第394話 最終章・また春が来る(2)

陽が暮れてから、雪は本格的に降り積んだらしい。

車の中でもあいかわらず資料に集中していた将は、家の前に降り立って初めてうっすらと積もった雪に気づいた。

見渡すと屋根にも、植栽にも粉砂糖のような雪がのっている。

吐く息が一瞬何も見えないほど白く濁る……気温はおそらく0度近いのだろう。

カーテンの隙間からもれる暖かい色の光に、雪の一部はほんのりと染まっていたから、まだ誰か――おそらく長男の海(かい)が起きているのだろう。

 
 

ここ数年、東京では2月に毎年のように大雪が降る。

そのくせ、3月には汗ばむほどの陽気になる……環境問題に詳しい妻に言わせれば、温暖化によって気候が変動しているのだという。

「ただいま」

玄関に立った将は控え目な声で帰宅を告げた。

すると奥からパジャマ姿の少年が走り出てきた。次男の了(りょう)だ。

「お父さん、おかえり」

「なんだ、了。まだ起きてたのか……もう12時すぎてるぞ」

少しだけ咎める口調になった将に、了は

「今寝るところだったんだもん。明日休みだし」

と可愛らしい目をくるっとこちらに向けた。

「そうだったな」

返事をしながら将は、了のおでこから頭をくるくると撫でてやった。

この9才の次男は、見れば見るほど弟の孝太の小さいころにそっくりで、顔立ちが愛らしい。

「おかえりなさい、将」

顔をあげると、義母の純代がリビングのドアをあけて微笑んでいた。

「ただいま、お義母さん……すいません、毎晩遅くまで」

将も軽く会釈する。

「いいのよ。そんな寒いところにいないで、二人ともこちらにおいでなさい……将は、お食事は?」

「何か軽いものがあったら……お茶漬けでも、味噌汁だけでも」

「ちょうど、豚汁があるわ」

「……そうですか。いただきます」

純代は、将一家と同居していた。

純代の夫であり、将の父である康三は、2年前に他界していた。

あれから……あの年にあった総裁選でライバルに圧勝して総理になったものの、わずか1年で病を得て失脚してしまった。

以来、よくなったり悪くなったりしながら議員は続けていたが、とうとう3年前に倒れてしまったのだ。

純代の実子である孝太は大手企業に就職し、ここ数年は妻とともにドイツのデュッセルドルフへと赴任している。

この年で外国暮らしはなじめないだろう、と純代は孝太夫妻についてゆかなかった。

『一人暮らしでも大丈夫よ』と純代は気丈にも言ったが、

『せっかくだから、みんなで楽しく暮らしましょうよ』と将の妻は誘った。

純代の姪にあたる将の妻と純代は、日頃から仲がよかった、ということもあり、継子である将との同居を選んだのだ。

忙しい妻に代わって、海や了の面倒をよく見てくれていて、今の将はいろいろな意味で純代に感謝している。

 
 

了は気がつくと、玄関の横のガラス窓に頬をくっつけるようにして外を見つめていた。

窓には、雪明かりだろうか、うっすらと雪化粧した外がいかにも寒そうに映っていた。

「……小さいお兄ちゃん、寒くないかな」

小さいお兄ちゃん、とは了が生まれる2年ほど前に、心臓に難疾患を持って生まれ……生後わずか半年で亡くなった将の息子である。

了は最近、生まれる前に亡くなった兄の存在を知ったばかりなのだ。

そんなふうに他人を気にかける優しいところまで、了は孝太にそっくりだった。

「……了は、もう寝なさい」

「はい」

了は素直にうなづくと、自室がある2階へと駆け上がっていった。

「静かにな」

将はそっとその後ろ姿に声をかける。了の部屋の隣にある海の部屋の扉からは細く灯りが漏れている。

長男の海は来週に控えた中学受験にそなえて猛勉強中なのだ。

将が首相官邸に住まずに、こちらの私邸から通うようにしているのはこの二人の子供たちのためである。

邪魔しちゃいけない、と将は足音をやや控えめにして廊下を歩くと、いったん寝室に向かう。

スーツを脱いで体を解放したかった。

部屋に入ると、ぐい、とネクタイをほどきながら、携帯をチェックする。

スイスで開催された学会に出席している妻からメールが入っていた。

 

   >明日の夜には帰れます。お土産にフォンデュに使う鍋を買っちゃった。

   >少し早いけど海の合格祝いに、腕時計も買っちゃったけどいいよね。

   >香奈

 

選んだ品物のよさを自慢するように、鍋と腕時計の画像が貼りつけてある。

将は……純代の兄、つまり岸田教授の娘である香奈と14年前に結婚していた。

その香奈は、研究者としての素質を父から受け継いだのか、ファーストレディながら環境学者として活躍している。

あいかわらず明るい性格の妻に、将の心はふっとほどけた。

聡を失ってボロボロだった将の心は、この香奈によって救われたといえる。

スーツから忘れずに手帳を取り出しておこうとして――将の視線が万年筆に留る。

愛用の万年筆は……25年ぶりにその存在を将にアピールし始めるかのようで、将はそれを握りしめるとため息をついた。

脳裏には……さっき、テレビ局で面会した月舘よう子、こと、古城陽が蘇っている。

 
 

「総理。……私の本名は、古城陽(ひなた)っていうんですよ」

陽はまっすぐな瞳で将を見つめていた。

胸の奥底に、いろいろなものが湧き上がるのを、将は感じていた。

だけど、それを意図的に感情に結びつけないようにコントロールする技を、44歳になった将は身に付けていた。

ここは人目が多すぎる。

「古城……。先生の娘さんか」

かろうじて、無難に返しながらも、将は目の前にいる美しい女性をもう一度見つめ直した。

将は……かつて1歳半ほどの彼女に会ったことがある。

正確にいえば会ったというより、遠くから見たといったほうが正しいが。

そのとき目にしたチョコチョコと歩く愛らしい姿から見れば、目の前にいる背の高い女性は、ヒヨコが急にツルに成長したような唐突さがあった。

だけど考えなくても将にはわかっていた。彼女は自分の娘なのだ。

25才、という年齢からの逆算は後から追い付くかのようだった。

「はい」

と返しながらも、陽のその瞳は、すべてを……つまり、自分が父親であることをすでに知っているように思えた。

だけど、軽率にそれを口にするわけにはいかない。

ゆえに言葉が見つからない将は、

「そうか。先生の……」

とだけ繰り返した。

陽は確かに美しいが、あまり聡に似ているとはいえない。

しばらく見つめているうちに、この、どこかで見たようなおもざしは……自分のものなのだ、と唐突に気づく。

陽の顔は……女性らしい華やかさが加わってはいるものの、主に将のパーツを受け継いでいた。

だけど、体全体を包むオーラのようなものは、聡からのものに違いなかった。

「いや……びっくりしたよ。彼女、僕を立ち直らせてくれた恩師のお嬢さんなんだって」

秘書の三島がけげんな視線で二人の顔を見比べ始めたのに気付いて将はさりげなく取り繕った。

陽も、にこやかに三島にもう一度会釈をする。

それにしても、どうして彼女……陽は『原田』でなく、聡の旧姓を名乗っているのか。

アメリカ生まれはわかるにしても、どうしてフランスに渡ったのか。

どうして、日本で女優業をしているのか。

急に美しく成長して現れた女が、血を分けた娘であるという感慨よりも、疑問が波のように起きる。

そして、疑問は1か所に集まる。

聡は今……どうしているのか。もしかして幸せではないのか。

「立ち話もなんだから、少し彼女と話してもいいかな」

将は三島と、陽のマネージャーに頼んだ。