第342話 涙の懇願(1)

センター試験が終わった。

東京は試験日の2日間とも、小春日和にめぐまれ、特に混乱はおきなかった。

近くの大学を受験会場に指定された将は、レポーターに囲まれることなく静かに試験に集中することができた。

さすがのマスコミも、他の受験生の影響を考えてか、受験会場に突撃するのは自粛したらしい。

 
 

6教科7科目の試験をすべて終えた将は、荒江高校よりかなり広い敷地内を出口に向かって歩いていた。

ときおり、将に気付いた女子受験生たちが、指さして顔を見合わせる。

目立たない私服に伊達眼鏡を掛けているものの、その背の高さで将であることは一目瞭然だった。

試験が終わって緊張が一気にほぐれたのか

「将!ドラマ見たよ!」

と叫ぶように声を掛けてくるツワモノもいて、そのたびに将は会釈を返すしかない。

「鷹枝くん」

将は後ろから声を掛けられた。みな子だった。みな子も同じ会場を指定されていたのだ。

『彼女』の登場に、遠巻きにしている女子のため息が聞こえるようだった。

「どうだった? 試験」

「うん。まあまあかな」

その表情から、将の試験の出来は、かなり手ごたえがあったのだろうとみな子は類推した。

特に今日は、将にとっては苦手の英語があったはずだが、その表情は冬の陽射しに照らされていなくても明るいものだったからだ。

「みな子は?」

「あたしも……まあまあかな」

並んで歩く二人の影が、キャンパスの地面ですでに長くなり始めている。

火曜日にあのスキャンダル記事が載った週刊誌が発売されて以来、皮肉にもみな子は将の彼女として周囲に認識されていた。

『……みな子、鷹枝くんとのアレ……本当にしてたの?』

遠巻きにサワサワと噂をするだけのクラスメートの中で、仲の良いすみれだけがそれを訊いてきた。

訊かれたとたん、みな子の中で、あのときの……せつないほどの、血流を支配するほどの感情の昂まりが蘇る。

誰かに訊かれたら『目にゴミが入ったのをとってもらってただけ』とでも嘘をつこうと準備していたのに、みな子の顔ときたら正直に『鷹枝将とキスしました』と答えてしまったも同然だ。

すみれは、そういうことを面白おかしく話したりしない子だから大丈夫――。

そう思っていたが、その翌日には、クラスメートのみな子を見る目が変わっていた。

将の彼女。

みな子は、周囲にそう決定付けられていた。

『星野サぁン、将、○○谷詩織とのこと何て言い訳してたぁ?』

井口まで(もともと将とみな子の仲のよさを茶化していたような彼ではあるが)みな子を将の彼女として扱い出したのには驚いた。

――本当はその逆なのに。将が自分のものになる可能性なんか、ほぼなくなってしまったのに。

かといって、みな子は周囲に否定してまわることはなかった。

将の彼女という、実体のない肩書き。みな子は明らかに悦に入っている自分をわかっていた。

そんな自分を、みな子は時折、笑ってしまいたくなる。自虐。

……それでもいい。

現実は違っても、呼び名だけの彼女でも……将とつながっていたい。

せめて卒業まで。

みな子は、情けなくてみじめで莫迦らしい自分の願いを、今は最優先することにした。

同じ東京の大学に行けたのなら……将の子を聡が妊娠するようなことがなければ、いつもこんな風に歩けるチャンスもいくらかは残されていただろうに。

将と並んだみな子は、今の時間をいとおしむように、キャンパスの風景をみまわした。

同じように出口へと歩いていく受験生たちの背中を、陽だまりが包んでいる。

手ごたえを感じている受験生にも、まったく歯が立たなかった受験生にも平等に。

彼らを見下ろしている桜の枝は、まだむきだしの鉄色のまま、陽射しを受けて鈍く光っていたが、春にはきっと満開になる。

その頃には、将と離ればなれ――。

早くも夕暮れの冷ややかさを含んできた風に、みな子は首をすくめた。

 
 

センター試験を終わらせた足で、将は再び北海道へ飛ばなくてはならなかった。

将のセンター試験終了を待って、明日からさっそく、ロケがあるのだ。

ロケ地近くのホテルに将が入ったのは、夜の9時すぎだった。

将は、さっそく聡に電話を掛けてみる。

「将」

まだ入院中ながら、聡は電話に出てくれた。

「今、ホテルに入ったところ。具合はどう?」

「だいぶよくなったよ。今週中にも退院できると思う。将のほうは……どうだった?」

遠慮がちに訊く聡に対し将は

「たぶん、出来てると思う」

と力強く答えた。

国語・数学といった得意教科の出来は申し分ない。苦手の英語も、いつもに比べるとかなり手ごたえがあった。

「アキラのおかげだよ」

「そんな……将が頑張ったからよ」

将は、電話を握り締めるようにしてもう一度言う。

「金曜日に、アキラが電話をくれたから」

 
 

センター試験前日の金曜日、聡は将に自分から電話をかけた。

火曜に将のスキャンダルが発覚して倒れて以来、度重なる将からの電話を、一切取らなかった聡である。

しかし、自分のことを心配した将が、センター試験で実力を発揮できなくなるのを危惧した聡は、思いなおして連絡をとることにしたのだ。

『アキラ!』

電話の向こうからは、叫ぶような将の呼びかけが聞こえた。

『将……』

『アキラ、具合はどう? 赤ちゃんは……?』

聡の呼びかけに被せるように、将は矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。

『大丈夫。大丈夫だから、心配しないで』

『そうか、よかった……。ずっと連絡とれないから心配で』

安心した将は、電話もメールもくれないし、と続けようとして『あ……』と自ら気付いたようだ。

『アキラ……、あの週刊誌……見た?』

『うん……。みたよ』

聡の返事に電話の向こうで将が息を飲むのがわかった。

『○○谷さんのは単に一緒に東京に帰ってきたときのだし。ホラ、イブにアキラに会いたくて郡山からレンタカー借りて走ってきたっていったじゃん……』

将は弁解を始めた。『馬鹿馬鹿しい』と一笑に付すような口調。

この3日間、頭の中で常に想定していたのか、冷静に紡ぎ出される弁解の途中で

『もう、いいの。将……』

聡は静かに制止した。

『……もういいから』

――もう、決意してしまった。だから、将は弁解しなくてもいい……。

聡はそれでもまだ、心の中に残る未練が、まるで反乱するように胸を締め付けてくるのに必死で耐えなくてはならなかった。

一方将は、弁解が、まだ肝心のみな子のところまで行っていないのに、中断されてとまどっていた。

『アキラ?』

『それより、将。昨日のドラマ、よかったよ』

聡は、力を込めるようにして、無理やり話題を変えた。

『そーかな。視聴率はたいしたことなかったんだけど』

聡からの話題の変更に……聡は本当にスキャンダルなど、気にしていないのかもしれない、と将は安堵した。

やや安易すぎる自分の思考を自覚しつつも、これしきのことで聡との仲が決定的に壊れるはずなどありえない、と信じている。