第347話 涙の懇願(6)

「え?」

聡の声は明瞭に聞こえていたが、意味が脳に届かなくて――脳は聞きたくない言葉に対してしばしバリアを張る場合がある――将は、反射的に訊きかえした。

「将とは、結婚、しない」

まるで外国人に話すように、ゆっくりと、かつはっきりと聡は繰り返した。

「何、冗談言ってんだよ」

将はハッと笑ってみる。態度からそれを冗談だと自分に言い聞かせるが如く。

聡の言葉を……あくまでもまっすぐに受け取らないのは、この場合本能なのだろうか。

「……冗談なんかじゃない。将、聞いて。あたし、将とは結婚しないことに決めたの」

低いくせに温かみのある声。それは決して将をいたずらに驚かせようとしているのではない。……そのくらい将にもわかる。

「もう、決めたの」

さらに聡は静かに繰り返した。

「何、言ってんだよ」

本気らしい聡に、将はそれでも、やりきれないため息を吐きながら『ばかな』という口調で応対せざるを得ない。

「結婚しない、って……子供はどうすんだよ」

心臓が、あまりの恐怖に波打ちはじめている。聡を失う恐怖は生命を脅かすそれのように、将を追い詰めていく。

核心を直視するのが怖い将は、とりあえず二人の前に横たわる現実を拾い上げるしかない。

「子供は……あたしが、ひとりでちゃんと育てる……」

「俺は、父親だろ!」

動揺した将は、聡の言葉に大声で割って入る。

『ひとりで』と聡はたしかに言った。

つまり聡は将と別れるつもりなのか。

聡自身から核心を伝えられるのを本能で恐れた将は、将は黙っていられない。

「将」

だが聡は、静かな調子で将を制すると、さらに奥へ……むきだしの本題へと進む。

「あたしたち……別れたほうがお互いのためだと、思う」

聡のほうも……酸素が薄くなったような苦しさの中から、言葉を絞りだしていた。

将は、バットで殴られて地面に投げ出されたように、ショックで言葉が出なかった。

飲み込んだ息がそのまま、体の中で凍り付いている。

『別れ』。聡はたしかにそう言った。

聡が自分の前からいなくなる。

将は、もはや聡のいない世界など想像もできない。いや想像もしたくない。……ありえない。

暫しの沈黙ののち、ようやく問い返す言葉が出る。

「何で……そんなこと、いうんだよ」

聡がなぜそんなことを言うのか、あまりにもショックを受けた将は、考えることすらできない。

「将に……、あたしに縛られないで、自由に生きて欲しいから」

聡は……さすがにもう一つの理由は言えなかった。醜い独占欲に由来するもう一つの理由は……言うつもりもない。

別れの間際に、醜い自己を晒したくない。

聡は今まで生きてきた中でもっとも重い空気に、胸が不自然に上下するのを耐えながら、将の言葉を待った。

しかし、意外なことに。電話は予告もなく、プツッと切れた。

思わず、聡は携帯を耳から離すと、ディスプレイを確認する。

……間違いなく将とつながる電波は切れてしまっていた。

聡は、肺にたまった重い空気を吐き出した。空気と共に体中を強ばらせていた力も抜けていった。

これで、終りなのだろうか。将は、納得したのだろうか。

信じられない。

聡は、将にこちらから電話をかけようか、何度となく迷った。

しかし、なんとか自分を抑える。こちらから掛けるわけにはいかないのだ。

掛けたとして、どうするのだ。

電話を掛けて、別れを納得してくれたのか確認するなど……できるはずもない。

聡は、気を取り直すと、ベッドの上で仰向けに上体を倒した。

白い天井は、スタンドの明かりを映して、くちなし色から灰色へのグラデーションになっている。

明日は退院だ。

まだ10時前だが、少し早めに眠るべく、聡はテレビも付けずに、ナイトキャップがわりの文庫本を開いた。

だが……案の定、眠りが訪れないどころか、文庫本のストーリーも一向に頭の中に入ってこない。

聡の頭の中では、何度となく……煩わしいほど、さっきの短いやりとりが、リピートしている。

将は納得したのだろうか。

いや、あれだけで納得するはずがない。……将はまた、きっと電話を掛けてくる。

聡はとうとう文庫本を閉じると、視線を天井に移した。

だけど。

さっき……電話を切ったのは将のほうからだ。

冷たい理性という思考が、聡の感情に確認したくない事実を突きつける。

もしかして……、まさか将は……別れを待っていた?

聡は目をカッと開いた。

もしかして、将の聡への気持ちは……とっくに褪めていたのだろうか。

自分とのつながりは、『子供に対する責任』のみになっていたのか。

だから、聡の別れの申し出は、むしろ歓迎すべきものだったのだろうか。

理性は残酷に……聡が望まない道筋を次々と組み立てていく。

――いや!

聡は思わず起き上がった。

自ら思いついた考えの恐ろしさに、震え始める。

それを抑えるように膨らんだお腹に手をあてる。胎児は沈黙したままだ。

そんなはずはない。

聡は、将が自分を愛している証拠を、記憶の中に探した。

愛の記憶は、溢れんばかりにあった。

だけど……今年になって。あの元旦のみな子とのキス以降、それは見つからなくて、聡は崖っぷちに立たされる。

違う。決して違う。

聡は必死で否定する。クリスマスには、大晦日の夜には。

だけど、恋は自分にもそうだったように、突然落っこちてくるものなのだ。

将の中で、みな子の存在がいきなり膨らむ、というのは充分にありえることなのだ……。

冷静な思考が、聡の感情をズタズタに切り裂いていく。

だけどボロボロになりながら、聡の感情はまだ叫んでいた。

これで終わるはずがない。こんなにあっけなく、終わるはずがない……。

 
 

突然、大きな音がした。

聡はハッとして、顔をあげた。

そこには……将がいた。病室のドアが開いて、将が立っていた。

伊達眼鏡も変装も何もしていない……聡が一番逢いたかった将の姿が、突然現れたのだ。

将は肩で息をしながら、病室のドアを後ろ手で閉める。

入ってきたそのときから、聡の顔から視線を少しもはずさない。

「アキラ……、何で泣いてんだよ」

将がいうとおり、聡の目はさっきから、涙をこぼしていたのだった。

それは……布団のカバーをしっとりと濡らすほどだった。

「……しょう」

目を紅く充血させた聡は、まだ信じられなくて、近づいてくる将を見上げた。

涙は止め処もなく溢れてくる。

「アキラ」

将は瞳を濡らしたままの聡に手を差し伸べる。

そのまま抱きしめようとする大きな手を……聡はかわした。

「どうやって、ここに来たの? ……面会時間は過ぎてるでしょう」

「そんなことどうでもいい」

将はそれだけ答えると、有無を言わさず、無理やり聡を抱きしめた。

「さっきの、電話……なんなんだ」

さっきの聡の言動に比べれば……どうやって家を抜け出したか、そしてどうやってナースを説き伏せてここへたどりついたかなど、些細なことだった。

聡のぬくもりに触れた将は、凍りついた息がようやく溶けたように、吐き出しながら背中を撫でた。

「……冗談にしてはひどすぎるだろ」

将は聡の髪に顔をうずめながら、その甘い香りを吸い込みながら、抗議した。