。

いま、みな子はたった一人で電車に揺られている。

涙も心で貼り付いたように乾いて、もはや出てこない。

 
 

誰もいない自宅マンションは、冷え冷えとしていた。

早いところ着替えて、何かコンビニに買いに行こう――。

窮屈な着物を脱ぐべく和室に入ったみな子の携帯がメールの着信を伝える。

もしかしたら将では、と期待してしまう自分を、みな子は自嘲する。母だった。

 >うちには衣紋掛けがないから、着物は洗濯紐に掛けて吊るしておきなさい。

みな子は思わず自嘲を鼻先に漏らした。

この振袖だって。……わざわざ着て横浜から出てきたのは、将に見せたかったからだった。

本当は、元旦の今日の集まりに出るつもりはなかった。

教師と生徒。禁断の関係なのに……秘密裏に子供を産ませるほど、固い仲の将と聡。

そんな二人をまのあたりにするのは、つらい。

対して、卒業したら関西に行く自分。

未来永劫、将の人生と、自分の人生が交わることはないのだ。将の人生に関係ないのは自分のほうなのだ。

そう思っていたみな子だったが、今朝、祖母に振袖を着せてもらった自分を見て、将はこの姿を絶対に見るべきだと思った。

薄く化粧をし、制服とは違う姿の自分を見て、将は何というか。

それを確認したい、とみな子は願ったのだ。

 
 

みな子は洗濯紐を探すべく、クロゼットの扉をあけた。

開けたクロゼットの扉からあらぬ色が飛び込んできてみな子は振り返った。

自分が身につけている振袖の桃色だった。

『これは、すごくいいものなんだよ』

着付けた祖母は、うっとりと呟いた。

100万は下らない……そんな着物の価格を聞いたとき、そんな金があるのなら、こんな着物ではなく、東京に残る資金にあててほしかった……みな子は未練がましくもそう思ったものだ。

しかし、仮に東京に残ったとして何になっただろう。

鏡に映った振袖の長い袖は、柔らかいくせにどこかメタリックな重い光沢でみな子を射抜いた。

下から見上げていった袖の先に、着物より一段紅い色で、自らの唇があった。

初めて口づけを交わした唇。

将とあわせた唇――。

みな子は鏡を背にすると帯を勢いよく、ぐい、と前にまわした。

固い帯は一度緩むと、重い感触を残して畳に落ちて、みな子を一気に解放した。

締め付けられていた身体が解放されると同時に、乾いていた涙も、また込み上げてくる。

幾重にも巻いていた紐をすっかり解いてしまうと、桃色の振袖を肩から落とす。

重い絹の着物は、まるでみな子の身体に未練を残すように、肩から腕をなぞって落ちていく。

涙も頬をなぞって落ちていく。

自分を包んでいた桃色が、畳にすっかり滑り落ちたとき……みな子は襦袢姿のまま、その場に突っ伏すと、声をあげて泣いた。