第386話 最後の夜(5)

エアコンがシュー、という音を立てて、また動き始めたようだ。

まだ3月なかば、外は相当に冷え込んでいるのだろう。

聡は傍らに眠る将の布団をかけ直すと、携帯をあけて時間を確認した。

2時半すぎ。

明日、将がここを出るのが7時半。

試験は9時30分からだが、念のために1時間前には試験会場に到着するようにと聡は助言した。

もちろんゆとりを持つためでもあるけれど……さっき、将が風呂に入っているときにチェックした博史からのメールには、朝8時すぎに迎えに来るとあった。

朝一番で同行する産科医に病院で検診をしてもらい、そのまま空港へ向かうことになる。

将がもしここでゆっくりしていけば、土壇場ですべてが崩れる危険があるのだ。

 

だけど、聡はそんなことを忘れて、今はただ将の寝顔を見つめていた。

あいかわらず真っ暗にはならない東京の夜。

そんな薄闇の中に、目を凝らせばいとしい将の寝顔は、はっきりと見えるようだった。

将と一緒にいられるのも……あと5時間。

暗がりに身を起こした聡は、将の寝顔を目に焼きつけるべく、微動だにしなかった。

 
 

「正月以来かな……二人で寝るの」

今から3時間ほど前。聡は明日に備えて早めに寝るように将にうながした。

将は素直に従いながら、そんな風にはしゃいでいた。

狭いシングルベッドも将に言わせると

「その分、アキラにくっつけるからいいよ」

と嬉しいことらしい。

お腹が大きい分布団の幅が足りなくなったらいけないと、聡は布団の上に毛布を2枚重ねた。

そしていつもは消すエアコンを、つけておく。

受験前日に風邪などひかせたら元も子もないからだ。

灯りを消してもしばらく将は嬉しそうに仰向けになった聡のほうをむいていた。

将の瞳の嬉しげな動きは、薄暗がりの中に三角形に浮かぶ白目でわかった。

「ね、アキラ」

「なあに。……早く寝ないと。明日は余計に頭を使うんだからたっぷり睡眠をとらないと」

聡はさっきから、分別くさい言葉を選ぶようにしている。

刻一刻と迫ってくる別れから目を背けるように。

自分の感情が高ぶらないように。

将は、わかってる、といいながらいったん身を起こすと、せりでたお腹に耳を押し付けるようにしてそっと抱き寄せた。

『ひなた』がそれに気づいてかごぼごぼと体を動かし始める。

この子も、実の父との別れがわかるんだろうか、と考えそうになった聡はあわててそれを打ち消す。

聡の感情は一触即発だった。

少しでも刺激を与えれば大声で泣いてしまいそうになる。

……それをさっきから堪えている。

「おなかの子、動いてるね」

将は嬉しそうに聡を振り返った。目が輝いているのが暗がりでもわかる。

「うん……」

あと2か月かあ……と将はいとおしげに聡のお腹ごと『ひなた』を抱きしめた。

『ひなた』はくるくるとお腹の中で動いた。

まるで笑っているかのように。

「男か女か、まだ教えてくれないの?」

「……明日試験が終わったら教える」

聡は、眠くて目をこするふりをした。

……目にたまったものを、将に見られないようにぬぐうために。

「アキラ」

傍らで布団にもぐりこみながら、将は今度は聡の手をさぐってきた。

聡の左手はちょうど、『ひなた』がいるお腹の上で将の手と重なった。

まるで親子3人で約束を交わすようだ。

「明日、大磯の家に行ってて……」

将の瞳は暗がりの中でもまっすぐに聡を見つめていることがわかった。

「そこで待ち合わせよう。そのまま、発表まで……隠れとこう」

将の計画。

まだ二人の明日が同じ明日であることを信じているゆえの……計画。

「いいだろ」

聡の手をにぎる将の手の力が少し強くなる。

暗がりに目が慣れるのを聡は恐れた。

自分の裏切りが、将にすっかり見えているのではないかと。

「……うん」

「絶対、来いよ」

将は念を押すと、暗がりの中、聡を見据えた。

聡はそんな将を見つめ返す――。

ひょっとして将はすべてわかっているのではないか。

それを見極めなくては、というよりは……将の真剣な瞳に、視線が吸い寄せられて離れられなかったのだ。

真摯に自分を見つめる将は、美しかった。

薄闇の中、二人は見つめあった。

それが、一瞬なのか、長い時間だったのか……二人とも忘れていた。

「……うん。わかった」

ようやく聡は返事をすることができた。

針を飲み込むほどつらい嘘の……返事。

でもそれを言わなくては将は安心して試験に臨めないだろうから。

将は安心したように微笑むと、もう一度聡の手をぎゅっと握った。

「俺、絶対にアキラを幸せにするから」

今度はさっきより柔らかい瞳が向けられている。

温かいその手から……将の思いが血管に注ぎこまれるように、体が温かくなっていく。

愛されている。

その温かさは、明日に迫った別れを忘れさせるほど甘やかに聡を包み込んだ。

「あたしは……もう、十分幸せだよ」

思わず聡はつぶやいた。

今が、幸せ。

こんなにも愛する人に出会えて……愛されて。

こんな至福の瞬間を味わえた。それだけでいい。

「俺も……俺もアキラに出会えただけで、一緒にいられるだけですっげー幸せなんだけど。……ずっと幸せでいような」

二人は同じ幸せを今噛みしめているのだった。

ただ、聡だけがそれが今だけであることを知っている……。

「何?」

ふいに身を起こした聡を将は寝そべったまま見上げた。

「トイレ」

聡は言い訳しながらそっと立ち上がった。

「あー、トイレまで一緒にいけたらいいのになあ」

そんな冗談をいいながら将は仰向けになった。

二人の幸せが未来永劫続くことを信じている、無防備な横顔。

「バカ」

冗談に応じながら、トイレに入った聡は、とうとう声をしのばせて泣いた……。

 
 

時計は3時半に近づいている。

完全には暗くならない東京の夜は、あいかわらず将の寝顔を浮かび上がらせていた。

夜明けまであと少し。

将といられるのはあと4時間。

その鋭い鼻梁も、出会った頃よりがっしりとした輪郭も。

その下に澄んだ瞳を隠した瞼も、長いまつ毛も。

りりしい眉毛も、形の良い唇も。

将のすべてを焼きつけようと、聡はずっと見つめている。

いつでも取り出せるように。

こんなにも愛したのは将ひとり。これからも……。

たった一人の人。

おそらく生涯最後の将との夜は……まもなく明けようとしていた。