第338話 スキャンダル(3)

勉強が一段落ついて、鉛筆を置いた将は、窓ガラス越しに通りをうかがった。

さすがに夕方に差し掛かったせいか、ここから記者の姿は見えない。将はほっとため息をついた。

今朝は朝のワイドショーかテレビカメラまでやってきて、大変な騒ぎだった。

おかげで、小学校の登校時間にさしかかった孝太は、裏口から直接ガレージに行くハメにさえなったほどだ。

 

喉が渇いた将は、階段を降りた……キッチンには家政婦さんがいる。

孝太の小学校で父兄会があるとかで、純代は出掛けたのだ。

名門私立だけあって、たびたび父兄会が催されるらしい。

「将おぼっちゃま、お茶になさいますか? それともおジュースで?」

家政婦さんは将に素早く気付くと、気を遣った。

本当は自分で淹れたかったが、かえって面倒なので『紅茶。ダージリン』と頼んだ将は

「で、まだ、いるの?」

と玄関のほうを顎でしゃくった。記者連中がまだいるか、という意味だ。

家政婦さんは大げさに眉根を寄せた。

「さっきは午後のワイドショーで玄関が映ってましたのよ。おかげで騒がしいこと騒がしいこと」

「ふーん」

将は再び、そこにあった新聞をめくると、あらためて自分の記事の見出しをマジマジと眺めた。

ドラマの初回放送日は、もうあさってだ。

確かに、テレビ局にとってはいい宣伝になるんだろうな、と将はため息をついた。

この段階で……将は、週刊誌の記事そのものは目にしていなかったのである。

「ね。緒方さん」

薫り高いダージリンの紅茶を運んできた家政婦に、ふと思いついて将は声を掛けた。

「この週刊誌、買ってきてくれない?」

「おぼっちゃま、そんな雑誌。お勉強の邪魔になりますよ」

家政婦は、眉をひそめた。

「自分のところを見るだけだからさ。……やっぱ、どんなことが書いてあるか気になるじゃん。ね?」

家政婦は「でも、まだ記者の人が……」などとさんざんごねた末に、ようやく買いにいってくれた。

その週刊誌をリビングのソファでめくった将は……思わず立ち上がった。

転がるようにして階段を駆け上がり、携帯を掴み、聡の番号を押す。

つながるまでの間、血の気がザーッと音をたててひいていくのを感じた。

ヤバい。

聡に見られて困るのは、大きいほうの……○○谷詩織との2ショット写真ではなく。

むしろ、それに重ねられるようにしてあった、小さい方の写真……つまり、みな子とのキス写真だった。

みな子の顔は隠れているが、あの日、聡はみな子の振袖を見ている。

モノクロ写真でもたぶんわかってしまうだろう――。

体中がドクン、ドクンと揺れる中、コトリ、と回線がつながった。

『この電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため……』

という無機質なメッセージ。

もう一度掛けなおす。結果は同じだった。

将は唇を噛み締める。……あとは祈るしかない。

――どうか、あの記事を、聡が目にしていませんように。

と、ふいに、置いた電話が鳴って、将はびくっと身体を震わせた。

みな子だ。

週刊誌の件だろうか。

将は恐れながらも……なかば覚悟を決めて通話ボタンを押した。

「みな子……」

「大変なの」とみな子の開口一声が将が呼びかけを遮った。

もしもし、も言わなければ将の名前もよばなかった。

みな子は、周りを意識しているのか、ひそめた声で、続けた。

「アキラ先生が、さっき、救急車で運ばれていったの」

将は、高いところから突き落とされたような錯覚を覚えた。

 
 

――聡、しっかりせい!

右手が温かいものに包まれているのに気付いた聡の意識は、ようやく暗いところから明るいところに浮上して……ふいに現実に戻った。

瞼を開けたものの……視界はまだ、ぼんやりしている。

誰かが聡を見守っているのはわかるが、それが誰か、おぼろげな輪郭しかわからない。

「聡、気がついたか」

声の主は、聡の右手を握りなおした。

この手の感触は、声は、将ではない。でも、どこかで聞いた……聞きなれた声。懐かしい声。

焦点はゆきつ戻りつして、ようやく合った。

そこにいたのは……高校のときに仲がよかった同級生の秋月泰雄だった。

聡の右手をしっかりと握り締めていてくれたのは、秋月だったのだ。

「秋月……」

聡は、秋月がどうしてここにいるのかわからなくて、とまどった。

次の瞬間。重要なことを思い出して、ガバ、と跳ね起きる。

「赤ちゃん!」

「聡! 大丈夫やけん!」

秋月に制される前に、聡は自分のお腹のふくらみを確かめる。

まだ、ある。

「赤ちゃんは?……赤ちゃんは大丈夫なの?」

「大丈夫やけん。落ち着いて。ちゃんと生きちょう……まだ点滴中なんやけん、寝とらな」

秋月は聡の肩をそっと包むように支えると、優しくベッドに横たえた。

「胎盤が少しずれてるんやって。それで溜まった血が一気に出ただけっちゃ」

「胎盤が……」

「そ。でも、ちょっとだけやけん、問題ないって。それと貧血」

「貧血……」

「聡、昔からよく貧血おこしちょったやろ」

秋月は聡の顔の真上で笑顔を見せた。それでようやく落ち着いた聡は、問うことができた。

「秋月……、どうして、ここに?」

「萩の観光PRで昨日から来ちょう……。今日は、少し時間ができたけん、聡に会いに来たんやけど……びっくりさせるなよ」

秋月は冗談めかして笑った。

「ごめん」

「でもよかったよ……」

秋月の言葉はそこで止まり、傍らの椅子に腰掛けた。

あきらかに、それを訊きたくて……でも、本調子じゃない聡の手前、我慢している。

聡の顔と膨らんだお腹とを交互に見比べる秋月の視線で、それは聡にもよくわかった。

そう、秋月は昔から、優しかった。

でも……自分からそれを言い出すのを憚られた聡は、少し秋月の優しさに甘えることにした。

 

「わざわざ、観光のPRで東京に?」

「そ。知っちょう?東京には萩大使館てのがあって……」

秋月はしばらく、萩の観光PR戦略などを面白可笑しく話してくれた。

ちなみに旅館のほうは、正月が終わって一段落したとのことで、妻の綾と両親でなんとかなっているらしい。

こうやって話している秋月は、大人の様で……生き生きしている瞳は、高校生の頃と変わらなかった。

中学3年から高校3年まで一緒のクラスだったあの頃と。

「ね。高校んときも、秋月……こうやって付き添ってくれたよね」

「ん。保健委員だったしな」

聡が持ち出した思い出話を、秋月はすぐに思い出したらしい。

あれは、高3の6月だった。じめじめとした……梅雨の頃。

貧血を起こして倒れた聡は、保健室にかつぎこまれたのだ。

同じ思い出を、すぐに取り出せる人がいる。聡は、心がほんのり温かくなった。

倒れた聡を、保健室で見守る秋月。

聡が一番いてほしかった……当時、付き合っていた東悠樹はいない。

……聡ではない女生徒と相合傘で校門を出る東を……聡は目撃してしまったのだ。

生理中だった聡は、目の前が真っ暗になって……倒れた。

 

「そのあと、東と秋月が大喧嘩してたって聞いた」

「ああ……知っとったん。恥かし」

秋月は照れて首の後ろに手をやった。そんな仕草をすると高校時代の面影がより色濃く出る。

聡と付き合っているくせに、他の女に手を出した東を怒って、秋月と東はとっくみあいのケンカになったのだ。

かたやサッカー部の人気者。かたや市内……いや山口中に名前が知れたバンドのイケメンベース。

幸い先生が来る前に、まわりの者が止めたが、そんな二人のケンカは学校中の噂になった。

「でも、あのあとまた、うまくいったんやろ。俺バカやー」

秋月は明るく笑った。

聡は何も言わずに微笑んだ。

本当は……もうとっくに聡と東はダメになっていた。

二人の気持ちは離れたまま、卒業まで惰性で……抱き合っていたにすぎない。

3年になって私立クラスと国立クラスに別れた時点で、早くも聡はそれを予感していたのだ。

それでも、それをはっきりと目にしたあのとき、聡の心で何かが割れたのだ。

……ぽろり。

予期せず、涙が転がり落ちた。涙は目じりを伝って、耳の後ろに流れていった。

あのときの記憶と、何かが重なって……現実の聡に涙を押し出させたのだ。