第345話 涙の懇願(4)

「すっごい強運だね。……これで運を使い果たしてないといいけどね」

将のセンター試験の結果を聞いた岸田助教授は笑った。

キツイ皮肉ではあるが、柔和な笑顔と声に、それは罪のないものになってしまっていて、将も頷きながら顔を崩した。

将は、ひさしぶりに学校帰りに教授の研究室を訪れて、論述の指導を受けている。

 

今週からカレンダーは2月になっていた。

撮りだめを終えた将はようやく学校に顔を出すことができた。

センター試験が終わってすぐに北海道に飛んだのが功を奏したのか、スキャンダル騒ぎも下火になり、学校にやってくる記者もほとんどいなくなっていた。

ただ、連続ドラマがもう3回が放送されているせいか、将の注目度自体は高まっているといえる。

落ち着いた大人ドラマで定評のある木曜10時枠で放送されているせいなのか、今までは騒ぐのはギャルくらいだったのに、OLや主婦の視線を感じることも多い。

視聴率の方は、2回目に少し落ちたものの、3回目はやや持ち直すというよくある推移をたどっている。

15%を越すことはなさそうだが、低調が続く他のドラマと比較すれば、まあまあの健闘といえる数字に関係者はほっとしていた。

将の演技については、父親のことが明るみに出て以来、最初のドラマということでネット掲示板には

『親のコネ。大根もいいところ』

『無駄に身長が高いだけのでくのぼう』

などといった意地悪なカキコミも相次いだ。しかし専門家筋は

『鷹枝将がここまでやれるとは思わなかった。周りの芸達者な俳優達と実に自然に調和している』

と絶賛に近い感想を寄せる者もあった。

新聞や雑誌に載ったそれらは、もちろん武藤が見つけ次第将にFAXしてくれる。

インタビューの依頼も殺到しているらしいが、1月いっぱいですべてストップしてくれた。

だから将は、2月25、26日で前期日程の2次試験が終わるまでは受験に専念できることになる。

 
 

しかし、聡の入院は長引いていた。あのあと、再びの出血をみたからである。

将が学校に登校するようになっても、教壇に聡の姿を見ることはなかった。

将は胸がつぶれる思いだったが、見舞いに行くわけにもいかない。

担任の先生を心配する単なるいち生徒として見舞いに行けば、とも思ったが、注目を浴びる自分が目立つ行動をするリスクは純代に言われなくてもわかっていた。

だから将は聡を心配する心の声を無視するように、勉強に専念するしかなかった将だが、今日はその心労からも解放されている。

昨日、聡から明日の土曜日には退院できるとメールをもらったからである。

土日に会いにいくわけにはいかないだろうが、月曜日には顔を見ることができる……将の心は明るかった。

 

指導を受けている途中で、岸田のデスクの電話が鳴った。

自分の仕事の資料を眺めていた岸田は、それから視線を移すことなく受話器を耳に持っていった。

「岸田です。……ああ、来てるよ。……そうか、よかったな」

そう答えると岸田は、将にちらりと目を走らせた。

将のほうは、岸田に与えられた論述問題に取り掛かっている最中で、岸田が話す内容などまるで聞こえていないらしい。

集中している将に、岸田は満足げに口角をあげると

「……わかった。伝えとく」

と、受話器を置いた。

だが、岸田は何もなかったように黙ったまま、暫く自らの仕事に戻っていた。

「終わりました」

……やっとなんとかまとめた将が答案を岸田に差し出した。

制限時間を2分オーバーしてしまったのに、岸田は将に目をやると

「おめでとう」

とニヤリと笑った。

「ハ?」

「いま、お母さんから連絡があって、K大から合格通知が来たそうだ」

将の父、鷹枝康三の出身大である、一流私立大学。

ごく少人数ながら、センター試験の成績を提出するだけで受験できる枠があり、将は見事そこに合格したのだという。

「……そうですか」

将は淡々と答えると冷めたコーヒーをぐっと飲んだ。そして間髪入れず、次の課題を手にした。

「一流大学に合格したのに、それほど嬉しくなさそうだな」

「僕は、東大以外に進む気はありませんから」

将は課題からまったく顔をそらさない。

岸田はくっと笑いながらうなづくと、将の論文にざっと目を通した。

時間をオーバーしたものの、現役受験生としてはかなり巧みにまとめてある。

二次の前期はあいかわらず望みは薄いという。現に1月末に行われた模試では、あいかわらずD判定のままだった。

が、後期だったら……問題次第では奇跡を起こせる確率の高さを岸田は感じていた。

 
 

「そうか……合格したか」

国会審議が終わるのを見計らって掛けてきた純代の電話で、康三は将がK大に合格したことを知った。

センター試験の結果がとてもよかったということは聞いていたが、まさかK大の少人数枠に受かるほどだとは、康三も想像していなかった。

「今日も遅くなるから、おめでとうと伝えておいてくれ」

このあとも個別議題の審議委員会などに出席しなくてはならない康三だ。

「それが、将も岸田の兄のところなんです。……ところであなた」

純代は仕事中である夫を気遣いながら遠慮がちに切り出す。

「例のこと……。将が東大に受かったら、必ずかなえていただけるんでしょうね」

康三は、鼻から息をもらすと、周囲に聞かれてマズイ人間がいないかどうかを確認した。

幸い毛利がいるだけだった。

「……受かりやしないよ。東大はそんなに甘くない」

わずか、4~5ヶ月の準備期間で……しかも、人よりずっと遅れた地点からのスタートの将に、そんなことはありえない。

自分に言い聞かせるように康三は言葉を吐き出した。

そういいつつも、康三は将が奇跡を起こすような気がして胸が騒ぐ。

『お子さんの知能は、人なみはずれて、素晴らしいものです』

かつて、将が幼い頃通っていたフランスの幼稚園で、康三は園長に賞賛されたことを康三は思い出していた。

これが、もし。

将が、担任教師を孕ませていなかったら。

そして、その秘密をライバルの麻野に握られていなかったら。

親としてこんなに嬉しく誇らしいことはないのに……。

今の康三は、将に奇跡を起こされては逆に困るのだ。

「でも、このようすだと、合格するかもしれませんわ」

康三に対して、まるで合格をのぞむような純代。

近頃、彼女はとみに将の母親であることを意識しているらしい。康三はそんな純代が苦々しい。

「合格したら」

康三はもう一度あたりを見回した。

「いずれかなえてやるさ。……しかるべき時がきたら」

『しかるべき時』がいつなのか訊こうとした純代だったが、忙しいからと電話は一方的に切られた。

純代はため息をつくと、その手で聡への番号を押した。

 
 

風呂に入って自室に戻った将は、まだ少し重い腹をさすった。

暗くなって帰宅した将を待っていたのはごちそうの山だった。

孝太の「お兄ちゃん、合格おめでとう!」でようやく何のごちそうかがわかった。

「本命じゃないけど、いちおう、お祝いにね」

と純代は微笑んだ。ケータリングサービスも頼んだのか、豪勢な食卓は将の好物ばかりだった。

将としてはどうでもいい合格だったが、孝太も純代も嬉しそうだったので、とりあえず付き合ってたくさん食べてしまったのだ。

――聡にもいちおう連絡しておくか。

濡れた髪を拭きながら将は携帯を取り出した。

本命の東大ではないものの……一流であるK大の合格を聞けば、聡は喜んでくれるだろう。

その反応が聞きたくて、あえてメールではなく電話をするつもりだった将は、携帯が点滅していることに気付いた。

どうやら風呂に入っている間に一度着信があったらしい。聡の番号だ。

――なんて気があうんだろう。

ほぼ同じタイミングで声が聞きたくなるなんて。

将ははずむ心で聡へ電話をかける……。