第61話 孤独(3)

ゆっくりめに出勤するのだろうか、9時ごろになるとフロントは平日のクリスマスなりに、チェックアウトするカップルでごったがえしてきた。

一時ほどの流行ではないにしてもやはりクリスマスイブをホテルで過ごす恋人たちはあいかわらず多いらしい。

将は、聡を見逃すまいと、エレベーターが着くたびに目を凝らした。次から次へと着くので気が抜けない。

それでも10時頃にはいったんピークは過ぎたらしい。あわただしさが少し和らいだ。

気がつくと、将の向かいに品のよい老夫婦が腰をおろしていた。60代ぐらいだろうか。二人とも品の良い服を着ている。

「ちょっと電話してみようか」

夫が携帯を取り出す。

「やめなさいよ。まだゆっくりしてるのよ。邪魔しちゃ悪いわ」

とたしなめる妻の細い目のあたりに将は見覚えがある気がした。誰だかわからないが、ごく最近見た気がする……。

そのときまたエレベーターが着いて、中から人が降りてきた。

その、淡い色を身に付けた女性を聡だと判別するのに一瞬とまどった。

――ふだん、教壇に立っている聡は固い色のスーツにひっつめ髪だし、私服の聡はカジュアルなジーンズに髪を後ろで1つか両側に2つに結んでいることが多かった。

その淡い色のシックなワンピースを着けた女性は、下ろした髪をきれいにカールしていたこともさることながら。

スーツを着た博史に寄り添うその顔は、頬を染めて微笑んで幸せそうに見えた。

 

 

  
その10分ほど前。

ホテルのサロンに博史が迎えに行くと、ちょうど見計らったように聡の髪は仕上がるところだった。

「きれいに出来たね。どこから見てもお嬢様だ」

微笑んで賞讃する博史に聡は

「なんか、照れくさいわ」

と答えながら再び鏡を見た。

ふだん身につけることのない、淡い色のワンピースを身に着けた女がその中にいた。

通常は無造作にまとめている栗色の髪は乱れることなく、つややかな内巻きになっている。ピンク色のマニュキアを施された爪に、丁寧に塗られたファンデーション。

鏡の中の像は、自分であって、自分ではないのではないだろうか。

今から、婚約者の両親の家に挨拶にいく慎ましい女。これは果たして聡自身だろうか。

聡は、何か、今から舞台の上で芝居でもやるような気分になっていた。

二人きりのエレベーターで、博史は聡の髪をくずさないように肩を抱き寄せ、そっと囁いた。

「服のサイズは大丈夫だった?」

うなづく聡に

「まあ自信はあったけどね。さんざん実物に触ってるから」

とニヤリと口角をあげる。

「ヤダ……」

聡が赤くなって下を向いたとき、エレベーターが1階についた。

 

 

  
将が聡を見つけて立ち上がったとき、前にいた老夫婦も立ち上がった。

「おう、博史!」

夫のほうが声をかけながら、聡と博史のほうへ大またで歩いていった。

「……父さん?わざわざ迎えに来なくてもよかったのに」

「お前が嫁さんを連れてくるっていうから、いてもたってもいられなくてな……。すごい美人じゃないか」

夫妻そろって聡を微笑んで見ている。

聡は自己紹介と挨拶をした。うまくお嬢さんを演じられていると思う。

「出てきちゃって、母さんは、体は、大丈夫なの?」

博史は母の体を気遣った。

「最近はすっかり大丈夫なのよ。聡さん、これからよろしくね」

「ハ……、ハイ」

聡はあせってお辞儀をした。

博史の母・薫は、『取り乱すたち』には見えず、落ち着いた穏やかな人柄に見えた。顔色も悪くはなく、余命1年というのは言われなければわからないだろう。

「さっそく、うちに帰って乾杯しよう。聡さん、今日はゆっくりできるんだろう?」

話がまとまると、博史はチェックアウトしにいった。

聡はその間、夫妻とにこやかに言葉を交わしていた。

将はラウンジで立ち尽くしたまま、そんな聡をずっと見つめていた。

聡が少しでもこちらのほうを見れば、気がつく距離である。しかし、聡はこちらにまるで気付かない。

――緊張しすぎていてまわりがまるで見えていなかった聡に将を見つけられるはずもない、ということが将には考えられない。

チェックアウトから戻る博史が、将に気付いた。

聡の方を見るが、将に気付いていないのを見ると、わざと聡と将のあいだに立ちふさがり、一同を促した。

4人は駐車場出口へと歩き始めた。

博史だけが将を一度振り返った。聡の姿だけを目で追う将はそんな博史にも気付かない。4人が見えなくなるまで、ラウンジで立ち尽くしていた。

フロントの賑わいからもクリスマスツリーからも取り残されて、将に寄り添うのは孤独、ただそれだけである。

 

 

  
将はミニを走らせていた。

やみくもに車線を変更するように、運転に集中する。聡のことを思い出さないように。

……頬をそめて博史によりそう聡は幸せそうだった。笑顔で博史の両親に会っていた。

信号が赤になった。将はハンドルにつっぷした。

――もうダメなのか。アイツとモトサヤに戻ったのか。そのまま結婚してしまうのか。

すべての希望はなくなったのか。

それを認めたくなくて、青になるなり、アクセルを踏みスピードをあげ運転に没頭する。

 

  
気がつくと、あの海辺の道を走っていた。

聡とびしょぬれになってはしゃいだあの海岸が右に見える。

将はあのときと同じ場所に車を停める。

外に出たとたん、北風が将に吹き付けた。

朝の青空はどこかへ消えて、白い雲に一面に覆われた空の下、冬の海は暗い色をたたえて波が荒い。

サーファーですらいない寒い海。金色に輝くような9月のあの日は幻だったのだろうか。

冷たい風が染みて将の目から涙がこぼれた。涙は突風にあおられて飛んでいった。

それまでは泣くことなど忘れていたような将なのに、聡を好きになってから、何度涙を流しただろうか。

泣くことだけでなく、笑うこと、喜び、哀しむこと、せつなさ、嫉妬……。

爆破事件以来、凍ってしまったかのようなすべての将の感情を溶かしたのは聡その人だ。

将は空を仰いだ。

その聡が、将をおいて、いってしまう。

飛び立ったかもめが1羽、白い空の中を飛び去ってゆくのが見えた。

 

 
「山田さん、山田さんだろ」

と背後から声。

将は防波堤の上で釣りをしていた。聡との想い出の海岸の先にある、聡と……教師と生徒になるまで、通っていた防波堤で。

ゆっくりと振り返ると、黒いボアのついた紺の防寒ジャケットを身につけた『お巡りさん』が自転車をとめてこっちに近づいて来ていた。

空が暗くなって雪が再び舞い始めていた。降り始めるなり雪は勢いを少し強めた。

「ひさしぶりだねえ。どうしたんだい、こんな寒い日に」

『お巡りさん』の制帽や紺の防寒ジャケットも将のところまで歩くだけで雪でまだらになった。

「どうも……」

将は頭を下げると再び釣り糸に意識を飛ばした。

雪は次々と海の中に音もたてずに吸い込まれていく。

「あーあ、雪積もっちゃってるよー」

防波堤に腰掛ける将にもすでに雪が貼り付いている。『お巡りさん』は将の肩や背中、頭の雪を払いながら

「さては彼女に振られたんだろ」

と笑った。

返事をするかわりに、目からまた涙が出てきた。

『お巡りさん』は将の涙を見て、あせって

「すまんっ!悪かった!」

と謝り、

「元気出せ。女は1人じゃないぞ」

と付け加えて金融の広告が入ったティッシュを取り出した。

優しくされて将の涙はますます止まらなくなった。

ふりしきる雪の中、自らが流す涙だけが温かく頬をつたった。

流した涙は口に入ると海の水のようにしょっぱかった……そのしょっぱさですら、あの海での二人につながる。

『お巡りさん』が慰める言葉は頭には入らなかったがその温かさは心には染みた。

そして温かさは、聡の記憶を呼び起こし、次なる涙を連れてくる。

このままつらい思い出になってしまうには美しすぎるかけがえのない場面の数々。

将はただ涙を流し続けた。

差し出されたティッシュは全部なくなってしまった。